ほたり、ほたりと、赤い雫が落ちてゆく。
少女は、自身の中の熱い血潮が抜けていく様子を見ながら、すぅー、と身体が心地よく冷めていくのを感じた。
あまり傷が深くならないよう、鋭利な刃物で傷つけた手首から流れている赤い血は、地面へ置かれた壺に吸い込まれるように落ちていく。
両手に収まる程の壺は口が広めに作られており、少し上から血を落としてもあまり零れ落ちないようになっている。
(一滴でも零すわけにはいかないもの)
血を流している少女・林明玉は、壺から目を離さずに思う。
零すわけにはいかない理由はいくつかあるが、その一つは場所の問題だ。
ここは龍玲国の首都・玲雅にある皇城のさらに奥。国を治める皇帝が住まう宮城の妃たちが住まう場所――つまり、後宮なのだ。
皇帝の私的な空間である後宮で、血を流すなどという穢れとも言える行為をしているのだ。ただでさえ忌み嫌われる行為なのだから、せめて零すようなことはしないよう気を付けているというわけだ。
今も、近くを通った同じ宮で生活をしている妃嬪が嫌悪も露わにひそひそと話している。
「また林明玉が血を流しているわ。おぞましい」
「本人は病の治療だとか言っているけれど、本当かしら? 寧ろこの宮中に穢れや呪いを掛けているのではないの?」
当然と言えば当然なのだが、それでも酷い言いようである。少なくとも、こうして瀉血しなければ明玉が死んでしまうことは事実だというのに。
(やっぱり昨日の夜に済ましておけばよかったわ)
そうすればこのように他の妃に目撃されて、彼女たちを不快にさせることもなかったのに。
とはいえ、昨夜人目を忍んでできなかったのは彼女たちに仕事を押し付けられた所為でもある。血など見せることになって申し訳ないと思う反面、お前たちのせいだろうとも思った。
(ま、どっちもどっちということでいいわよね)
そう結論付けた明玉は、もう彼女たちのことは気にしないことにした。
あまり気にして血が零れてしまっては困る。
この血には、宮中を汚すわけにはいかないという理由よりも、もっと重大な秘密があるのだから。
妃嬪の中でもかなり下の身分である下級妃で、病が理由とはいえ血を流す明玉は、お世辞にも妃とは言えない生活をしていた。
侍女はつかず、食事は自分で取りに行き、与えられた仕事は宮の外の掃除。はっきり言うと、下女と何ら変わりがない。
しかも穢れが移っては困るから、などという理由で洗濯や宮の中の掃除は任せてもらえず、もっぱら外――しかもあまり人が通らない場所の掃き掃除ばかりをさせられていた。
水仕事ではないのでそれほど手が荒れずに済むのは助かるが、雨の降りやすい夏や、凍える寒さの冬に外での仕事は苦労する。
とはいえ、人が来ない場所なので秘密のやり取りをするにはうってつけだった。
「はい、今日の血。処分をお願いね」
そう言って明玉は今朝流した血が入った壺を目の前の相手に渡す。
相手は、細長い尾を器用に使い壺を受け取ると、「承知した」と言葉を発した。
そのまま壺の蓋を尾の先で開け何事かを呟くと、中に入っていた赤黒い液体が壺の底に吸われていくように消えていく。空になった壺を明玉に返したその相手は、掃き掃除を再開させた明玉をじっと見上げて深くため息を吐いた。
「はぁ……明玉は美しい娘だというのに、このような下女がする仕事ばかり。器量だってそれほど悪くはないのだから、高位の妃の侍女にもなれるだろうに」
そう話すのは、青とも緑とも取れる、美しい色合いの外皮を持った蛇だ。
この蛇とは十年ほどの付き合いになるが、人語を操り、摩訶不思議な術を使う蛇など普通に見れば妖魔や幽鬼の類と思われるだろう。なのでこうして人目を忍んで会っているのだ。
不満気な蛇の言葉に、明玉は箒を動かしながら苦笑いした。
「しょっちゅう血を流す娘なんて誰も侍女にしたくないでしょう」
無茶を言うな、と告げると、蛇は落ち込むようにその鎌首を深く下げ項垂れる。
「ワシのせいだな、すまない」
「謝らないでっていつも言っているでしょう、バン。あなたがいなければ、それこそ私は十年前に死んでいたんだから」
しゅん、と落ち込む蛇――バンを見て、明玉は呆れのため息を吐く。
そう、このバンがいなければ自分は幼い頃に死んでいたのだ。
十年前、まだ七つだった自分は両親と共に洪水に巻き込まれた。両親とは別々に流され、流木が腹に刺さり、瀕死の状況。そこへ現れたのがこのバンだ。
現れたときは力強い龍の姿で、その強い霊力で怪我を直してくれた。
そのときの明玉は血もかなり流れてしまっていたらしく、血を増やすための術も使ってくれたとのことなのだが、問題はその術だった。
術そのものは問題なかったが、バンはうっかり込める霊力の量を加減しそびれてしまったのだそうだ。
結果、明玉は通常よりも血が多く作られる身体になってしまった。
毎日ある程度の血を身体から出さなければ、頭痛やめまいなど体調不良に陥る。体調不良だけならばまだいいが、瀉血せず放置すると多くなった血がどんどん濃くなり、塊ができて死に至るらしいのだ。
なので明玉は、周囲に何と言われようが生きるために血を流すしかない。
(でもまあ、そんな娘をよく後宮に入れようなんて思ったものよね……)
洪水ではぐれた両親は数日後遺体で見つかった。亡くなった両親の代わりに明玉を引き取ってくれたのは父の弟である叔父だったが、事故後瀉血しなければ死んでしまう身体となった明玉を気味悪がって、それはまあ酷い扱いを受けた。
初めはただ遠ざけるだけだったが、『そんな身体で生きる意味はあるのか?』と言われ食事を抜かれることはしょっちゅうであったし、ときには暴力を振るわれ、血が流れても『どうせ血を流さなければ死ぬのだろう?』と、寧ろ瀉血してやっているのだと言わんばかりの態度だった。
叔父がそのような状態なので、叔母も従姉妹たちも明玉を襤褸雑巾のように扱った。
そんな中でも生きてこられたのは祖父がいたからだ。祖父は明玉の唯一の理解者であり、叔父たちを諫められる唯一の人物でもあった。
だが、そんな祖父にも寿命は来る。
一年と少し前に風邪をこじらせてそのまま亡くなってしまったのだ。
唯一の味方であり理解者を亡くした明玉は、今後を考えいっそ家を出て叔父たちから逃げようかと考えていたのだが、祖父は遺言を残していた。
祖父は死期を悟っていたのだろうか。遺言書には、明玉をこの龍黎国の皇帝に献上するようにと書かれていた。
しかも、どういった伝手を使ったのかは分からないが、すでに準備は整っているということで宦官の迎えまで来たのだ。
叔父たちが口を出す暇も、明玉が状況を理解する暇もなく後宮へと入れられた。
祖父が何を考えてこんなことをしたのか分からなかったが、理解者であった彼が明玉を苦しめるために後宮へ入れたとは考えづらい。
実際、後宮では以前同様気味悪がられてはいるが、食事を用意されないということはないし、暴力を振るわれることもない。ちゃんと屋根のあるところで臥搨に横になって眠れるし、衣服も支給される。
少なくとも、叔父のもとに居続けるよりは安穏とした生活が送れていると思う。
ただ、やはり祖父が何を考え明玉を後宮になど入れたのかだけは分からない。祖父のことを知っているバンにも聞いたが、『分からない』という答えしか返ってこなかった。
そうして過去を思い返していると、バンが「だがなあ……」と落ち込んだ様子のままで呟き、明玉は記憶の海から意識を引き戻した。
「ワシが助けたせいで、とんでもない秘密を抱えさせてしまっただろう?」
首を上げたバンの目は潤んでいる。本来の姿は荘厳な龍だというのに、蛇の姿でこのような仕草をするバンはどこか愛らしい。
可愛いバンに見上げられた明玉は、にっこりと笑い首を横に振る。
「確かにとんでもない秘密だけれど、それ自体を苦に思ったことはないよ。だって――」
話しながら、茎が折れてしまった花を見つけた。花弁はまだ色艶がいいのに、このままではしおれて枯れてしまいそうだ。
明玉はその花の側に行き、左腕の袖をまくる。
今朝傷つけた手首には今は傷跡すらない。そこをまた軽く傷つけ、明玉はほんの少量血を流した。
赤い雫は花の折れた茎の部分に落ち、まるで時間を巻き戻したかのように折れた茎はもとに戻っていく。
その様子に満足そうな笑みを浮かべた明玉は、傷口を拭い血を止める。するとその傷口もゆっくりと消えていった。
傷の痛みもなくなると、明玉はバンへと顔を向け話の続きを口にする。
「苦に思ったことなんてない。こんな風に、たくさんのものを癒せることができるんだもの」
そう、龍であるバンの霊力を多く含んだ明玉の血液は、あらゆる傷や病を治すことができる霊薬となってしまったのだ。
叔父たちに知られては、閉じ込められ搾取されかねない。だから可愛がってくれて信頼していた祖父のみに話し、ずっと秘密にしてきた。
バンは自分のせいで本来しなくてもいい不安を抱えさせてしまったといつも申し訳なさそうに言うが、明玉自身は霊薬となった自分の血を割と気に入っている。
だから気にしないでほしいと暗に告げるが、バンは申し訳なさそうな目を止めない。なので明玉は話題を変えることにした。
「それよりも、何か面白い話はないの? 今日も色々見て回っていたんでしょう?」
明玉の血を特別なものにしてしまったという責任感からか、バンは助けてくれたあの日からずっと近くにいてくれる。ついにはこの後宮にまで付いてきてくれて、愛憎に満ちていると言われるこの場所で明玉が危険な目に遭わないよう情報収集をしてくれていた。
蛇以外にも色々な姿に変化できるバンは、その能力を使い様々な場所へ行き、妃嬪や宦官、下女たちの様子を盗み見ているらしい。
「そうだなあ……明玉に直接関係がありそうな話だと、尚食局の包人が新しい料理を開発中らしいぞ?」
「へぇ、誰の新作料理? 先日新しく来た人は面白い味付けをするってバンは言っていたけど、まさかその人?」
「いや、何年も務めてる経験豊富な包人だよ。その新人に触発されて色々試しているみたいだ。少し味見をしてみたが、なかなか美味しかったぞ?」
それは楽しみね、と明玉は頷く。美味しい料理であれば、皇帝や後宮の高級妃である四夫人の誰かに気に入っるかもしれない。そうなれば、多く作られて下級妃である自分のもとへも渡るだろう。時間は掛かるが、それを楽しみにすると日々が少し豊かになるのだ。
いい情報を聞いたと小さく笑みを作ると、バンは次々と他の話を始めた。
バンの話は大きな事件から些細な笑い話まで多岐に渡る。仲のいい妃も、本来一人くらいはいてくれるはずの侍女もいない明玉にとって、バンの話は後宮の状況を知る唯一の情報源だった。
箒を適当に動かしながらバンの話を聞いていると、話は最後にいつもの情報に行きつく。
「あとは、いつもの皇帝の話だな。昨夜相手をした妃も、今日は体調不良となっているらしい」
「体調不良……ということは、やっぱり夜のことを覚えていないの?」
「ああ、昨夜皇帝と寝室に入った後からの記憶が曖昧らしい。それと、めまいや立ち眩み、疲労感があるのもいつもと同じだな……怖がっていたよ」
「そう……また、妃嬪が一人いなくなるのかしら?」
バンが最後に付け加えた言葉に、明玉は悲しげに瞼を伏せる。
通常、後宮において皇帝と夜を過ごすということは大変名誉なことだ。気に入られ、寵姫となり皇帝の子を身籠れば、成り上がることも夢ではない。その分命の危険に晒されることも多いが、それだけの魅力があるのだ。
だが、今代の皇帝においては少々事情が異なる。
現皇帝・王偉龍は不老不死の秘薬を求め狂っていったと言われている前皇帝を処刑し即位した皇太子だ。その経緯と、前皇帝のせいで起こった戦での冷徹な采配もあって冷血王と名高い人物である。
その冷徹ぶりは戦だけには留まらず、皇城内でも気に入らない者は切って伏せられるとの噂で、多くの者から恐れられていた。
しかもなぜか目だけを隠す鬼の面をつけているらしく、見た目も恐ろしいのだとか。
そのせいで後宮の女たちからも恐れられているのだが、それでも皇后という女性の最高位を望む者は後を絶たない。
しかし皇帝と夜を共にした妃は皆記憶が曖昧で、翌日は必ず体調を崩してしまう。通常であれば夜が激しいのだろうと下世話な物言いをする者もいるだろうが、偉龍の恐ろしさも相まって別の噂が後宮内では広がっていた。
曰く、皇帝・王偉龍は鬼人に取り付かれた妖で、夜な夜な妃たちから生気を吸い取っているのだ、と。
ただの噂だと夜を共にする妃は幾人もいたが、ことごとく翌日に体調を崩しているため皇帝への恐れは助長されるばかりであった。
おそらく、昨日夜を共にしたという妃も、遅かれ早かれ後宮を去るのだろう。
自分が何をされて体調を崩すことになったのか分からないということは、それだけで恐怖だ。知らないうちに恐ろしいことをされているのではないか、噂のように、生気を吸い取られたのではないかという憶測が精神を病ませる。
毎夜のようにその恐怖と向き合う妃が増えていくことを考えるだけで、明玉の心は重く沈んでしまう。
(心の病は、私の血では治せないもの)
霊薬と聞けば皆有難がるだろうが、結局は万能ではないのだ。
思わずため息が出そうになったとき、バンが困ったような言葉を発する。
「しかも最近は奴婢たちが不審死している。身分が低いため大ごとにはされていないが、不安を抱えている者には恐ろしく感じるだろうな」
「それも、皇帝の仕業だと言われているんだったかしら?」
確認のように聞くと、「ああ」と頷かれた。
「せめて噂が真実かどうかだけでも確認できればいいのだがなぁ……」
うーん、と蛇の姿で器用に唸るバンの呟きに、明玉は「ああそっか」と彼が真実を確認できない理由を思い出す。
「バンは、皇帝に近付けないんだっけ?」
「近付けないというか、近くに行くと存在を悟られる可能性があるんだ。皇帝の血筋にはワシの力の一部を与えているからな」
そう、実はこのバンは、龍玲国の建国記に記載されている、国の基礎を作ったと言われている蟠龍なのだ。
土地を整え人々を助けた蟠龍は、力尽き長き眠りにつく際そのすべてを見通す目の力をこの国の皇帝となる人物に分け与えたのだそうだ。現代の皇帝はすべてを見通すほどの力はなくなっているが、その繋がりがあるせいでバンの気配を感じ取りやすいのだとか。
だからバンは偉龍の近くへ行きたくても行けず、肝心の噂の真実を突き止めきれないでいるのだ。
困り果てたように天を仰ぐバンに、明玉はまた苦笑する。
「まあ、仕方ないわよ。バンは皇帝に自分が蟠龍だと知られたくないんでしょう?」
「そうだな。ワシの役目は終わったのだ。もともと眠りから覚めたら、国を見て回りながら気まぐれに人助けでもしようと思っていたからな」
「その予定が、私を助けた所為で狂っちゃったというわけね?」
明玉が巻き込まれたあの洪水によって、その土地で長き眠りについていたバンは目覚めたらしい。目覚めて最初の人助けとして明玉を治療したが、寝起きですぐの状態だったため霊力の調節ができなかったとのことだった。
「狂ったと言っても誤差でしかない。ワシはそうそう死なないからな。明玉の一生分そばについていたとしても、ワシにとっては瞬き数回分程度の時間だ」
力尽きても眠りにつくだけのバンは、大したことではないと頭を横に振り、優しい目で明玉を見上げる。
「まあそういうわけだから、明玉が幸せになれるようワシはずっとお前を見守らせてもらうぞ? 明浩――お前の祖父にも頼まれたからな」
「うん……ありがとう」
十年前から側にいて見守ってくれているバンに、明玉は素直に感謝した。
少女は、自身の中の熱い血潮が抜けていく様子を見ながら、すぅー、と身体が心地よく冷めていくのを感じた。
あまり傷が深くならないよう、鋭利な刃物で傷つけた手首から流れている赤い血は、地面へ置かれた壺に吸い込まれるように落ちていく。
両手に収まる程の壺は口が広めに作られており、少し上から血を落としてもあまり零れ落ちないようになっている。
(一滴でも零すわけにはいかないもの)
血を流している少女・林明玉は、壺から目を離さずに思う。
零すわけにはいかない理由はいくつかあるが、その一つは場所の問題だ。
ここは龍玲国の首都・玲雅にある皇城のさらに奥。国を治める皇帝が住まう宮城の妃たちが住まう場所――つまり、後宮なのだ。
皇帝の私的な空間である後宮で、血を流すなどという穢れとも言える行為をしているのだ。ただでさえ忌み嫌われる行為なのだから、せめて零すようなことはしないよう気を付けているというわけだ。
今も、近くを通った同じ宮で生活をしている妃嬪が嫌悪も露わにひそひそと話している。
「また林明玉が血を流しているわ。おぞましい」
「本人は病の治療だとか言っているけれど、本当かしら? 寧ろこの宮中に穢れや呪いを掛けているのではないの?」
当然と言えば当然なのだが、それでも酷い言いようである。少なくとも、こうして瀉血しなければ明玉が死んでしまうことは事実だというのに。
(やっぱり昨日の夜に済ましておけばよかったわ)
そうすればこのように他の妃に目撃されて、彼女たちを不快にさせることもなかったのに。
とはいえ、昨夜人目を忍んでできなかったのは彼女たちに仕事を押し付けられた所為でもある。血など見せることになって申し訳ないと思う反面、お前たちのせいだろうとも思った。
(ま、どっちもどっちということでいいわよね)
そう結論付けた明玉は、もう彼女たちのことは気にしないことにした。
あまり気にして血が零れてしまっては困る。
この血には、宮中を汚すわけにはいかないという理由よりも、もっと重大な秘密があるのだから。
妃嬪の中でもかなり下の身分である下級妃で、病が理由とはいえ血を流す明玉は、お世辞にも妃とは言えない生活をしていた。
侍女はつかず、食事は自分で取りに行き、与えられた仕事は宮の外の掃除。はっきり言うと、下女と何ら変わりがない。
しかも穢れが移っては困るから、などという理由で洗濯や宮の中の掃除は任せてもらえず、もっぱら外――しかもあまり人が通らない場所の掃き掃除ばかりをさせられていた。
水仕事ではないのでそれほど手が荒れずに済むのは助かるが、雨の降りやすい夏や、凍える寒さの冬に外での仕事は苦労する。
とはいえ、人が来ない場所なので秘密のやり取りをするにはうってつけだった。
「はい、今日の血。処分をお願いね」
そう言って明玉は今朝流した血が入った壺を目の前の相手に渡す。
相手は、細長い尾を器用に使い壺を受け取ると、「承知した」と言葉を発した。
そのまま壺の蓋を尾の先で開け何事かを呟くと、中に入っていた赤黒い液体が壺の底に吸われていくように消えていく。空になった壺を明玉に返したその相手は、掃き掃除を再開させた明玉をじっと見上げて深くため息を吐いた。
「はぁ……明玉は美しい娘だというのに、このような下女がする仕事ばかり。器量だってそれほど悪くはないのだから、高位の妃の侍女にもなれるだろうに」
そう話すのは、青とも緑とも取れる、美しい色合いの外皮を持った蛇だ。
この蛇とは十年ほどの付き合いになるが、人語を操り、摩訶不思議な術を使う蛇など普通に見れば妖魔や幽鬼の類と思われるだろう。なのでこうして人目を忍んで会っているのだ。
不満気な蛇の言葉に、明玉は箒を動かしながら苦笑いした。
「しょっちゅう血を流す娘なんて誰も侍女にしたくないでしょう」
無茶を言うな、と告げると、蛇は落ち込むようにその鎌首を深く下げ項垂れる。
「ワシのせいだな、すまない」
「謝らないでっていつも言っているでしょう、バン。あなたがいなければ、それこそ私は十年前に死んでいたんだから」
しゅん、と落ち込む蛇――バンを見て、明玉は呆れのため息を吐く。
そう、このバンがいなければ自分は幼い頃に死んでいたのだ。
十年前、まだ七つだった自分は両親と共に洪水に巻き込まれた。両親とは別々に流され、流木が腹に刺さり、瀕死の状況。そこへ現れたのがこのバンだ。
現れたときは力強い龍の姿で、その強い霊力で怪我を直してくれた。
そのときの明玉は血もかなり流れてしまっていたらしく、血を増やすための術も使ってくれたとのことなのだが、問題はその術だった。
術そのものは問題なかったが、バンはうっかり込める霊力の量を加減しそびれてしまったのだそうだ。
結果、明玉は通常よりも血が多く作られる身体になってしまった。
毎日ある程度の血を身体から出さなければ、頭痛やめまいなど体調不良に陥る。体調不良だけならばまだいいが、瀉血せず放置すると多くなった血がどんどん濃くなり、塊ができて死に至るらしいのだ。
なので明玉は、周囲に何と言われようが生きるために血を流すしかない。
(でもまあ、そんな娘をよく後宮に入れようなんて思ったものよね……)
洪水ではぐれた両親は数日後遺体で見つかった。亡くなった両親の代わりに明玉を引き取ってくれたのは父の弟である叔父だったが、事故後瀉血しなければ死んでしまう身体となった明玉を気味悪がって、それはまあ酷い扱いを受けた。
初めはただ遠ざけるだけだったが、『そんな身体で生きる意味はあるのか?』と言われ食事を抜かれることはしょっちゅうであったし、ときには暴力を振るわれ、血が流れても『どうせ血を流さなければ死ぬのだろう?』と、寧ろ瀉血してやっているのだと言わんばかりの態度だった。
叔父がそのような状態なので、叔母も従姉妹たちも明玉を襤褸雑巾のように扱った。
そんな中でも生きてこられたのは祖父がいたからだ。祖父は明玉の唯一の理解者であり、叔父たちを諫められる唯一の人物でもあった。
だが、そんな祖父にも寿命は来る。
一年と少し前に風邪をこじらせてそのまま亡くなってしまったのだ。
唯一の味方であり理解者を亡くした明玉は、今後を考えいっそ家を出て叔父たちから逃げようかと考えていたのだが、祖父は遺言を残していた。
祖父は死期を悟っていたのだろうか。遺言書には、明玉をこの龍黎国の皇帝に献上するようにと書かれていた。
しかも、どういった伝手を使ったのかは分からないが、すでに準備は整っているということで宦官の迎えまで来たのだ。
叔父たちが口を出す暇も、明玉が状況を理解する暇もなく後宮へと入れられた。
祖父が何を考えてこんなことをしたのか分からなかったが、理解者であった彼が明玉を苦しめるために後宮へ入れたとは考えづらい。
実際、後宮では以前同様気味悪がられてはいるが、食事を用意されないということはないし、暴力を振るわれることもない。ちゃんと屋根のあるところで臥搨に横になって眠れるし、衣服も支給される。
少なくとも、叔父のもとに居続けるよりは安穏とした生活が送れていると思う。
ただ、やはり祖父が何を考え明玉を後宮になど入れたのかだけは分からない。祖父のことを知っているバンにも聞いたが、『分からない』という答えしか返ってこなかった。
そうして過去を思い返していると、バンが「だがなあ……」と落ち込んだ様子のままで呟き、明玉は記憶の海から意識を引き戻した。
「ワシが助けたせいで、とんでもない秘密を抱えさせてしまっただろう?」
首を上げたバンの目は潤んでいる。本来の姿は荘厳な龍だというのに、蛇の姿でこのような仕草をするバンはどこか愛らしい。
可愛いバンに見上げられた明玉は、にっこりと笑い首を横に振る。
「確かにとんでもない秘密だけれど、それ自体を苦に思ったことはないよ。だって――」
話しながら、茎が折れてしまった花を見つけた。花弁はまだ色艶がいいのに、このままではしおれて枯れてしまいそうだ。
明玉はその花の側に行き、左腕の袖をまくる。
今朝傷つけた手首には今は傷跡すらない。そこをまた軽く傷つけ、明玉はほんの少量血を流した。
赤い雫は花の折れた茎の部分に落ち、まるで時間を巻き戻したかのように折れた茎はもとに戻っていく。
その様子に満足そうな笑みを浮かべた明玉は、傷口を拭い血を止める。するとその傷口もゆっくりと消えていった。
傷の痛みもなくなると、明玉はバンへと顔を向け話の続きを口にする。
「苦に思ったことなんてない。こんな風に、たくさんのものを癒せることができるんだもの」
そう、龍であるバンの霊力を多く含んだ明玉の血液は、あらゆる傷や病を治すことができる霊薬となってしまったのだ。
叔父たちに知られては、閉じ込められ搾取されかねない。だから可愛がってくれて信頼していた祖父のみに話し、ずっと秘密にしてきた。
バンは自分のせいで本来しなくてもいい不安を抱えさせてしまったといつも申し訳なさそうに言うが、明玉自身は霊薬となった自分の血を割と気に入っている。
だから気にしないでほしいと暗に告げるが、バンは申し訳なさそうな目を止めない。なので明玉は話題を変えることにした。
「それよりも、何か面白い話はないの? 今日も色々見て回っていたんでしょう?」
明玉の血を特別なものにしてしまったという責任感からか、バンは助けてくれたあの日からずっと近くにいてくれる。ついにはこの後宮にまで付いてきてくれて、愛憎に満ちていると言われるこの場所で明玉が危険な目に遭わないよう情報収集をしてくれていた。
蛇以外にも色々な姿に変化できるバンは、その能力を使い様々な場所へ行き、妃嬪や宦官、下女たちの様子を盗み見ているらしい。
「そうだなあ……明玉に直接関係がありそうな話だと、尚食局の包人が新しい料理を開発中らしいぞ?」
「へぇ、誰の新作料理? 先日新しく来た人は面白い味付けをするってバンは言っていたけど、まさかその人?」
「いや、何年も務めてる経験豊富な包人だよ。その新人に触発されて色々試しているみたいだ。少し味見をしてみたが、なかなか美味しかったぞ?」
それは楽しみね、と明玉は頷く。美味しい料理であれば、皇帝や後宮の高級妃である四夫人の誰かに気に入っるかもしれない。そうなれば、多く作られて下級妃である自分のもとへも渡るだろう。時間は掛かるが、それを楽しみにすると日々が少し豊かになるのだ。
いい情報を聞いたと小さく笑みを作ると、バンは次々と他の話を始めた。
バンの話は大きな事件から些細な笑い話まで多岐に渡る。仲のいい妃も、本来一人くらいはいてくれるはずの侍女もいない明玉にとって、バンの話は後宮の状況を知る唯一の情報源だった。
箒を適当に動かしながらバンの話を聞いていると、話は最後にいつもの情報に行きつく。
「あとは、いつもの皇帝の話だな。昨夜相手をした妃も、今日は体調不良となっているらしい」
「体調不良……ということは、やっぱり夜のことを覚えていないの?」
「ああ、昨夜皇帝と寝室に入った後からの記憶が曖昧らしい。それと、めまいや立ち眩み、疲労感があるのもいつもと同じだな……怖がっていたよ」
「そう……また、妃嬪が一人いなくなるのかしら?」
バンが最後に付け加えた言葉に、明玉は悲しげに瞼を伏せる。
通常、後宮において皇帝と夜を過ごすということは大変名誉なことだ。気に入られ、寵姫となり皇帝の子を身籠れば、成り上がることも夢ではない。その分命の危険に晒されることも多いが、それだけの魅力があるのだ。
だが、今代の皇帝においては少々事情が異なる。
現皇帝・王偉龍は不老不死の秘薬を求め狂っていったと言われている前皇帝を処刑し即位した皇太子だ。その経緯と、前皇帝のせいで起こった戦での冷徹な采配もあって冷血王と名高い人物である。
その冷徹ぶりは戦だけには留まらず、皇城内でも気に入らない者は切って伏せられるとの噂で、多くの者から恐れられていた。
しかもなぜか目だけを隠す鬼の面をつけているらしく、見た目も恐ろしいのだとか。
そのせいで後宮の女たちからも恐れられているのだが、それでも皇后という女性の最高位を望む者は後を絶たない。
しかし皇帝と夜を共にした妃は皆記憶が曖昧で、翌日は必ず体調を崩してしまう。通常であれば夜が激しいのだろうと下世話な物言いをする者もいるだろうが、偉龍の恐ろしさも相まって別の噂が後宮内では広がっていた。
曰く、皇帝・王偉龍は鬼人に取り付かれた妖で、夜な夜な妃たちから生気を吸い取っているのだ、と。
ただの噂だと夜を共にする妃は幾人もいたが、ことごとく翌日に体調を崩しているため皇帝への恐れは助長されるばかりであった。
おそらく、昨日夜を共にしたという妃も、遅かれ早かれ後宮を去るのだろう。
自分が何をされて体調を崩すことになったのか分からないということは、それだけで恐怖だ。知らないうちに恐ろしいことをされているのではないか、噂のように、生気を吸い取られたのではないかという憶測が精神を病ませる。
毎夜のようにその恐怖と向き合う妃が増えていくことを考えるだけで、明玉の心は重く沈んでしまう。
(心の病は、私の血では治せないもの)
霊薬と聞けば皆有難がるだろうが、結局は万能ではないのだ。
思わずため息が出そうになったとき、バンが困ったような言葉を発する。
「しかも最近は奴婢たちが不審死している。身分が低いため大ごとにはされていないが、不安を抱えている者には恐ろしく感じるだろうな」
「それも、皇帝の仕業だと言われているんだったかしら?」
確認のように聞くと、「ああ」と頷かれた。
「せめて噂が真実かどうかだけでも確認できればいいのだがなぁ……」
うーん、と蛇の姿で器用に唸るバンの呟きに、明玉は「ああそっか」と彼が真実を確認できない理由を思い出す。
「バンは、皇帝に近付けないんだっけ?」
「近付けないというか、近くに行くと存在を悟られる可能性があるんだ。皇帝の血筋にはワシの力の一部を与えているからな」
そう、実はこのバンは、龍玲国の建国記に記載されている、国の基礎を作ったと言われている蟠龍なのだ。
土地を整え人々を助けた蟠龍は、力尽き長き眠りにつく際そのすべてを見通す目の力をこの国の皇帝となる人物に分け与えたのだそうだ。現代の皇帝はすべてを見通すほどの力はなくなっているが、その繋がりがあるせいでバンの気配を感じ取りやすいのだとか。
だからバンは偉龍の近くへ行きたくても行けず、肝心の噂の真実を突き止めきれないでいるのだ。
困り果てたように天を仰ぐバンに、明玉はまた苦笑する。
「まあ、仕方ないわよ。バンは皇帝に自分が蟠龍だと知られたくないんでしょう?」
「そうだな。ワシの役目は終わったのだ。もともと眠りから覚めたら、国を見て回りながら気まぐれに人助けでもしようと思っていたからな」
「その予定が、私を助けた所為で狂っちゃったというわけね?」
明玉が巻き込まれたあの洪水によって、その土地で長き眠りについていたバンは目覚めたらしい。目覚めて最初の人助けとして明玉を治療したが、寝起きですぐの状態だったため霊力の調節ができなかったとのことだった。
「狂ったと言っても誤差でしかない。ワシはそうそう死なないからな。明玉の一生分そばについていたとしても、ワシにとっては瞬き数回分程度の時間だ」
力尽きても眠りにつくだけのバンは、大したことではないと頭を横に振り、優しい目で明玉を見上げる。
「まあそういうわけだから、明玉が幸せになれるようワシはずっとお前を見守らせてもらうぞ? 明浩――お前の祖父にも頼まれたからな」
「うん……ありがとう」
十年前から側にいて見守ってくれているバンに、明玉は素直に感謝した。



