海沿いにある『おにぎりの白熊堂』は二階建ての住居兼店舗となっており、洗濯物を干す為に、そして、煙草を吸う為に、屋上があった。
 あざらしは吸わないが、白熊はたまに吸う。そして──もう一人、屋上の喫煙所を利用する者がいた。

◆◆◆

 営業時間は午前七時から午後八時まで。
 途中の午後二時くらいから三十分の間、昼食休憩を取っている。
 ドアノブに引っ掛けた木札を『準備中』にし、白熊とあざらしはカウンター席に並んで座ると、俵型のおにぎりと味噌汁をほうじ茶と一緒に食べる。おにぎりは塩だけ、味噌汁は玉ねぎだ。
 今の時間、出入り口の扉には鍵を掛けていないので、誰でも容易に入れた。

「──邪魔するぜ」

 そう言って、誰かが入ってくる。白熊とあざらしは揃って出入り口に視線を向けた。聞き慣れた声から、誰が入ってきたのかはすぐに分かる。白熊は微笑みを浮かべていたが、あざらしの顔はほんの少しだけ、引きつった。
 入ってきたのは、スキンヘッドの男。イルカの刺繍が施されたスカジャンに身を包み、その下には黒いコックコートを着ているのが分かる。

「こんにちわ、ベルーガ。煙草充電に来たの?」
「おう。少し借りるわ」

 片手を上げて、ベルーガと呼ばれた男は、勝手知ったるという感じで、関係者以外は立ち入り禁止となっている二階へ続く階段を目指した。
 斑鳩(いかるが)鈴鹿(すずか)、頭はスキンヘッド、細身の身体は貧弱さをまるで感じず、強面の顔は可愛らしい名前に反し、あまり積極的に喧嘩を売りたくはないタイプの人間だった。
 彼は、この店の三軒隣で営業している、『洋食のイルカ』の従業員。その拳は人に振るわれず、日夜、誰かの胃袋を満たす為に使われていた。
 白熊とは幼馴染みの関係であり、成人した今も、こうして交流がある。

「俺も吸おうかな……」

 そう言って、席を立とうとする白熊の服の袖を、そっと、あざらしが掴んだ。

「あざらし君?」
「……行っちゃうんですか、僕とお昼ご飯食べているのに」

 白熊はもう食べ終えていたが、あざらしはまだ、最後の一個であるおにぎりを食べている最中であった。
 あざらしを見て、斑鳩を見る白熊。そして視線をあざらしに戻し、彼の肩に手を添える。

「ちょっとだけ吸わせて。すぐ戻るから」
「……煙草じゃないと充電、できないんですか」
「あざらし君で補充するのとは違う所を充電するからさ、ごめんね、ちょっと待っていて」
「……はい」

 俯くあざらしがどうにも可愛らしく、素早く彼の頬に唇を寄せ、白熊は斑鳩の後を追った。

「……ずるい」

 そんな、恋人の可愛らしい呟きを耳にしてしまったが、煙草充電したいのも本当なので、白熊は振り返らずに階段を進んだ。

◆◆◆

「可愛すぎない?」
「あー、うん、可愛いな」
「あげないからね」
「いらないから存分に愛でろよ」
「もちろん。あざらし君は誰にも渡さないよ」

 洗濯物がたなびく屋上。煙がそちらに行かないように気にしながら、灰皿スタンドを囲む白熊と斑鳩。
 微笑みを浮かべながら惚気る白熊を、少しげんなりとした顔で、斑鳩は聞いている。

「お前ってさ、そんなゲロ甘ったるい奴だったっけ?」
「昔のことは忘れたよ。あざらし君のことになるとこうなるね」
「おえ。あざらしも大変だな、お前みたいなのに引っ掛かって」
「絶対に逃がさないし、あざらし君だって、俺を置いてどこかに行こうとか考えないでしょう」
「その自信どっから来るんだよ。なんか怖いわ……」
「それでも惚気を聞いてくれるし、ベルーガほんと人がいいよね」
「喫煙所借りてるからな。利用料だと思って耐えてるよ」

 この近くに煙草を吸える所はない。それに、斑鳩が働く店では全面的に禁煙。斑鳩の父親でもある料理長は、斑鳩が煙草を吸うことに良い顔をしていなかった。

「親父だって昔は吸ってたらしいのに、何で息子が吸うことは許さねえんだか」
「肺がんのリスクもあるからね、可愛い息子の身体を守りたいんだよ」
「それでも吸うがな」
「俺も」

 両者の煙草はそろそろなくなる。白熊は自身の煙草を灰皿に押し付け、一足先に下に戻ることにした。

「恋人が待ってるもんな」
「ぷりぷりしているだろうから、お話しないと」

 白熊の返答を聞き、やれやれとばかりに、斑鳩は煙を盛大に吐き出すのだった。

◆◆◆

 見掛けによらず、斑鳩が良い人だというのは、あざらしも理解している。それでも、彼が店に来ると警戒してしまうのは、少しの間、白熊を取られてしまうから。
 あざらしは煙草を吸えない。正式に吸えるようになるまで、残り二ヶ月。それまでは、喫煙しに行く白熊を、見送ることしかできない。
 もう子供じゃないと言い張りたいのに、年齢がそれを邪魔する。成人はしているのに、酒も煙草もまだ許されていない。
 一年近い時間を白熊と共に過ごし、彼の恋人でもあるのに、そういった点で、彼の隣に立つ自信がほんの少しだけなくなってしまう。
 ……だとしても、自分は、白熊の隣に立っていたいのだけど。
 落ち込みながら食べる白熊のおにぎりは、それでもいつも通り美味しかった。だけど、傍に白熊がいてくれたら、もっと美味しかっただろう。
 自分にはもう、白熊しかいないのに、白熊にはあざらし以外にも誰かがいるという事実が、いつも淋しい。
 何でもっと早く生まれなかったのか、何でもっと早く出会えなかったのか。
 俯いて、俯いて──近付いてくる足音にも、気付かなかった。

「──あざらし君」

 名を呼ばれると同時に、温もりに包まれる。
 暗い感情は霧散し、愛おしい気持ちが込み上げてきた。
 自分を抱き締める手にあざらしは手を重ね、相手に身体をもたれさせた。

「最後に戻ってくるのは、あざらし君の所だよ」
「嬉しくないです」

 どこにも行かないでほしい。
 白熊を独占していたい。

「……今夜は寝かせませんから」
「言ったね?」

 斑鳩が降りてくる足音、それも、わざと鳴らしているのかと思われる派手な足音が聞こえるまで、白熊とあざらしはしばし、そうして寄り添っていた。