店に最近よく来るようになった客がいる。明るい茶色のアシンメトリーな髪型をした、珈琲色のカーディガンに身を包んだ男子高校生。
私語厳禁の店内で、よくあざらしに話し掛けていた。
「こんちわ、あざらしさん」
「今日は天気がいいっすよ、あざらしさん」
「あざらしさんはおにぎり作らないんすか?」
「あざらしさんはどんな本を読むんすか?」
私語について、あざらしが控えめに注意すれば、それ以上は言わないが、帰り際に、そして次の来店時に、また話し掛けてくる。
あざらしとしては、今は慣れたものの、元々は人見知りが激しかったせいか、その男子高校生が来た後は、少し疲れているようで──それが白熊としては、気になった。
客も大事だが、あざらしだって大切だ。愛する恋人が困っているなら、なんとかしたい。
また今日も、男子高校生──ぺんぎんがやってくる。
「こんにちわ、あざらしさん」
「……こ、こん」
「──こんにちわ、ぺんぎん君」
名前は既に名乗られ、ぺんぎんと呼んでほしいと言われていた。白熊は普段よりも気持ち大きな声で、ぺんぎんの名を呼んだ。
ぺんぎんもあざらしもびっくりしたように目を丸くし、白熊としてはそこまでじゃないだろうと思いつつ、ぺんぎんに話し掛けた。
「いつも来てくれてありがとう。たまには俺ともお喋りしようよ」
「……えっと」
「遠慮しないで。お客さんの対応を優先することもあるけど、君とはたくさんお喋りしたいな」
「……他のお客さんの迷惑になりますし」
「そうだね、ここにいる人の迷惑になったら駄目だね」
白熊は笑みを浮かべて話していたと思うが、徐々にぺんぎんの顔色が悪くなっていくのが、白熊としては気になった。
「どうかしたの? 取り敢えずそこに座って。今、ほうじ茶用意するから」
「あの、えっと……」
ゆっくり、ゆっくりと出入り口に向かって後退していくぺんぎん。まだ来たばかりだというのに。
カウンター内にいた白熊は、そこから出て、ぺんぎんの元に行こうとしたが──その前に、あざらしが駆け寄っていた。
心配そうに彼の背に手をやり、こっちに、と言いながら席に誘導する。
「白熊さん、ほうじ茶を」
「あ、うん」
椅子に腰を降ろしたぺんぎんにほうじ茶を置くと、あざらしがそれを手に取って、ぺんぎんに渡そうとした。ぺんぎんはあざらしを見て、ほうじ茶を見る。
飲んで、と言えば、ぺんぎんはおずおずと受け取って、口に含んだ。……今、指が触れなかったか。そういえばさっきも、背中触られていたな。なんて考え出して、それを振り払うように、白熊は首を横に振る。
「落ち着きましたか?」
「……はい」
「店主が怖がらせてすみません」
「えっ?」
あざらしの言葉の意味に気付かないのは、この場では白熊だけ。
驚く白熊の背後で「般若が背後にいたわね」「白熊さんの顔は見えないけど、般若は見えた」なんて小さな声で語るマダム達の話が耳に入る。
白熊としては、般若!? であるが、無意識に般若を出していた。
「は、般若はよく分かんないけど、怖がらせたならごめんね。おにぎり、これ、サービス」
手早く皿に塩握りとチキンライスのおにぎりを乗せて、ぺんぎんの前に出す。
なかなか手を出せなかったが、あざらしがどうぞ、と言えば、やはりおずおずと手に取った。
「……あったかい」
「白熊さんのおにぎりは、あったかくて優しい味なんですよ。このおにぎりと同じくらい優しい人だから、安心してください」
「……ごめんなさい」
おにぎりを持ったまま俯き、謝罪を口にするぺんぎん。はて、と白熊はあざらしを見て、あざらしは困ったような笑みを浮かべていた。
「その、ぺんぎん君。来てくれるのは嬉しいんですけど、あんまり話し掛けられるのはちょっと、困ってしまうので、今後は会話は控えめに、おにぎりと読書を楽しんでほしいです」
「……本当に、ごめんなさい」
「白熊さんもすみません、僕が相談していたら、般若なんて出さずに、もっと違うやり方で対応しましたよね。すみません」
「般若を出したつもりはないんだけど……うん、なんか俺もごめん」
内心、般若? 般若!? な白熊なのだが、俯いたままのぺんぎんが口を開いたので、そちらに耳を傾ける。
「あざらしさんが、あざらしって名前だから、つい、お店に来て、あなたに話し掛けてたんです」
「あの、あざらしは名前じゃなくてあだ名で、本名は」
「本名は?」
突然、がばりとぺんぎんは顔を上げ、あざらしを見つめる。
少し驚きつつ、あざらしは自分のあまり好きではない名前を口にした。
「海豹、丙吾です」
「……海豹、海豹!」
ぺんぎんは立ち上がって、あざらしとの距離を詰めてくる。だんだん白熊は嫌な予感がしてきて、カウンターを出た。
「顔は似てないけど、雰囲気は似てるなって……あの、もしかして──海豹乙音さんの親族の方……です、か」
「あざらし君!」
白熊があざらしの背後に回り、肩に両手を置くと、あざらしは白熊にもたれてきた。というより、身体の力が抜けてしまったようで、慌てて白熊があざらしを支える。
その横顔は、さっきのぺんぎんよりも青い。
「あ、の」
「話の途中だけど、ごめん。あざらし君を休ませないと」
店内の他の客にも、お騒がせしましたと一言謝り、あざらしを抱き抱えて、白熊は二階に向かう。
その間、あざらしはうわ言のようにごめんなさいと繰り返していた。白熊は何度も、大丈夫だからと返したが、きっと、あざらしの耳には届いていなかっただろう。
海豹乙音。
それは──あざらしの義理の妹の名前だった。
私語厳禁の店内で、よくあざらしに話し掛けていた。
「こんちわ、あざらしさん」
「今日は天気がいいっすよ、あざらしさん」
「あざらしさんはおにぎり作らないんすか?」
「あざらしさんはどんな本を読むんすか?」
私語について、あざらしが控えめに注意すれば、それ以上は言わないが、帰り際に、そして次の来店時に、また話し掛けてくる。
あざらしとしては、今は慣れたものの、元々は人見知りが激しかったせいか、その男子高校生が来た後は、少し疲れているようで──それが白熊としては、気になった。
客も大事だが、あざらしだって大切だ。愛する恋人が困っているなら、なんとかしたい。
また今日も、男子高校生──ぺんぎんがやってくる。
「こんにちわ、あざらしさん」
「……こ、こん」
「──こんにちわ、ぺんぎん君」
名前は既に名乗られ、ぺんぎんと呼んでほしいと言われていた。白熊は普段よりも気持ち大きな声で、ぺんぎんの名を呼んだ。
ぺんぎんもあざらしもびっくりしたように目を丸くし、白熊としてはそこまでじゃないだろうと思いつつ、ぺんぎんに話し掛けた。
「いつも来てくれてありがとう。たまには俺ともお喋りしようよ」
「……えっと」
「遠慮しないで。お客さんの対応を優先することもあるけど、君とはたくさんお喋りしたいな」
「……他のお客さんの迷惑になりますし」
「そうだね、ここにいる人の迷惑になったら駄目だね」
白熊は笑みを浮かべて話していたと思うが、徐々にぺんぎんの顔色が悪くなっていくのが、白熊としては気になった。
「どうかしたの? 取り敢えずそこに座って。今、ほうじ茶用意するから」
「あの、えっと……」
ゆっくり、ゆっくりと出入り口に向かって後退していくぺんぎん。まだ来たばかりだというのに。
カウンター内にいた白熊は、そこから出て、ぺんぎんの元に行こうとしたが──その前に、あざらしが駆け寄っていた。
心配そうに彼の背に手をやり、こっちに、と言いながら席に誘導する。
「白熊さん、ほうじ茶を」
「あ、うん」
椅子に腰を降ろしたぺんぎんにほうじ茶を置くと、あざらしがそれを手に取って、ぺんぎんに渡そうとした。ぺんぎんはあざらしを見て、ほうじ茶を見る。
飲んで、と言えば、ぺんぎんはおずおずと受け取って、口に含んだ。……今、指が触れなかったか。そういえばさっきも、背中触られていたな。なんて考え出して、それを振り払うように、白熊は首を横に振る。
「落ち着きましたか?」
「……はい」
「店主が怖がらせてすみません」
「えっ?」
あざらしの言葉の意味に気付かないのは、この場では白熊だけ。
驚く白熊の背後で「般若が背後にいたわね」「白熊さんの顔は見えないけど、般若は見えた」なんて小さな声で語るマダム達の話が耳に入る。
白熊としては、般若!? であるが、無意識に般若を出していた。
「は、般若はよく分かんないけど、怖がらせたならごめんね。おにぎり、これ、サービス」
手早く皿に塩握りとチキンライスのおにぎりを乗せて、ぺんぎんの前に出す。
なかなか手を出せなかったが、あざらしがどうぞ、と言えば、やはりおずおずと手に取った。
「……あったかい」
「白熊さんのおにぎりは、あったかくて優しい味なんですよ。このおにぎりと同じくらい優しい人だから、安心してください」
「……ごめんなさい」
おにぎりを持ったまま俯き、謝罪を口にするぺんぎん。はて、と白熊はあざらしを見て、あざらしは困ったような笑みを浮かべていた。
「その、ぺんぎん君。来てくれるのは嬉しいんですけど、あんまり話し掛けられるのはちょっと、困ってしまうので、今後は会話は控えめに、おにぎりと読書を楽しんでほしいです」
「……本当に、ごめんなさい」
「白熊さんもすみません、僕が相談していたら、般若なんて出さずに、もっと違うやり方で対応しましたよね。すみません」
「般若を出したつもりはないんだけど……うん、なんか俺もごめん」
内心、般若? 般若!? な白熊なのだが、俯いたままのぺんぎんが口を開いたので、そちらに耳を傾ける。
「あざらしさんが、あざらしって名前だから、つい、お店に来て、あなたに話し掛けてたんです」
「あの、あざらしは名前じゃなくてあだ名で、本名は」
「本名は?」
突然、がばりとぺんぎんは顔を上げ、あざらしを見つめる。
少し驚きつつ、あざらしは自分のあまり好きではない名前を口にした。
「海豹、丙吾です」
「……海豹、海豹!」
ぺんぎんは立ち上がって、あざらしとの距離を詰めてくる。だんだん白熊は嫌な予感がしてきて、カウンターを出た。
「顔は似てないけど、雰囲気は似てるなって……あの、もしかして──海豹乙音さんの親族の方……です、か」
「あざらし君!」
白熊があざらしの背後に回り、肩に両手を置くと、あざらしは白熊にもたれてきた。というより、身体の力が抜けてしまったようで、慌てて白熊があざらしを支える。
その横顔は、さっきのぺんぎんよりも青い。
「あ、の」
「話の途中だけど、ごめん。あざらし君を休ませないと」
店内の他の客にも、お騒がせしましたと一言謝り、あざらしを抱き抱えて、白熊は二階に向かう。
その間、あざらしはうわ言のようにごめんなさいと繰り返していた。白熊は何度も、大丈夫だからと返したが、きっと、あざらしの耳には届いていなかっただろう。
海豹乙音。
それは──あざらしの義理の妹の名前だった。



