それから一週間。俺は公園に通い続けた。御影とひたすらボールの奪い合いをして、体を動かす。俺は「部活どう?」とは聞かなくて、御影も「受験勉強いいんですか?」とは聞いてこなかった。ほかの後輩にあったら当たり前に口にしていたことも、ほかの誰かに会ったら挨拶みたいに聞かれていたことも、ここにはない。なんとなく、俺も御影もそういうものから離れたかったんだと思う。ただボールをキープすることを考え、目の前の相手をどう引き剥がすかだけに集中する。楽しかった。ただ楽しかった。御影との時間が楽しかったから、ほかの苦しさを引き受ける余裕ができたのだと思う。
「俺、明日から来れないから」
 ベンチに座っている御影に買ったばかりのペットボトルを差し出す。いつからか負けたほうが飲み物を奢ることになっていた。今日は同点だったけど、俺から奢ると言った。
「志望校変えることにしたんだ」
 とん、と隣に座れば互いに体が熱を放っているのがよくわかる。
「で、めっちゃ勉強しないとまずい」
「今年もう終わりますけど……どれだけサボってたんですか?」
「どれだけ、うーん、ずっと?」
「ずっと? サボってたんですか?」
 ええ、と驚きの目を向けられ、さすがに恥ずかしくなる。
「いや、塾は行ってたし、勉強もしてたといえばしてたし」
「でも、行きたい学校には届かないんですよね?」
 じっと俺を見上げる目が呆れの色を纏う。なんでこんなところにいるんだ、と言わんばかりに。先生とか親とかにはいくら呆れられても平気だったけど、御影に呆れられるのは、ちょっと胸が痛い。後輩だから?
「大丈夫。これからめっちゃ勉強するし、御影と遊んでたせいで落ちたなんて言わないから」
「当たり前です。木内先輩が勝手に来てるだけなんで」
「あ、お前、そういうこと言う? 俺が来ると嬉しそうな顔するくせに」
「それを言うなら木内先輩でしょ? 俺がトイレ行ってたら『どこにいるの?』ってめっちゃメッセージ送ってきて」
「荷物置きっぱなしだったし。なんかあったかと思うじゃん」
「心配しすぎです」
「いや、だって……」
「だって?」
 ふわりと息が白く浮かぶ。隣に並んで座っていると、改めて御影の小ささに気づく。半袖のTシャツから伸びる腕は細く、ペットボトルを握る手も俺より小さい。俺に向けられる視線は常に傾いていて、大きな瞳が俺の顔を映す。後輩、だから? 俺より小さいから? だから俺は姿が見えないだけで不安になったのだろうか。心配になったのだろうか。それもある。ある、けど……。
「先輩?」
 俺を呼ぶ声があまりにも優しく響いて、きゅっと心臓が鳴いた。なんだろう、と考えるより先に鼓動が大きくなっていく。わからない。わからなかった。胸の中を直にくすぐられているような心地悪さがあって、御影から離れたいと思った。
「あー、俺、もう帰るわ」
 ペットボトルを開けることなく、立ち上がる。汗はとっくに引いていて、指先から冷たさが這い上がってくる。
「えー、今日で最後ならもう一回だけ勝負しましょうよ」
 ね、と掴まれた腕を反射的に振り払う。タンタン、と地面に落ちたボールが弾む音と「先輩?」と御影の戸惑うような声が重なる。たぶん、御影よりも自分が一番驚いていた。
「あ、えっと、ごめん」
 とりあえずボールを、と手を伸ばす。これを返したら、きっともう会うことはない。受験勉強のため。それは自分で決めたことだ。だけど、さっきからそれとは違うなにかが俺を戸惑わせる。御影といたい気持ちと離れたい気持ち。相反する気持ちが何度も自分のなかでぶつかる。これは、なんだろう。なんだろう、と考えている時点で、自分の中に答えがある気がしてこわかった。
「ちょっと、なに固まってるんですか」
 すぐそばで聞こえた声に、びくっと体が揺れた。ボールへと向かっていた御影の体と、反射的に体勢を戻した俺と。一瞬の交差に、体の一部が――唇が、触れた気がした。
 触れたというよりは掠ったというのが正しいほど軽く。何が起きたのか理解するより早く、視線は解かれ「俺ももう帰ります」と御影がボールを拾い上げる。俺は何も言えなかった。御影も、それ以上は何も言わなかった。勘違いだったのかもしれない。それかただの事故だから話す必要がないのかもしれない。冗談にして確かめる勇気は、なかった。
「――雪だ」
 空を見上げる御影の息がふわりと白く溶けていく。俺はちらちらと降る雪ではなく、小さな耳を縁取る赤色をじっと見つめていた。
 そのまま卒業式の日まで、俺が御影と会うことはなかった。