――四月上旬。
中学二年生になったあたしは、無数の桜の花びらが舞う中、学校へと急いでいた。
「おはよう、サヨ。今日も元気いっぱいだネ」
風よけの石垣に囲まれた細い路地を抜け、学校へ続く坂道を下っていると、道と同じ高さの屋根の上から、キジ白の猫が声をかけてくる。
「おはよー。あんたも元気そうね」
速度を緩めながら挨拶を返すと、その子は屋根から飛び降りて、あたしの後ろをついてくる。
この子は、ネネ。
その模様の一部がハート型に見えることから、観光客からは幸運を呼ぶハート猫……なんて呼ばれている。
実は名前に反してオス猫なのだけど、誰も気にしてはいないようだ。
「サヨは今日も学校?」
「平日だしねー。人間は辛いの」
「辛いなら行かなきゃいいのに。僕たちにはわからない感覚だネ。ま、頑張って」
そう言いながら、のんびりとした足取りであたしの後ろをついて歩く。
この子の言う通り、佐苗島は本当に猫が多くて、いつしか『瀬戸内の猫島』なんて呼ばれていた。
島の猫は人懐っこい子が多いし、観光客から人気が出るのもうなずける。
「ところでもうすぐ学校だけど、どこまでついてくる気なの?」
「小夜ちゃん、おはよー」
背後に向かってそう言葉を発した時、前から聞き慣れた声が飛んできた。
視線を戻すと、そこにはあたしと同じ紺のセーラー服を着た女の子がいた。栗色のショートヘアを春風に揺らしながら、あたしに手を振ってくる。
「あー、なっちゃん、おはよー」
この子はなっちゃん……佐倉 夏海。あたしの幼馴染で、同級生だ。
「あ、ネネだー。今日もかわいいねー」
足元にすり寄ってきたネネの背中を撫でながら、おっとりとした口調で言う。
「おはよう、ナツミ」
「んー? 朝ごはんが欲しいのかなー? ごめんねぇ、今から学校だから、ちょ~るは持って来てないんだよー」
「朝は加藤さんところでごちそうになったよ。ナツミ、今日もいい匂いがするネ」
そんなネネの言葉に、あたしは思わず頭を抱える。
きっとなっちゃんには『うにゃあ』なんてかわいらしい声が聞こえているのだろうけど、あたしにはネネの言っていることがわかる。さすがオス猫だわ……。
「くんくん。この匂いはアジかな? いや、メバルかも。どっちにしろ、いい匂いだネ」
……いい匂いって、そっち!?
思わず叫びそうになるのを、あたしは必死に耐える。
ネネの声はなっちゃんには聞こえていないのだ。ここで叫んだりしたら、あたしはヘンな子になってしまう。
「……小夜ちゃん、どうかした?」
「な、なんでもない。それよりなっちゃん、もしかして今朝も家の手伝いしてた?」
「うん。少しだけ。よくわかったねー」
その大きな目を細めながら、ニコニコ顔で言う。
彼女の家は島唯一の民宿だし、漁師の父親が毎日新鮮な魚を獲ってくる。ネネがその匂いに反応したのも納得だ。
「今夜はナツミの家の近くをうろつくことにしようかネ。おこぼれにあずかれるかも」
どこか期待に満ちた表情のネネを何とも言えない気持ちで見ていると、予鈴が鳴った。
◇
今日の一時間目は古典で、担任の高畑先生の声が淡々と響いていた。
「それじゃ……高畑君、今の部分を現代語に訳してみて」
「……新也くん、当てられたよ」
「ふがっ……!?」
なっちゃんが隣の席で爆睡している男子生徒に声をかけ、必死に揺り起こす。
「あー、先生ごめん! 昨日、深夜番組見ちゃってさ!」
「知っています。でも、そんなことは理由になりません」
今、高畑先生に当てられて苦しい言い訳をしている茶髪の男子生徒が、高畑 新也。彼もあたしの幼馴染で、同級生だ。
教壇に立っている高畑先生の息子で、いつもこんな感じでおちゃらけている。
「……もう一度、冒頭から一人で読んでもらいます。いいですね」
「そんな! 先生、今の時期はあれです。春眠暁をなんとかってやつで、寝てしまうのは仕方のないことらしいですよ!」
「春眠暁を覚えず、だよ。新也、そういうのはきちんと覚えてから使いなよ」
「う、うっせーぞ、祐二のくせに」
その新也の隣に座るのが、同じく幼馴染の新田 祐二。癖っ毛の黒髪と黒縁のメガネがトレードマークで、島では珍しい読書家だ。
この二人にあたしとなっちゃんを加えた四人が中学二年生で、この学校の最上級生だ。
あとは小学校一年生が二人と、三年生と四年生が一人ずつ。
その全員が、一つの教室に集まって授業を受けていた。
佐苗島小中学校は全校生徒八名の、本当に小さな学校なのだ。
中学二年生になったあたしは、無数の桜の花びらが舞う中、学校へと急いでいた。
「おはよう、サヨ。今日も元気いっぱいだネ」
風よけの石垣に囲まれた細い路地を抜け、学校へ続く坂道を下っていると、道と同じ高さの屋根の上から、キジ白の猫が声をかけてくる。
「おはよー。あんたも元気そうね」
速度を緩めながら挨拶を返すと、その子は屋根から飛び降りて、あたしの後ろをついてくる。
この子は、ネネ。
その模様の一部がハート型に見えることから、観光客からは幸運を呼ぶハート猫……なんて呼ばれている。
実は名前に反してオス猫なのだけど、誰も気にしてはいないようだ。
「サヨは今日も学校?」
「平日だしねー。人間は辛いの」
「辛いなら行かなきゃいいのに。僕たちにはわからない感覚だネ。ま、頑張って」
そう言いながら、のんびりとした足取りであたしの後ろをついて歩く。
この子の言う通り、佐苗島は本当に猫が多くて、いつしか『瀬戸内の猫島』なんて呼ばれていた。
島の猫は人懐っこい子が多いし、観光客から人気が出るのもうなずける。
「ところでもうすぐ学校だけど、どこまでついてくる気なの?」
「小夜ちゃん、おはよー」
背後に向かってそう言葉を発した時、前から聞き慣れた声が飛んできた。
視線を戻すと、そこにはあたしと同じ紺のセーラー服を着た女の子がいた。栗色のショートヘアを春風に揺らしながら、あたしに手を振ってくる。
「あー、なっちゃん、おはよー」
この子はなっちゃん……佐倉 夏海。あたしの幼馴染で、同級生だ。
「あ、ネネだー。今日もかわいいねー」
足元にすり寄ってきたネネの背中を撫でながら、おっとりとした口調で言う。
「おはよう、ナツミ」
「んー? 朝ごはんが欲しいのかなー? ごめんねぇ、今から学校だから、ちょ~るは持って来てないんだよー」
「朝は加藤さんところでごちそうになったよ。ナツミ、今日もいい匂いがするネ」
そんなネネの言葉に、あたしは思わず頭を抱える。
きっとなっちゃんには『うにゃあ』なんてかわいらしい声が聞こえているのだろうけど、あたしにはネネの言っていることがわかる。さすがオス猫だわ……。
「くんくん。この匂いはアジかな? いや、メバルかも。どっちにしろ、いい匂いだネ」
……いい匂いって、そっち!?
思わず叫びそうになるのを、あたしは必死に耐える。
ネネの声はなっちゃんには聞こえていないのだ。ここで叫んだりしたら、あたしはヘンな子になってしまう。
「……小夜ちゃん、どうかした?」
「な、なんでもない。それよりなっちゃん、もしかして今朝も家の手伝いしてた?」
「うん。少しだけ。よくわかったねー」
その大きな目を細めながら、ニコニコ顔で言う。
彼女の家は島唯一の民宿だし、漁師の父親が毎日新鮮な魚を獲ってくる。ネネがその匂いに反応したのも納得だ。
「今夜はナツミの家の近くをうろつくことにしようかネ。おこぼれにあずかれるかも」
どこか期待に満ちた表情のネネを何とも言えない気持ちで見ていると、予鈴が鳴った。
◇
今日の一時間目は古典で、担任の高畑先生の声が淡々と響いていた。
「それじゃ……高畑君、今の部分を現代語に訳してみて」
「……新也くん、当てられたよ」
「ふがっ……!?」
なっちゃんが隣の席で爆睡している男子生徒に声をかけ、必死に揺り起こす。
「あー、先生ごめん! 昨日、深夜番組見ちゃってさ!」
「知っています。でも、そんなことは理由になりません」
今、高畑先生に当てられて苦しい言い訳をしている茶髪の男子生徒が、高畑 新也。彼もあたしの幼馴染で、同級生だ。
教壇に立っている高畑先生の息子で、いつもこんな感じでおちゃらけている。
「……もう一度、冒頭から一人で読んでもらいます。いいですね」
「そんな! 先生、今の時期はあれです。春眠暁をなんとかってやつで、寝てしまうのは仕方のないことらしいですよ!」
「春眠暁を覚えず、だよ。新也、そういうのはきちんと覚えてから使いなよ」
「う、うっせーぞ、祐二のくせに」
その新也の隣に座るのが、同じく幼馴染の新田 祐二。癖っ毛の黒髪と黒縁のメガネがトレードマークで、島では珍しい読書家だ。
この二人にあたしとなっちゃんを加えた四人が中学二年生で、この学校の最上級生だ。
あとは小学校一年生が二人と、三年生と四年生が一人ずつ。
その全員が、一つの教室に集まって授業を受けていた。
佐苗島小中学校は全校生徒八名の、本当に小さな学校なのだ。

