🐾🐾🐾
「ニャーニャー」
「あっち行って!やっと自分の時間できたんだから」
夕食のコンビニ弁当とドラマを観ていたスマホが置かれたテーブルから愛猫のクラムが飛び降りる。
そのまま寝室へと駆け込んでいった。
「またやっちゃった……」
じわじわと迫りくる罪悪感に苛まれる。
最近はこの繰り返しだった。
自分でもわかってはいる。
最近クラムのことをしっかり見てあげられていないことを。
ご飯など最低限のことはもちろん欠かさず行っているが、それ以上に遊んだりとか構ってあげることがまるっきりできていない。
それよりも忙しい中での自分の時間ばかり優先して、クラムには私しかいないのに、責任ある飼い主として本当に最低だと思う。
わかっている、心ではわかっているんだけど、体力的にも精神的にも私は今限界だった。
私犬塚凛(いぬづかりん)は現在23歳で有料老人ホームで働いている。
名前に犬がついているので犬好きだと思われるかもしれないが、私は昔から生粋の猫好きだった。
ペットショップに行っても目につくのはいつも猫で、ぴょんぴょん飛び跳ねるその姿が愛おしくて仕方なかった。
どの種類の猫も大好きなのだが、その中でも一番心惹かれたのはロシアンブルーだ。
昔からどっちかというと短毛の猫が好きで、ロシアンブルーを初めて見た時のあの唯一無二の色合いに心奪われた瞬間は今でも鮮明に覚えている。
現在の老人ホームに就職してから一年程経った頃、ショッピングモール内にあるたまたま立ち寄ったペットショップで運命的な出会いを果たした。
私は見た瞬間に運命を感じ、この子を今飼わなければ後悔すると瞬時に悟った。
迷いがあるとすれば仕事面だけであったが、仕事も何とか一年乗り越えてきたこともあって、自分の中で生活のリズムを掴みつつあった。
でも実際、その悩みもその子と目が合った瞬間に瞳の中に何事もなかったかのように吸い込まれていった。
そして、私はとうとう猫を飼うために学生時代アルバイトで貯金していたお金をはたいて、念願のロシアンブルー🐾クラムと家族になったのだ。
クラムを飼い始めた当初は、毎日が楽しくて充実していた。
どれだけ仕事が大変な日でも家に帰ってクラムの顔を見た瞬間に疲れなんて一気に吹き飛んだし、一人暮らしをしている部屋がクラムの物でかなり狭くなったとしても、クラム色に染まっていることが幸せでしかなかった。
そして、毎日私の後にくっついてくるその姿に、私は生きてきて初めて心から〝愛おしい〟という感情に出会えた。
クラムがこの先ずっと隣にいてくれれば私はどんなことでも乗り越えられるし幸せだと、この時はそう信じていた。
ただ、現実はそう全てが上手くいく訳ではもちろんない。
介護の仕事は経験したことがない人から見ても大変な仕事だとわかるだろう。
しかし、皆が想像している何倍も実際の現場は大変である。
私の施設は四フロアに分かれており、一フロアに大体三十人程利用者様がいるので、合計で百二十人ぐらいの利用者様がいる。
介護の現実はどこの施設でも同じだと思うが、慢性的に人手不足である。
実際に私の施設でも仲の良い同期やお世話になった先輩方も次々と退職していってしまった。
その結果必然的に一人にのしかかる業務量も増していき、夜勤はもちろん日勤帯でも三十人近くいるフロアを一人で見なければいけないことがざらにあった。
就職したての頃はやる気と根性で何とか乗り越えることができたが、年数を重ねる内に肉体的にも精神的にも追い詰められていった。
そして何もかもが限界に達した時、私の中にある感情が芽生えてきたのだ。
一人になりたいと。
自分のことしか考えたくない、クラムとの時間ではなくて一人の時間を大切にしたいと。
そう思い始めてしまうと、自分の感情に歯止めが効かなくなってしまった。
今まで何も気にならなかったのに服やあらゆるところにクラムの毛がついているとイライラしたり、今日みたいにご飯や一人の時間を邪魔されると、自分だと思えないぐらい怒りの感情が沸き上がってきてクラムを突き放すようになっていってしまったのだ。
その行動に対してもちろん罪悪感がある。
そして、クラムにとってたった一人しかいない親として最低な行為をしていることもわかっている。
でも、そんな自分を止めることができないくらい私は限界に達していた。
クラムも何かを感じていたのであろう、前みたいに私の後ろにくっついてくることもいつからかなくなってしまっていた。
🐾🐾🐾
昨日遅くまでお酒を飲んだので、朝目覚めるとまず頭痛とおはようした。
最悪な目覚めだ。
時刻は午前十時になろうとしている。
「やばい、クラムのご飯いれないと」
重い体を何とか起こして部屋を見回すが、いつも一緒に寝て朝起きた時におはようと抱き合っていたクラムの姿はどこにもなかった。
リビングに向かうと、クラムはソファの上で寝ていた。
ご飯のお皿の中はからっぽだ。
お皿を手に取り、台所で水洗いをする。
今日は一日中溜まっていたドラマを観ると決めていた。
頭の中はその楽しみで埋め尽くされていた。
流れ作業的にクラムのご飯をお皿に入れ、所定の位置に置く。
視線を感じたのでソファを見ると、起床したクラムと目が合った。
特に何をするわけでもなく、再び台所に戻る。
【おはよう、ママ】
「おはよう、クラム」
私は自分の朝ご飯の準備に取り掛かった。
冷凍ご飯を取り出そうと冷蔵庫に手を伸ばすと、違和感が体中を占めていった。
今私誰とおはようって言い合ったんだろう。
【今日ママ仕事休みなんだ。やった、ずっと一緒にいられる!】
ひゃーー!
私は驚きのあまり発狂して、その場に座り込んでしまった。
く、クラムの声が聞こえる!
たぶんクラムは声を発していないから心の中の声であろう。
私はしばらく身動きが取れずにいた。
【びっくりした。ママ何かあったのかな?】
あなたよ、あなたに驚いてるの。
私は完全に力の抜けてしまった体に再び力を込め、クラムの元へ駆け寄る。
「クラム、大丈夫?」
「ニャー」
【大丈夫だよ、ママ。それよりもママ最近ずっと疲れてるからママの体のほうが心配だよ】
クラム……
涙が止まらなかった。
私は最低だ。こんな優しい子にずっとあんな態度を……。
【ママ泣いてる。大丈夫かな?】
「クラムほんとにごめん。クラムには私しかいないのに。本当にごめんなさい」
私は心からの謝罪の気持ちを込めて、クラムをギュッと抱きしめた。
【久々にママを感じることができた。嬉しい!】
クラムにたくさん我慢させてきたし、たくさん嫌な思いをしたと思うのに嬉しいなんて……。
クラムの優しさが全身に染み渡っていく。
【今日はお願いしてもいいのかな?僕……】
クラムの視線が台所へと向いている。
そうか!
私は台所に向かって一つの引き出しを開け、あるものを取り出した。
【やった!チュールだ。嬉しい!嬉しい!】
あれだけ大好物だったのに全然あげれてなかったね。
ほんとにごめん。
クラムは嬉しそうにむしゃむしゃ頬張っている。
それからもずっと失われた時間を取り戻すかのようにクラムと遊んだ。
クラムのおもちゃを全然最近買えてなかったのでたくさん買い、爪とぎも古くなっていたので買い替えた。
クラムの嬉しそうな顔をずっと見ていると、ずっと迷っていたある気持ちに区切りをつけることができた。
私にとって一番大切なもの、それが何かに気づいたのだ。
🐾🐾🐾
「今日は楽しかったね。おやすみ、クラム」
「ニャー」
【おやすみ、ママ。今日とっても楽しかった。できたら……】
「クラム一緒に寝よ」
「ニャー」
クラムは嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねて寝室に入ってくる。
一緒に寝てた頃のように布団の中に潜り込んできた。
「クラム、今日はありがとう。それと本当にごめんね」
【ママ、僕はママと一緒にいれるだけで大丈夫だから。無理だけはしないでね。僕はどんなママも大好きだから。ママが笑顔でいてくれることが何よりも幸せなんだ】
「ママもクラムが大好きだよ。本当にありがとう」
この子が隣にいてくれればそれでいい。
心からそう思った。
🐾🐾🐾
結局クラムの心の声を聞けたのはその日だけだった。
私は決断した通り、仕事を辞めた。
一番大切にしたいもの、一番大切なものは何なのかに気づいたから。
今は無理のない範囲で働ける少人数の介護施設に勤めている。
「今日は何しようかな〜。溜まってるドラマでも観よっと。クラム!こっちおいで。一緒に観よ!」
クラムは嬉しそうに駆け出してきて、私の隣に座る。
私の隣にあなたがいてくれる。
それが私の何にも代え難い、一番の幸せだ。
《完》
「ニャーニャー」
「あっち行って!やっと自分の時間できたんだから」
夕食のコンビニ弁当とドラマを観ていたスマホが置かれたテーブルから愛猫のクラムが飛び降りる。
そのまま寝室へと駆け込んでいった。
「またやっちゃった……」
じわじわと迫りくる罪悪感に苛まれる。
最近はこの繰り返しだった。
自分でもわかってはいる。
最近クラムのことをしっかり見てあげられていないことを。
ご飯など最低限のことはもちろん欠かさず行っているが、それ以上に遊んだりとか構ってあげることがまるっきりできていない。
それよりも忙しい中での自分の時間ばかり優先して、クラムには私しかいないのに、責任ある飼い主として本当に最低だと思う。
わかっている、心ではわかっているんだけど、体力的にも精神的にも私は今限界だった。
私犬塚凛(いぬづかりん)は現在23歳で有料老人ホームで働いている。
名前に犬がついているので犬好きだと思われるかもしれないが、私は昔から生粋の猫好きだった。
ペットショップに行っても目につくのはいつも猫で、ぴょんぴょん飛び跳ねるその姿が愛おしくて仕方なかった。
どの種類の猫も大好きなのだが、その中でも一番心惹かれたのはロシアンブルーだ。
昔からどっちかというと短毛の猫が好きで、ロシアンブルーを初めて見た時のあの唯一無二の色合いに心奪われた瞬間は今でも鮮明に覚えている。
現在の老人ホームに就職してから一年程経った頃、ショッピングモール内にあるたまたま立ち寄ったペットショップで運命的な出会いを果たした。
私は見た瞬間に運命を感じ、この子を今飼わなければ後悔すると瞬時に悟った。
迷いがあるとすれば仕事面だけであったが、仕事も何とか一年乗り越えてきたこともあって、自分の中で生活のリズムを掴みつつあった。
でも実際、その悩みもその子と目が合った瞬間に瞳の中に何事もなかったかのように吸い込まれていった。
そして、私はとうとう猫を飼うために学生時代アルバイトで貯金していたお金をはたいて、念願のロシアンブルー🐾クラムと家族になったのだ。
クラムを飼い始めた当初は、毎日が楽しくて充実していた。
どれだけ仕事が大変な日でも家に帰ってクラムの顔を見た瞬間に疲れなんて一気に吹き飛んだし、一人暮らしをしている部屋がクラムの物でかなり狭くなったとしても、クラム色に染まっていることが幸せでしかなかった。
そして、毎日私の後にくっついてくるその姿に、私は生きてきて初めて心から〝愛おしい〟という感情に出会えた。
クラムがこの先ずっと隣にいてくれれば私はどんなことでも乗り越えられるし幸せだと、この時はそう信じていた。
ただ、現実はそう全てが上手くいく訳ではもちろんない。
介護の仕事は経験したことがない人から見ても大変な仕事だとわかるだろう。
しかし、皆が想像している何倍も実際の現場は大変である。
私の施設は四フロアに分かれており、一フロアに大体三十人程利用者様がいるので、合計で百二十人ぐらいの利用者様がいる。
介護の現実はどこの施設でも同じだと思うが、慢性的に人手不足である。
実際に私の施設でも仲の良い同期やお世話になった先輩方も次々と退職していってしまった。
その結果必然的に一人にのしかかる業務量も増していき、夜勤はもちろん日勤帯でも三十人近くいるフロアを一人で見なければいけないことがざらにあった。
就職したての頃はやる気と根性で何とか乗り越えることができたが、年数を重ねる内に肉体的にも精神的にも追い詰められていった。
そして何もかもが限界に達した時、私の中にある感情が芽生えてきたのだ。
一人になりたいと。
自分のことしか考えたくない、クラムとの時間ではなくて一人の時間を大切にしたいと。
そう思い始めてしまうと、自分の感情に歯止めが効かなくなってしまった。
今まで何も気にならなかったのに服やあらゆるところにクラムの毛がついているとイライラしたり、今日みたいにご飯や一人の時間を邪魔されると、自分だと思えないぐらい怒りの感情が沸き上がってきてクラムを突き放すようになっていってしまったのだ。
その行動に対してもちろん罪悪感がある。
そして、クラムにとってたった一人しかいない親として最低な行為をしていることもわかっている。
でも、そんな自分を止めることができないくらい私は限界に達していた。
クラムも何かを感じていたのであろう、前みたいに私の後ろにくっついてくることもいつからかなくなってしまっていた。
🐾🐾🐾
昨日遅くまでお酒を飲んだので、朝目覚めるとまず頭痛とおはようした。
最悪な目覚めだ。
時刻は午前十時になろうとしている。
「やばい、クラムのご飯いれないと」
重い体を何とか起こして部屋を見回すが、いつも一緒に寝て朝起きた時におはようと抱き合っていたクラムの姿はどこにもなかった。
リビングに向かうと、クラムはソファの上で寝ていた。
ご飯のお皿の中はからっぽだ。
お皿を手に取り、台所で水洗いをする。
今日は一日中溜まっていたドラマを観ると決めていた。
頭の中はその楽しみで埋め尽くされていた。
流れ作業的にクラムのご飯をお皿に入れ、所定の位置に置く。
視線を感じたのでソファを見ると、起床したクラムと目が合った。
特に何をするわけでもなく、再び台所に戻る。
【おはよう、ママ】
「おはよう、クラム」
私は自分の朝ご飯の準備に取り掛かった。
冷凍ご飯を取り出そうと冷蔵庫に手を伸ばすと、違和感が体中を占めていった。
今私誰とおはようって言い合ったんだろう。
【今日ママ仕事休みなんだ。やった、ずっと一緒にいられる!】
ひゃーー!
私は驚きのあまり発狂して、その場に座り込んでしまった。
く、クラムの声が聞こえる!
たぶんクラムは声を発していないから心の中の声であろう。
私はしばらく身動きが取れずにいた。
【びっくりした。ママ何かあったのかな?】
あなたよ、あなたに驚いてるの。
私は完全に力の抜けてしまった体に再び力を込め、クラムの元へ駆け寄る。
「クラム、大丈夫?」
「ニャー」
【大丈夫だよ、ママ。それよりもママ最近ずっと疲れてるからママの体のほうが心配だよ】
クラム……
涙が止まらなかった。
私は最低だ。こんな優しい子にずっとあんな態度を……。
【ママ泣いてる。大丈夫かな?】
「クラムほんとにごめん。クラムには私しかいないのに。本当にごめんなさい」
私は心からの謝罪の気持ちを込めて、クラムをギュッと抱きしめた。
【久々にママを感じることができた。嬉しい!】
クラムにたくさん我慢させてきたし、たくさん嫌な思いをしたと思うのに嬉しいなんて……。
クラムの優しさが全身に染み渡っていく。
【今日はお願いしてもいいのかな?僕……】
クラムの視線が台所へと向いている。
そうか!
私は台所に向かって一つの引き出しを開け、あるものを取り出した。
【やった!チュールだ。嬉しい!嬉しい!】
あれだけ大好物だったのに全然あげれてなかったね。
ほんとにごめん。
クラムは嬉しそうにむしゃむしゃ頬張っている。
それからもずっと失われた時間を取り戻すかのようにクラムと遊んだ。
クラムのおもちゃを全然最近買えてなかったのでたくさん買い、爪とぎも古くなっていたので買い替えた。
クラムの嬉しそうな顔をずっと見ていると、ずっと迷っていたある気持ちに区切りをつけることができた。
私にとって一番大切なもの、それが何かに気づいたのだ。
🐾🐾🐾
「今日は楽しかったね。おやすみ、クラム」
「ニャー」
【おやすみ、ママ。今日とっても楽しかった。できたら……】
「クラム一緒に寝よ」
「ニャー」
クラムは嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねて寝室に入ってくる。
一緒に寝てた頃のように布団の中に潜り込んできた。
「クラム、今日はありがとう。それと本当にごめんね」
【ママ、僕はママと一緒にいれるだけで大丈夫だから。無理だけはしないでね。僕はどんなママも大好きだから。ママが笑顔でいてくれることが何よりも幸せなんだ】
「ママもクラムが大好きだよ。本当にありがとう」
この子が隣にいてくれればそれでいい。
心からそう思った。
🐾🐾🐾
結局クラムの心の声を聞けたのはその日だけだった。
私は決断した通り、仕事を辞めた。
一番大切にしたいもの、一番大切なものは何なのかに気づいたから。
今は無理のない範囲で働ける少人数の介護施設に勤めている。
「今日は何しようかな〜。溜まってるドラマでも観よっと。クラム!こっちおいで。一緒に観よ!」
クラムは嬉しそうに駆け出してきて、私の隣に座る。
私の隣にあなたがいてくれる。
それが私の何にも代え難い、一番の幸せだ。
《完》

