とはいえ、ここは狭いアパートの一室だ、距離といってもたかが知れている。なので、ひとまず手近にあったゴミ箱を掴み、時緒はそれを盾のように構えた。三百円程で買った、高さ三十センチ程度のプラスチック製のゴミ箱だ、防御力は皆無に等しいが、無いより良い、気持ちの問題だ。
「あ、あなた!どこから入ったの!警察呼びますよ!」
へっぴり腰ながらも時緒は勇ましく言い放ち、スマホを探して、片手でペタペタと自身のズボンを探るが、そもそも部屋着にポケットはない。スマホをどこにやったのかと、焦って周囲に目を走らせれば、「もしかして、これ?」と青年がスマホをちらつかせた。
「盗んだの!?」
「人聞き悪いなぁ、初めからここにあったよ」
「な、何が目的なの!?悪いけど、お金なんて無いし、か、体が目的なら、私、何するか分からないからね!」
時緒は言いながら後退りして、後ろ手にキッチンのシンクに触れる。コンロの上にはフライパンが出したままだ、小振りなサイズだが、プラスチックのゴミ箱より頼りになるだろう。
「一度、落ち着いて。話をしようよ」
「話す事なんかない!さっさと出て行って!」
時緖はすかさずゴミ箱を手放すと、キッチンへ体を向けてフライパンを握りしめ、そのまま勢いよく青年を振り返った。
「…え?」
思わず間の抜けた声が出たのは、ベッドの前に居た青年の姿が消えていからだ。キョロキョロと部屋の中を見回すが、どういう訳か青年の姿はどこにもいない。隠れるにしても、隠れる場所なんて限られている。ベッドの小さな膨らみはそのままだし、隠れる場所があるとすればクローゼットの中、それともベランダから逃げてしまったのだろうか。だが、時緒が振り返るまで数秒しかかからなかった筈だ、こんな数秒の内に、物音もなくこの場から消えるなんて、あり得るのだろうか。
まるで狐につままれたかのような感覚に、それでも警戒しながら部屋の中央へ移動していると、「落ち着いて」と、今度は耳元で声がした。
「え、」
驚くより先にフライパンを奪われ、時緖はぎょっとして振り返った。青年は「置いとくね」と言って、フライパンをコンロの上に置いている。今、消えたと思った筈の人間が、今度は時緒の真後ろにいる。何度も言うが、ここは狭いアパートの一室、目の前にいた人間が突然真後ろに現れたのだ、さすがに移動していれば気配くらいはするだろう。音もなく移動して、まるで透明人間みたいに消えたり現れたりする青年に、やはり夢でも見ているのかと時緒が困惑していれば、青年は「何もしないよ」と、両手を上げて苦笑った。
「な、何なの、あなた」
「僕が誰か分からない?」
その問いかけに、時緖は声を詰まらせた。
先程も思った通り、時緖は彼の事を知っている。だが、まさかその人と目の前の青年が同一人物とは思えなくて、とにかく許可した覚えのない訪問者を部屋から追い出さなくてはと、フライパンを手にしたのだ。
だって、あの人がここに居る筈ない。
時緒は、そろりと目の前の青年を見上げた。
彼は、月那にそっくりだった。時緒の心を苦しめるあの人に。
いつも月那は、さりげなく時緖に声を掛け、他愛のない話に付き合ってくれる。穏やかで紳士的、踏み込み過ぎず距離を開けすぎず、客と店員でいる上では何の問題もないちょうど良い距離感。恋をしている時緒にはもどかしい距離であっても、月那の優しい瞳や穏やかな声、隣にいるとゆったり流れる心地のいい時間は、それでも時緒の心をそっと緩めてくれる。
彼と過ごす時間は僅かだが、時緖にとっては特別な時間だ。
そんな訳だから、時緖は目の前の彼があの月那だとは思えなかった。時緖の知っている月那は、人の部屋に無断に上がるような事はしない。時緖の気持ちがどうあれ、客と店員でしかない関係で、彼がこんな真夜中に客の家に押し掛けるなど非常識な行動を取る筈はないと時緒は思っている、だから時緖は、混乱の波からますます抜け出せないでいる。

