呑み込まれる藍色の夜は、美しい。重苦しく感じないのは、キラキラと時折星がその夜に瞬くからだろうか、その夜の向こうに、まだ遠い空が続いているように思えるからだろか。

柔らかに優しい藍色の夜は、まるで雲の上に身を乗せて、ふわりふわりとこの心ごと抱きしめられているみたいだった。

だが、その柔らかな夜は突如として消えた。パチ、と電気が点くように部屋が明るくなった感覚がして、時緒(ときお)はぼんやりと目を開けた。いつの間にか目を閉じていたようだ。

「今日は、どうしたの?」

穏やかに尋ねる声が誰かに似ていると思いながら、時緖は問われるままに口を開いた。

「ちょっと、失恋しちゃって」
「失恋?」
「そう」
「…それは、付き合ってる人がいて?」
「ううん、私の片思い」
「へぇ…それは、どんな人なの?」
「どんな人って、」

それは、と思い浮かべたその人は、いつも穏やかな声で時緒に挨拶をしてくれる。その声と、今、時緒に問いかける声が不思議と重なって、時緖はようやくおかしな事が起きていると気づいた。今、自分は誰と話していたのか。この部屋には、自分と猫のアトムしかいないのだ、会話が出来る筈がない。

「…え、寝てた?」

夢でも見ているのかと、時緖は不思議な思いでテーブルに突っ伏していた体を起こした。目の前のテレビには、相変わらず芸人達が賑やかに笑っている姿が映し出されている、彼らの会話を聞いて、自分が話してるつもりにでもなったのだろうか。時緒は目を擦りながら、とりあえず時間を確認しようと、眼鏡を掛け、ベッドサイドの時計を見ようと振り返り、その目をぎょっと見開いた。


真後ろのベッドに、青年が座っていたからだ。


さらりとした灰色の髪、長めの前髪から覗く瞳は穏やかで、白いシャツに黒のズボンという出で立ちだ。
そして、少しだけ複雑そうな表情で時緖を見つめている。


時緖は、この青年を知っている。


だからこそ、時緖は目の前の光景が理解出来ずに固まり沈黙した。時間にして数秒だろうか、その硬直を解いたのは、彼だった。

「…こんばんは」と、どこか気まずそうに彼が口を開いたので、時緒はようやく我に返り、そして、ぎゃっと悲鳴を上げた。青年が誰でもいい、とにかく家に上げた覚えのない人間がいる事が問題だ。

何故、こんな事になっているのか。酔いはすっかりと吹き飛び、吹き飛んでいる筈だが、理解が追いつかない。もしかしたら、まだ夢でも見ているのかと、現実と幻覚の狭間でふらふらと足踏みをしているような感覚ではあったが、時緒はとにかく身を守らなくてはと、ひとまず青年と距離を取ろうとした。
だが同時に気がかりが働いた、アトムの事だ。
アトムは、ベッドに潜り込んだままの筈、それなら青年の側にいるという事になる。
時緒は焦って、青年の傍らにいるであろうアトムへと目を向けた。アトムの姿は見えないが、布団には小さな膨らみが出来たままだ、恐らくその中で眠っているのだろう。

どうしよう、アトムを助け出すには、青年に近づかなくてはならない。けれど、怖くて近づけない。

そんな両極端な思いに焦っていた為か、動いた拍子にテーブルの足に足をぶつけてしまい、テーブルの上のグラスを倒してしまった。それにより、残っていたグラスの中身が零れてしまい、時緒は流れるアルコールを見て再び悲鳴を上げた。そのまま、あわあわとしながらグラスを起こし、急いで近くにあったティッシュで拭う、幸い床には零れずに済んだようだ。

「大丈夫?」

ほっとしたのも束の間、再び背後から声が聞こえ、時緖はびくりと肩を揺らした。悠長にアルコールが床に零れなかったか心配している場合ではない、今はとにかく青年から離れなければと、今度こそ時緒は青年と距離を取った。アトムの事が心配だったが、もしかしたら、彼はアトムの存在に気づいていないのかもしれない、もし気づいていても、アトムが何もしなければ手を出さないかもしれない、だってアトムの可愛さは万人を虜にする筈だ。

何の確証もない考えだが、とにかく今は落ち着いて、この青年を追い出さなければ。それが、アトムの安全に繋がる筈だと。