早く、酔いでも何でもいいから回ってくれないだろうか。
何も関係のないもので心を満たしたしてしまいたいのに。

けれど、そんな時に限って、何も味方になってくれそうにもない。


だから、不意に頭に過った“真夜中の魔物”に縋りたくなってしまった。

それは、昔に見た絵本の中に登場するキャラクターだ。最初は、魔物と聞いて怖くなったが、絵本の中の魔物は愛嬌たっぷりで、親しみがもてたのを覚えている。


「だからって、何も出来やしないのに…」

誰かの作り出した物語の中の存在だと分かってる、そもそも、例え“真夜中の魔物”がいたとして、その力を使って月那に会わせてくれたとして、きっと逃げ出すのがオチだ、今はこの思いを打ち明ける勇気もない。

小さな呟きは一人の部屋には大きく響き、時緒(ときお)は再び溜め息を吐いて、突っ伏した顔を上げた。


そこで、不意に猫のアトムと目が合った。


そうだった、味方が全くいない訳ではない。この部屋には預かっているアトムがいる。アトムを預けにお隣のアズが訪ねてきたのは、時緒がキッチンで座り込んでいた時のこと。あの時は、キッチンの窓からまだ西日が差し込んで眩しかった。
訪ねてきたアズは、どこか心配そうな視線で時緒を見つめていた。アズは、いつも可愛いフリルのついたスカートを履いていて、勝ち気でありながら魅惑的な子猫のような瞳を持つ小柄な女性だ。
彼女は「なんか元気ないね、何かあった?」と、時緒に尋ねた。優しい声に涙が溢れそうになって、言葉が上手く紡げない時緒を見てか、アズの腕の中にいたアトムがぴょんと時緒の胸に飛び込んできた。

「あ、こら!危ないだろアトム!」
「はは、ううん、大丈夫だよ」

出かかった涙が、心に温もりを持って戻ってくる。顔色を窺うように見つめるアトムに、時緒が自然と頬を緩めれば、アトムも嬉しそうに「にゃあ」と鳴いて、ごろごろと喉を鳴らして頬をすり寄せてくれた。

「なにが、にゃあだよ。この猫め」
「はは、慰めてくれたんだよねーアトム」
「まぁ、いいけど…じゃあ、預けても大丈夫そうかな?」
「うん、任せて」
「毎回、ごめんね。まぁ、アタシより時緒といる方がこいつは幸せそうだけどね」
「そんなことないよねー」

しかし、アトムはアズを見て、ふいっと顔を背けてしまう。その様にアズは頬をひきつらせていたが、怒ったところで無駄だと感じているのか、疲れたように溜め息を吐き、アトムを預けていった。

アズはアトムに手を焼いているようだが、時緒の思いはその逆だ。

アズがアトムを預けてくれなかったら、世話を焼く為に動く事もない、悲しみや苦しみを少しでも誤魔化して癒してくれるのは、たまにつれなくも、可愛くて仕方ないアトムだけだ。



**



そうして、ローテーブルに再び突っ伏して現在に至る。

「アトムー、」

まだ側にいてくれるアトムに呼び掛けてみれば、アトムはちらりとこちらを振り返り、アトムは時緒が伸ばした指に顔を寄せかけたが、すぐに興味を失ったかのように、ベッドの上、布団の中へと潜り込んでしまった。

「ちょっとくらい構ってくれたっていいのに…」

そう嘆いてみれば、アトムはちらとこちらを振り向いて顔を見せてはくれたが、また我関せずといった面持ちで、布団の中の深くへと潜り込んでしまった。

「そういう思わせ振りなとこ、あの人そっくり…」

思わず呟いたが、勝手に思いを募らせているのは自分だ、彼はただ普通に過ごしているだけ、ちょっと優しいからって、声を掛けてくれるからって、自分が特別とは限らない。勝手に舞い上がって勘違いしたのは自分だ。

「でも、やっぱり会いたいな…」

勇気がなくとも、あの瞳に自分を映してほしい。
彼にとっては特別でもない空間で、カウンター越しの会話は客と店員という遠慮や線引きがあっても、その域を抜け出せないとしても、自分にはそれだってやはり特別で。

やっぱり、会いたい。

やっぱり、恋しい。


何周したかも分からない、ぐるぐると巡る思いにやるせなく溜め息を吐いて、時緒はまたもやテーブルに突っ伏した。


そんな時だ、この部屋に“真夜中の魔物”が現れたのは。


それは、突然の事だった。

ふわりと背後から風が当たる感覚がして、時緒は不思議に思い背後を振り返った。ベランダの戸は閉めた筈、風が出るような家電も使っていない、それなのにどうして風を感じたのか、アトムがベッドの上で跳び跳ねたら音がしそうなものだが、その様子もない。

「……え?」

そして、振り返り見た先に時緒は目を瞬いた。

そこに、藍色の夜がふわりと舞っていたからだ。

雲が風を泳ぐように、その夜はごく自然に時緒とその部屋を包み込んだ。じわりじわりと夜が部屋に満ちるその様子に、時緖はぽかんと口を開けたまま、声を張り上げるでもなくその様子を眺め、これは“真夜中の魔物”の仕業だろうかと、やはりぼんやりと思った。それと同時に、ようやく酔いが回ってきたのかもしれないとも思う。
頭の片隅では冷静だが、そろそろほろ酔いの頃合いだ、あまり考えが回らない。そもそも考えようともしていないのかもしれない、ふわふわとした思考では考えるのも億劫で、そもそもこんな感覚を望んで酒を煽ったのだ。

時緒は思考を手放して、再びテーブルに突っ伏しながら、その夜を見上げた。