時緒は月那に、もう一度、絵本作家として歩き出す覚悟を与えてくれた。時緒にとっては何でもない事だとしても、月那にとっては特別な瞬間だった。
だから月那は、再び人の世に戻って来た。今度は旅行のような数日間ではない、人の世で生活する事を視野に入れた長期滞在、時緒と、もう一度出会う為に。
だが、時緒が子供の頃は簡単に縮まった距離も、大人の時緒相手となると、そう簡単には近づけない。妖だとバレてはいけないという恐れもあるが、大人同士だと接点を持つのも難しいし、気軽に声を掛ける事も出来ない、何より、月那は時緒を好きになってしまった。
それに、自分が公園で出会った少年だと、どうやって時緒に伝えれば良いだろうか。まさか、これだけの月日が流れているのに、あの頃の子供の姿で会う訳にもいかない、かといって大人の姿になった自分と会っても、時緒は気づいてくれるだろうか。突然、真夜中の魔物の話をして近づいたら、怪しい人物と思われるかもしれない。それに、真夜中の魔物の絵本の話は簡単には出せない、あれは人の世にはない絵本、どこにも情報すら載っていない絵本の事を、どうして自分が知っているのか尋ねられた時、時緒を前にして上手く誤魔化せるか自信がなかった。
だからといって、絵本には出来なかったのだと時緒には思われたくなかった。あの絵本は、時緒がいたから作れた作品だ。
そうして、ぐるぐると考え続けて気がつく、絵本の話が出来なかったら、二人を繋ぐものは何もない事を。
そんな風に思い至ってしまったら、人の姿で会うには自信がなくて、月那は猫となって時緒と再会を果たした。
猫でも何でもいい、月那はただ時緒の側にいたかった。時緖の側にいて、彼女を見守られたらそれで良いと思っていた。けれど、その手に触れられる度、楽しそうに話かけてくれる度、その手を握り返したくて、話をしたくて、もどかしさは募るばかりだった。
やっぱり、こんな風に見守るのではなく、時緖の特別になりたいと願ってしまった。
だから、“きこり”のマスターにお願いをして、店員として置いて貰う事にした。あの店を選んだ理由は、時緖が通勤時に必ず店の前を通るからというのもあるが、実は、“きこり”のマスターも妖だからだ。彼は人間に正体がバレる事なく、何十年と喫茶店を営み続けている。月那にとっては弟子入りしたい位の存在だ。
“きこり”の店員となると、月那は早速、店の前を掃除してる振りをして、通りかかった時緒に声をかけようと試みた。だが、いきなり挨拶をしては時緒に不審がられるかもしれない、時緒にとって自分は初対面の見知らぬ店員だ、かといって、時緒が店に立ち寄ってくれる保証もない。時緒は通勤時に店の前を通るだけで、店に通っているような話は聞いた事がなかった。
さて、どうするべきかと悶々としていれば、時緒が鞄の中身をひっくり返していた。時緒には申し訳ないが、月那にとっては声をかけるチャンスだ、月那は心を決め、時緒にいよいよ声をかけた。
「大丈夫ですか?」
何気なくを装ってはいたが、まるで心臓が飛び出しそうな程、緊張したのを覚えている。時緒の瞳に自分の姿が映っている、まるで時間ごとこの世界の全てが彼女の瞳に囚われてしまったかのようだ。
美しいなんて言葉では言い表せやしない、苦しくも柔らかにこの心を包む瞳に、何もかもを捧げてしまいたくなる、そんな気持ちだった。
なので、その時は自分の事で精一杯で、どうやって時緒と別れたのかはっきり覚えていない。時緒に見惚れるばかりで、おかしな事を言っていなかったか、心配で店にいても気が気ではなかったのだが、その夜、時緒と再び出会う事が出来た、ついつい舞い上がってしまい、浮かれる胸を抑えるのが大変だった。
それは、小さなものだけど、絵本以外で時緒との接点が出来たみたいで嬉しくて、この機会を逃すまいと、必死になって時緒を引き止めたのを覚えている。
それから、時緒が店に来てくれるようになって、お喋りをしてくれるようになってからは、警戒されないように、ただの挨拶の延長で話してるだけだと、細心の注意を払いながら時緖と接した。間違っても預かり猫のアトムしか知らない話をしてしまわないように、それから嫌われないように、逆に好きの思いを伝えてしまわないように。
言葉を選んで、話題も慎重に選んで、それを気づかれないように、そして時緒が少しでも笑顔を見せてくれるように。特別な関係には程遠いけれど、猫でいる時よりも距離はぐっと近くなった気がして、嬉しくて楽しくて、でも、同時に苦しかった。
結局、自分は時緒に嘘をついている。猫になって時緒を騙して、それでは飽き足らず人の姿に化けて素知らぬ振りをして近づいて。
時緒が、もし自分の正体に気づいたら、彼女は自分を軽蔑するだろうか。それが怖くて、月那はいつだって時緒との間に線を引いていた。店員と客、いくら踏み込みたくても、それ以上は踏み込んではいけない事。
だから、今夜のように時緒の部屋で人間の姿に化けて会ったのは初めてだ。緊張して舞い上がって、いつもの店員の自分を忘れて声を掛けてしまった。時緖に疑われたら、猫のアトムですらいられなくなるかもしれない、それでも落ち込む時緖を見ていられなくて、月那は現実にはいない真夜中の魔物をこの部屋に呼び出した。
時緖は、どう思っただろう。自分との対面を真夜中の魔物の仕業だと信じただろうか、それとも全てはただの夢だと思って、明日からも店に来てくれるだろうか。
もし、アズが来なかったら、あの後、二人はどうなっていたのだろう。

