「ニャン吉いぃい!!!」

 僕は絶叫した。この名前だけで分かってくれると思うけど、ニャン吉はまんま猫。ふわふわ柔らかな手触りの、太陽の香りがする猫。耳と鼻はピンクでそれ以外はぜんぶ真っ白の猫。……たまに、茶色のまだら模様になって帰ってくるけど。

 ニャン吉はせまいところが好きだ。猫だから当たり前だけど、カバンの中や布団の合間、家具の隙間とか。  

 今朝はランドセルの中を占領していた。普段は寝てるだけなのに、こんな時だけ器用に働くニャン吉によって、教科書はほとんど外に出されている。ペーンっと、ニャン吉の後ろ足で高く弾かれた僕の筆箱が、ランドセルの外側へと飛び出した。

「こらあ!」

 遅刻するじゃないか! というより、とうに出発しなくちゃいけない時間は過ぎている。

 ふぎぎ、とニャン吉の両脇を持ち上げ出そうとした。ニャン吉は後ろ足で抵抗したが、やがて力では勝てにゃいと諦めて、にゃあんと鳴いて逃げた。教科書をかき集め、パチンと金具を閉じた。

「いってきまあす!」

 お母さんが僕を一瞬みて、にこりと笑ってバイバイと手を振る。僕もつられて笑顔になる。手を振って、玄関を飛び出した。

 少し冷たい風を浴びる。ニャン吉のせいで遅れた。なんとか授業開始に間に合わせるために走っていたけど、途中で足をゆっくりにした。目線の少し先を歩くのは、サラリーマンのおじさんだ。近くで働くお母さんと仲良くなって、一年くらい前から僕たちは一緒に住んでいる、生きていれば僕のお父さんと同じ歳だったおじさんが。

 このまま走ると、追い越してしまう。後ろを、振り向きませんように、僕に気付きませんようにって、やたらとドキドキとしてしまう。

 気づいていないと思ったのに、おじさんは振り向いた。

「ゆうすけくん、いってらっしゃい」

 それで口元を緩ませて、僕にバイバイと手を振った。僕は、手を中途半端にあげて、バイバイといえるような、いえないような、そんな小さな手の振り方をした。おじさんは灰色のコンクリートで造られた職場に入っていって、そのままガラス扉の向こうに消えていった。
そのあと、おじさんの姿を見送っていたうちに学校に行かなければならないことを思い出して、また走り出した。