いつもなら、誰よりも早く教室に来て、机に置かれた先生が大切にしているカーネーションに水をやり、わずかに歪んだ机の列を整えるのが私の日課だった。
ただ、今日は寝坊した挙句、追い打ちをかけるように電車の遅延に遭った。学校に着いたのは、大半の生徒がすでに集まっている始業チャイムが鳴る十分ほど前だった。
教室へ続く廊下。話したこともないクラスメートとすれ違う。しかし、私を見るなりまるで「そこに存在してはいけないもの」を見たかのような冷ややかな視線を投げかけてくる。気のせいだろうかと思い、振り切ることにしたが、教室内に入ると喉が焼けつくような、重苦しい悪意の塊がのしかかってきた。
「○○さんじゃん……」
「○○さん、まさか、ああいう子だったとは」
「無口なくせに、裏ではあんなことをSNSに書いてるんだ、流石に引くわ」
私が教室に入った途端、一方的に攻撃してくるような強い視線を感じ、思わずその場に立ち止まってしまう。後から入ってきたクラスメートに「邪魔、どいて」と言われながらも動けなかったために、上履きを強く踏まれてしまう。上履きに黒い跡がプリントされた。ただ、それ自体はそれほど痛い痛みではなかった。むしろ、それよりも痛いのは四方八方から向けられる視線だ。
私が誰かをいじめる?——私はそちら側の人間ではない。もし私が誰かを傷つけるとするなら、それは自分自身だけだ。
この中に、私の味方はいないのだろうか。かろうじて視線を動かすけれど、私の仲間はすぐには見つからない。確かに「話を聞いてみようよ」「何かの間違えだよ」とクラスの学級委員長のように、一部の人は皆を落ち着かせるよう行動していた。でも、表向きはそうであっても、裏では同類かもしれない。ブラックホールのような心を、人間は誰しも持っている可能性があるのだから。
海虎くん——。
無意識に心の中でその人を呼んだ。言葉にして出さなければ、来てくれないどころか、振り向いてもくれないはずなのに。
「ねえ、○○、ちょっと来て」
誰だろう——背後から、不意に誰かに声をかけられた。そして、腕を強く掴まれた。思わず「離して」とありったけの声で叫びそうになった。でも、斜め上に視線を向けると、それがひだまりへと変わった。
海虎くんは私の腕が悲鳴を上げるほど強く握ったまま、私の返事すら待たずにどこかへ向かって全速力で走りだした。
「えっ、ちょっと、どこ行くの?」
「屋上」
流石、バスケ部員。私の歩幅が合わない。半分引きずられるような形になりながらも必死に食らいつく。廊下や階段にいた生徒たちも私たちの姿を見て「何事だ」と驚いているようであった。登校する生徒たちの間をするりと通っていく。生徒指導の先生が「廊下を走るな!」と大声で注意しても、彼には届いていないのだろうか、それすらも無視をして屋上へと向かう。
屋上のど真ん中に着くと、海虎くんはぴたりと足を止めた。すると今度は海虎くんは私の両手をしっかりと握り、向かい合うようにして私の目を見つめてきた。今日の屋上からは、灰色のベールをかけたような雲がいくつも広がっているのが見えた。今日は折りたたみ傘すら持ってきていないのに。
「なあ、○○、落ち着いて聞いてくれ——」
全速力で走った海虎くんの吐く息を近くに感じる。そして、私の吐く息を海虎くんに吸い込まれる。
「——○○がSNSでクラスメートの悪口を発信してるって、クラス内で拡散されてるんだ」
「えっ、私、そんなこと……」
たしかに、教室で誰かがそんなことを言っていた気もする。でも、全く身に覚えがない。そもそも本名を出しているSNSなど陰キャの私が使ってなどいない。海虎くんは、証拠にと、私の名前と同じSNSのアカウントを見せる。確かに学校名も、学年クラスや出席番号、そして血液型さえも私のもので間違いない。
そのSNSに書かれていることを見ると、「かわいくないのに、かわいい子アピールしてるブス」「あいつは、ゴミみたいな性格してる」や「デブすぎて吐き気が出る」などクラスメートの攻撃的な悪口が多数書き込まれていた。私に対しての悪口でなくともめまいがする。
今の私がどのような立場に置かれているのかを理解した瞬間、背筋が凍った。
「昨日の夜にこのアカウントが作成されて、今もうこんな状態」
昨日そのアカウントが作成されたとなると、まだ一日も経っていない。誰かが偶然それを見つけ、光のような速さでクラス内で拡散されてしまったのだろうか。
「海虎くん、それ、まさか私がやったと思ってる?」
まさか、責任を問いただすために朝の屋上という誰もいない閉塞的な場所に連れてきたのだろうか。今から私は粉々に砕かれて、もう二度と誰も近づいてはくれなくなるのだろうか。
「そんなわけないじゃん。○○がこんなことしないっていうのは分かってるから。もちろん、僕以外の三人も」
クラスの皆以外にも、海虎くんたちもその犯人が私だと思われているのかもしれないと思ったけれど、海虎くんを含めグループの皆は味方だということが分かったと同時に、グループ内の誰かが私になりすましている可能性も低そうだと確信した。私の居場所は光の当たり方は弱くなったかもしれないけれど、残されてはいたんだ。
「信じてくれるの……?」
「ああ、もちろん。もし、そういうやつに見えたんだったら、僕は君をこのグループに誘ってない。僕が○○はやってないことを保証する」
「ありがとう。やっぱ海虎くんに誘われてよかった」
「なあ、急にハグするなよ」
海虎くんたちが盾になってくれる。無意識にしてしまったハグは好意など含んでいない。山のふもとの水のように純粋で、自然なものだった。「しょうがないな」と照れくさそうに言いつつも、抱きしめかえしてくれる海虎くんは間違いなくお人好しだ。
「……とはいえこのままだと流石にまずいな。クラスメートの多くは、○○がやったと思ってるから。なりすまされたと言ったところで信じてくれるかは半々だな」
数秒間、海虎くんは「私を守る」と小声で言いながらハグを続けてくれた。ただ、その手をそっと離すと、もっとずっと現実的な話を持ち出してきた。今、感傷に浸っている場合ではないということは私にだってわかる。居場所が失われなくても、名誉が失われればこの先、私はクラスの中で「誹謗中傷する人」で形作られてしまう。
「なんか、心当たりのあるやつとかいないか? 出席番号までも知ってるとなると、内部犯の可能性が高いかもな」
グループ内の誰かが犯人説は否定したけれど、冷静に考えてみれば、血液型まで知っている人はかなり私のことを知っている人物ということになる。グループ内では確か血液型占いの話になったときに自分の血液型を答えたことがあった。でも、海虎くんを含め、皆は私がこのようなことをやったと信じてくれているのだから、私も信じなくてはならない。
とはいえ、他に誰がいるだろうか——。
「……待って、いるかも。確証はないし、あくまで考えられるというだけにすぎないけど、もしかしたら元カレかも。まあ、元カレと言っていいのかも微妙な人だったけど」
「元カレ?」
もう一人、可能性があるとしたら元カレだろうか。この人が私にトラウマを与えた憎い人物だ。確かに、再び居場所を手にした私を知って、恨みを持ってもおかしくはない。
「うん、私、こう見えても中学生までは陽キャグループに属してたんだ。中二の夏、告白されて彼氏ができて——」
本当は隠しておきたかったけれど、この事件から守ってもらうために、私はそのパンドラの箱を開けなければならない。その箱を、今一番大切な人の前で開く決心がついた。
そんな中、運悪くも小雨がポツリポツリと降ってきた。そんな雨なんか消されないように、はっきりと彼に向かって話し始める。
——中二の夏、告白されて人生で初めての彼氏ができた。私の一番の居場所となった彼氏と、デートをしたりお互いにお弁当を作ってきたりするなど、まるで理想で思い浮かべる恋人のように一年半過ごしてきた。高校受験を失敗し、絶望に陥った私を不器用ながらも励ましてくれたのも彼氏だった。でも、卒業式の日に高校受験の失敗で深い心の傷ができていた中、更に傷を広げるような出来事が起きたのだ。
「卒業式の日、屋上に呼ばれたの。そして彼は、自分の行く高校を教えてくれた。それが、この高校。私も同じ高校だったから失敗したとはいえ、居場所が失われないことが嬉しかった。でも、その嬉しさはあっけなくそれを超える痛みに代わったんだ」
「痛みに……?」
「『○○にしたのは嘘告白で、君のことは遊びにすぎなかった。あくまで予備だった』って堂々と言い張ったんだ。そして、遊びだったことを証明するかのように、本当の彼女といる写真を見せびらかしてきた。確かにおかしなところはあったかもしれない。クリスマスや彼の誕生日は予定入ってるって言うし、プレゼントをあげたというのに、態度が冷たい時も何度もあった。それでも、私は好きになってくれた彼を愛そうとしていた……。今思えば、私はバカだったね」
トラウマの再生はやはり嫌いだ。海虎くんの前で弱みを見せるから。気づけば顔に大量の水滴がついている。これは全て雨なのか、はたまた一部は涙なのか、私には到底判断できない。おそらく彼は、私と同じ高校に行くのが何か不都合だと感じて、卒業式の日に私をただの予備者から何者でもない他者に変えたかったのだろう。
「……もちろん確証は持てないけれど、血液型まで知ってるとなるとおそらくそうだろうな。そいつの可能性、探ってみるよ。何組かわかる?」
「たぶん隣のクラス……二組。あとあいつ、図書委員会らしい。前に不機嫌そうに受付をしてるのを見た。そのときは、元カレのことは言わなかったけど、助けてもらったんだ」
前に私が読む気もない小説を返した時にいた人が元カレ。あれは今思い返せば、怖さを超えた拒絶反応だったのかもしれない。
「わかった、隣のクラスで図書委員会。秀雪たちにも助けを求めてみるか」
「それはやめて。多くの人を巻き込むのは申し訳ないし、もしなんかあったら私自身が傷つくより辛いよ」
「僕は、○○が傷つくのは自分が傷つくより辛い。皆同じなんだよ。だから、今は僕を信じて」
私のせいで他の人が傷つくことは避けたかった。人を不幸にする人間になんてなりたくはない。ただでさえ、今の私はこのグループにとっておそらくお荷物だ。それなのに、これ以上求めることは邪魔ものに成りかねない。
でも、彼からも私が傷つくことで他の誰かも同じように傷つくことを教わった。
だから、この一件は一番信じている彼に任せることにした。私が今、一番できることは、彼を信じることにほかならない。
「とはいえ、海虎くんがあのアカウントはなりすましだとクラスのみんなに言うの? そしたら、今度は海虎くんが標的になるかもしれないし……」
「僕はそれも最初の一段階としてありだと思ってた。でも、○○がそういうならそれはしない。○○をこれ以上苦しめたくないし、たしかにより悪い方向に行く可能性もなくはない」
「じゃあ、他の作戦でもあるの? 仮に犯人が元カレだとして、問い詰めたところで自白なんてしないと思うけど……」
「大丈夫。あくまで元カレが犯人だったらの話だけど、早ければ今日中に片付ける。……俺、意外と賢いんだぜ」
海虎くんは不気味な笑みを浮かべながら、自信満々にそう言い放った。ただ、一人称がいつも「僕」の海虎くんに「俺」はどこか似合わない。雨に濡れた顔のままだと余計にだ。
始業チャイムがまもなく鳴ってしまう。私たちは、教室に戻ることにした。ただ、せめてもの救いとして、私のハンカチで海虎くんの髪の毛にある水滴をふき取った。そして、言われた通り、彼に守られるように隣にくっつきながら教室に入る。
教室ではまだ私への嫌疑の目が向けられていた。ただ、先ほどよりはその目が鋭いものではなくなったようにも感じられた。なりすましアカウントでは、海虎くんへの悪口も書かれていた。しかし、そんな海虎くんが近くにいるということは、「何か別の事情でもあったのではないか」と思った人がいたのではないだろうか。海虎くんは私が言ったように「○○はやってない」とは言わなかったけれど、小さな抵抗をしたのだ。私の席までつくと「もう少しだけ我慢してくれ、必ず解放してやるから」といい自分の席に戻った。そしてそのタイミングで始業チャイムが鳴った。



