さっきまでこの教室に漂っていたチョコの匂いを嗅ぐと、一ヶ月ほど前のバレンタインを思い出してしまう。そこに固執する必要はない。でも、まだ抜け出せない。だけど、その出口は今日、無残な形かもしれないけれど、きっと開かれるはずだ。
儚いオレンジ色の夕日がまもなく沈むころ、私たちはそれぞれの思いをチョコに託したまま、廊下で手を合わせていた。誰もが今にも泣き出しそうだった。正直、五人でいたこの一年の中で、今が一番つらい時間だと思った。でも、どこか完全な真っ黒い辛さではなく、差し込むオレンジ色の光すら感じられる美しいものでもあった。
「ついにだね。どのような結末を迎えようと、私は全員のことが大切。これだけは、嘘じゃないから」
「嘘はダメだよ。もちろん、好きなのに誰かのためを思って置かないという選択肢を取るのも。それはきっと、五人でいた時間を裏切る行為だと思うから」
「誰が結ばれようと、恨みっこはなし。そのために、今日を迎えたんだから」
「五人でいた一年間、本当に輝いていた。あくまで今日はその思い出に泥を塗るんじゃない、差し込まなければいけない光を与えるんだ」
「今日までありがとう。今日までも、そしてこれからもずっと、一生友達だ」
私たちの関係は数分後に新しい関係になる。粉々になった絵画のように完全な修復はできなくなる。どんなに叫んでも、この関係でいられるのはこの瞬間で最後だ。五人は最後に言いたいことをちゃんと言い合えたんだと思う。
——さようなら。そして、はじめまして。
教室に入る順番は事前にくじ引きで決めていた。一葉ちゃん、海虎くん、秀雪くん、花梨ちゃん、そして最後は私、凛音。
「じゃあ、スタート——」
静けさが広がる空間。でも、五人の胸の中はきっとうるさくてたまらないぐらいの感情で溢れている。ドアの開く音と閉まる音がこんなにも違う風に聞こえたのは生まれて初めてだった。
一番最初の一葉ちゃんが戻ってきたけれど、ギュッと自分の手を握っていた。その手を握ってあげたい。でも、今は握れない。
二人目、三人目と教室に入っていく。皆、出てきたときの表情は何事もなかった時のように無表情だった。どんな顔をすればいいのか、私以外も皆わかってないんだ。
いつも笑ったり、喜んだり、泣いたり、怒ったり、恐れたり、そして驚いたり——数えきれないぐらい豊かな表情を見せてくれるのに、今日に限って見つからないなんて。
私の前の花梨ちゃんが教室に入った。もうそろそろ、私の番も来てしまう。
夕日も私たちの恋を見守る中、花梨ちゃんが数分経って戻ってきた。自分の気持ちを彼女はきっとぶつけることができたんだと思う。
——ついに、私の番だ。
もう時間は巻き戻せない。時計の針を変えたところで意味を持たない。
ドアを引きずるように開けた。ガラガラという音がちゃんと私の耳に入る。そして、その扉をもう一度閉める。
一人の空間だ。誰にも邪魔されない。今だけは恋という感情でさえも邪魔されない。その空間で私は、大空に眩しい光を放つ星に願うように目をそっと閉じた。
「きっと、ずっと——」
私が終われば崩れるものは崩れる。でも、守られるものがあると信じて私はただ一点に向かう。ほんの数メートルなのに、こんなにも道のりが長く感じるなんて。
たどり着いた、ただ一人の机。
その机をそっと手でなぞるように触れた。彼がいつも使っている机だ。間違いない。
この中に、私の思いを託したチョコを入れるんだ。
でも、すでに一つのチョコが置かれていた。
そのチョコを見た瞬間、私はどこかほっとしてしまった。そして、少しだけ笑顔になった。
「よかったね」
なんでだろう、ライバルがいることが確定した瞬間なのに。それはきっと、そのことを知っていて、ちゃんと置くことが——自分の気持ちに嘘をつかないことができたんだと思えたからなのかもしれない。
私は迷うことなく、その人の机にチョコを置いた。せめて願うだけは、許してほしい。このチョコはきっと甘さを失ってしまった。でも、ちゃんと食べられる。
「……置いたよ、皆」
私は、もうその場にいる必要がなくなったと思えると、教室を出た。五人が下を向きながら私を待っていた。いつもの五人なら話が絶えないはずだ。なのに、今は誰も話そうとしない。ただ、私のその言葉に「うん」と反応するだけだった。
「じゃあ、皆、入ろうか」
私は無理やりいつものように振舞う。そして五人は、覚悟を決めたように自分の机に向かった。チョコレートレートがあって、それが自分の置いた人と同じ名前なら両想い。チョコレートレートはあったけど、自分が置いた人と違う名前なら片思いをしている人がいる。置かれてなかったら——そういうことだ。
私はもうほとんどその結果を知っているけれど、私も自分の机の中を覗く。
「うん、大丈夫」
私の机には、
そう、知っていた。
——もちろん、何もない。
そのことを。
どこか奥に入っているのではないかとか、そんなことはもう考えない。机の中をほんの一瞬だけ覗いた必要もなかったのかもしれない。
ということはきっと、他のところで糸はしっかりと結ばれたのだ。
好きな人と結ばれたのだから、もっと喜んでほしいのに、ハープの音みたいに柔らかく静かな言葉しか飛び交わなかった。
手を取り合っている一葉ちゃんと海虎くん。そして、私が叶わないとわかりながらも好きになった秀雪くんは、花梨ちゃんと手を取り合っていた。ただ、どこか、そっけない。選ばれない誰かを気にするように。このグループは、自分だけじゃないんだと言い聞かせるように。
「よかった……。これで」
泣いたら負けだ。今まで私はいろいろな人と恋をしてきたはずなのに、今更ながら初めて本当の恋を知った気がする。それだけでも成長している。恋って思っていた以上に苦いし、辛い。なのに、なんで外から見ると、雪の結晶みたいに輝いて見えるのだろうか。私たちを作る一ピースのように。
本当にずるい。
ずるい。
ずるい。
ずる、い……。
「結果は出たね。皆、これからもよろしく!」
強がっているように思われるだろうか、私は大声でそういいながら手を高く上げた。私を気遣うためにそんな静かにしているのであればそれは大間違いだ。これで、安心して五人でいられる。そして、次のステップへ向かって歩みだせる。それだけで十分だ。
「そうだな。よろしく!」
秀雪くんが私と同じように真似をする。そうだ、私はそうしてくれた方が何倍も嬉しい。無駄な励ましなんていらない。むしろ、それが私を苦しめる。いつもの五人が、とてつもなく好きなのだから。
花梨ちゃんは、私に急に抱き着いてきた。もし、私が今、一番嫌う言葉である「ごめんね」といったら絶交してしまおうかと思った。でも、彼女はそんなことは一言も言わなかった。
「凛音ちゃん、大好き!」
「私も。大好き、大好き。……とっても大好き」
これが私の友情の形。好きな人を取られたからって花梨ちゃんのことを嫌いになんかならない。なってやるものか。痛いぐらいに彼女は抱き続ける。
一葉ちゃんと海虎くんも、そして秀雪くんも私を中心として一斉に抱き着いてくる。
「そんな皆でくっついたら苦しいよ……でも、この場所が、一番過ごしやすい」
顔が、ほっぺが優しく押しつぶされる。とっても、くすぐったい。
私たちは、もうさっきのような無表情ではなかった。花が咲いたように笑顔が絶えない、いつもの五人だった。
さようなら、私の本当の初恋。おかえりなさい、私の大好きな一葉ちゃん、花梨ちゃん、海虎くん、そして、秀雪くん——。
「春休み、皆で旅行に行こうね」
私がそういうと、皆は「うん」と大きく頷いてくれた。
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