五色に溶けた空の色




「ねえ、今日は屋上でお昼食べない?」

 ゴールデンウィークの余韻が消え、五月病の溜息がちらほらと教室に漂い始めた今日も、グループの一員としてはまだまだ不慣れな私に、海虎くんはいつものぬくもりさえ感じられる温かい声で誘う。そしてその視線の先には、秀雪くんや二人の女の子。

「うん、もちろん! ……あっ、でも、図書室に本を返してから向かうから、先に行ってて」

「おお、わかった。じゃあ、先に行ってるな」

 孤独を装うために借りていた、一ページ目の内容すら頭に入っていない文学小説。その本とも、返却日の今日をもってようやくおさらばだ。海虎くんに招き入れられてからの十日間、私に起きた目まぐるしい出来事の数々は、なぜだかもうシャボン玉のように儚く、鮮明に思い出せない。けれど、冷え切っていた私の心に、居場所が宿ったことだけは確かだった。

 図書室に入ると、かつての私と同じように静けさを求める人で溢れていた。さっさと返して、みんなの元へ駆け出したい。そう思っていたのに、男が一人、カウンターに無造作に足を乗せながら明らかに不機嫌そうに座っているのが見えると、心臓が早鐘を打った。

 何かされるわけじゃない。そう分かっていても、足が床に固定されているようにどうも動く気配がない。完全に陰キャから解放されたわけじゃない私にとって、その存在は野生の熊みたいに脅威だった。

「どうしたの?」

 五月の青空に溶けたように、その声は透き通る。同じグループの女の子——青リボンの子だ。どうやら、忘れ物を取りに教室に戻った帰りに、戸惑っている私の姿が彼女の目に入ったようだ。事情を話すと「確かに不機嫌そうだね」と相槌を打ちつつ、「私が返してくるよ」と言いながら、その本を私の手元から優しく引き取った。彼女は私よりは陽キャだ。けれど、クラスの権力者という立場からは程遠い。そんな中、彼女は手をほんの少し震わせながらもカウンターへ向かい、私が瞬きをする間に返却を終えた。

「……ありがとう」

「えへへ、どういたしまして。じゃあ、一緒に屋上に行こう!」

 屋上へ向かうために通った渡り廊下からは、もうすっかり桜が咲き誇った後の青々とした葉を付けた木が何本も生い茂っている。そんな景色を横目に彼女は「いつの間にか春も終わっちゃったね」と何気ない会話を始めた。確かに無言で歩くのは、なんだか無駄にそっけない。

「そうだね。春の花とか好きだから少し寂しいけど、夏は海があるしね」

「私の中学校、海から近かったから、よく皆で足を濡らして帰って、毎回お母さんに怒られたな」 

「へー、そうなんだ。楽しかった?」

「うん、すごく楽しかったよ」

「私は、海ほとんど行ったことないからな、羨ましい」

「……あっ、海虎くんたちいた! お昼終わっちゃうし、急ごうー!」

 屋上までたどり着くと、私たちの姿を見つけた海虎くんは、「ここだよ」と言わんばかりに手を振る。それを確認すると、応えるように彼女も手を振り、私も小さくそれに続いた。今日の空は、まだ五月だというのに、じりじりと照りつける太陽が、早すぎる汗を誘っていた。アスファルトに揺れる陽炎。私はようやく、世界の小さな彩りに目を向けられるようになっていた。

「よし。じゃあ、早い者勝ちだぞ!」

 海虎くんが購買で買ってきた数多くのパンを、律儀にもレジャーシートの上に広げる。諦めていた高校での青春のページを上書きしながら、手を伸ばしたところにあったパンを取る。私が手にしたのはアップルパイだった。袋を開け、小さな口で一口かぶりつくと、甘酸っぱい香りが一瞬にして広がる。ふと横を見ると、秀雪くんも同じパンを口にしていた。ただ、秀雪くんは私の顔を見るなりくすっと笑う。

「えっ、何?」

「いや、なんでも」

 絶対になにかある顔なのに、彼は教えてくれない。女の子二人も、私の顔を見て「あはは」と楽しそうに笑う。 困惑する私に、海虎くんだけが、笑うことなく距離を詰めてきた。

「顔に、リンゴ付いちゃってる。……ちょっと待っててね」

 私の胸がドキドキと高鳴る前に、すっと彼が私の顔についていたリンゴをポケットティッシュで拭き取る。そして、何事もなかったかのようにもといた場所に戻る。ただ、海虎くんの手が、一瞬だけ私の肌に触れた。みっともない姿に恥ずかしいと思いながらも、小さな笑いをこの空間に作ることができたからか、嫌な感じはしない。

「……というか、来週、歴史と地理の小テストあるよね? 高校生って忙しくない?」

 青リボンの子が、大きな口でメロンパンを頬張り、片手では教科書を見ながら、独り言のようにつぶやく。彼女の教科書には、パステルカラーの虹のようなマーカーが所々に塗られており、端っこには先生が言っていたポイントまで小さな字でびっしりメモされている。

「ああ、そうだった、小テストか! 数学とか情報なら得意だけど、社会はあんま自信ないな……」

「海虎と同じく僕も社会は苦手。この中に、得意な人いないのか?」

「……じゃあ、よかったら私、勉強は得意だから、わからないところあったら教えようか?」

 高校受験に失敗して自信を失くしたけれど、勉強の習慣だけは自然と残っていた。入学直後の課題テストの順位も、一桁台。それでも、自分から進んで「教える」なんて言い出したのは、今の私らしくない行動だったので、自分でもちょっと驚いている。

「本当? それは助かる! ねえ、よかったら今日の放課後、教えてくれない?」

「うん、いいよ」

 海虎くんの瞳の輝きには、到底その言葉以外の選択肢なんて見つからない。必要とされているのなら、私はその人たちのいる方向に手を伸ばすのみだ。海虎くんがそうしてくれたように。ただ、あくまで私が伸ばせる方向は決まっているのだろう。

「えー、じゃあ、私も混ぜて。二人はどうする?」

「僕は用事が」

「私は部活があるからな。でも、わからないところがあったら今度教えてもらおうかな」

 秀雪くんとヘアピンの子とも時間を共有したかったけれど、どうやら都合が合わないみたいだ。私は残り一口のアップルパイを飲み込んだ。

「じゃあ、今日は私と海虎くんの先生としてお願いします!」

「はい、頑張ります!」

 私は彼女がハイタッチを求めてきたため、口元を緩ませながら彼女の手を合わせた。にっこり笑う彼女の笑顔は、私と同じ空間にいる人とは思えないぐらいとてもかわいかった。

 ──私には、もうあんな風に、濁りのない笑顔を作ることはできないのかもしれない。

 その予感と同時に、不吉なものを感じた。遠くで響くバイクの爆音のようなもの──。

「いやーっ!」

 突如、狂ったような突風が屋上を飲み込んだ。あまりに強い風だったため、屋上にいた女の子たちは次々と悲鳴を上げる。私も思わず目をつぶりながら、両手でスカートの裾を掴む。どこかで「バン!」という鈍い音が響き、何かが吹き飛ばされた気配がした。でも、顔にはまだ砂が容赦なく襲ってくる状況では、まだ目を開けることはできない。

 ようやく風が止み、恐る恐る目を開ける。 さっきまでの穏やかな当たり前の景色。けれど、そこにあったはずのある「光」が消えていた。

 ——海虎くん?

「あれ、海虎くん、どこに行った?」  
 
 そのことに気づいた他の子たちも辺りを見回しながら、海虎くんを探す。

 彼が私を誘ってくれたときのように、あっけなく消えてしまっては——。その想像だけで、額から嫌な汗が吹き出した。

 私が彼の姿を捉えたとき、息の仕方を忘れてしまった。

 海虎くんがいたのは、屋上のフェンスのギリギリの場所。フェンスの方に手を伸ばして、体勢が崩れれば、体はすぐに地面に向かって落下してしまう。

 彼が何をしているのか。それを考える余裕などなかった。

 ただ、私の脳裏に、最悪の情景がフラッシュバックする。フェンスの向こう側へ、自ら身を投げる人影。

「海虎くん……」

 その想像がついには全身をめぐり、気づけば彼の名前を弱々しい声で呼んでいた。

 ただ、彼は何事もなかったかのように段々とフェンスから離れる。そして、ほっと安心したような顔をしながら、私たちの方へ向かってゆっくり歩いてくる。

「よかった、ハンカチ、飛んでいっちゃうところだったよ。もらったやつだからさ」

「もー、おっちょこちょいだな! っていうか、そのハンカチかわいい!」

 彼が自ら危険な行為をするはずがない。ただ突風で飛ばされた、ウサギの刺繍入りのハンカチを追いかけていただけだった。青リボンの子も、海虎くんのことを「おっちょこちょい」だと言いながら笑っている。それ以上のことはなにもないのだ。

「……○○ちゃん、大丈夫? 何かあった?」

 それなのに、指先の震えが止まらない。ヘアピンの子に心配そうに顔を覗き込まれる。私は必死で荒い呼吸を整えた。

「ああ、ごめん。何でもない。ちょっとトイレに行ってくるね」

「大丈夫? 一緒に行こうか?」

「いや、一人で大丈夫。ありがとう」

 急に私の中に潜んでいる暗い影が飛び出してきたかのようだった。ここで感情を爆発させるわけにもいかず、皆の前ではいつも通りに歩き、皆が見えないところまで来ると、逃げるようにトイレの個室に駆け込み、口元を強く覆った。

 ──そこにいたのは、数か月前の私だった。

 さっき脳裏に映し出された景色は、海虎くんではなかった。数か月前の私自身だ。

 卒業式にとある人に言われた言葉で、自分の存在を失いかけたあの日の光景がまたやってくることになるのだろうか。私に居場所を与えてくれた海虎くんを仮に好きになったとしたら、あの悪夢への逆戻りを意味するのだろうか。

 昼休みが終わるチャイムが鳴り響くまで、私は暗くて冷たい個室の中で、何度もこみ上げる吐き気と戦っていた。