五色に溶けた空の色



 花梨には必ず守るということだけを言って、放課後空き教室に向かわせた。グループのみんなも周囲に配置したとはいえ、流石に空き教室周辺に置くのは困難だった。彼女はスマホの入ったポケットに手を突っ込んだまま空き教室に入っていった。僕は北川くんの助言に従いとあるところから見守るが、密閉され窮屈かつ、腐った卵のような鼻につくにおいがする。

 今何時になったのだろうか。わからないまま、でも確実に時間は過ぎていき、空き教室のドアが、ギーギーと鈍い音を響かせながら開いた。その瞬間とほぼ同時刻、僕のスマホにも『眼鏡をかけた男が一人入った』という連絡が入る。とはいえ、この体勢、筋肉痛ですまされるレベルではないかもしれない。

「ねえ、君が花梨ちゃん? ありがとう、来てくれて」

 声だけが僕の耳に入る。その他の情報は皆無だが、間があったことから周囲を警戒している風に見て取れた。とはいえ、まだ花梨からのSOSは来ていないし、計画プランに入るのは早い。でも、雨風に打たれ、地面に座り込んでいる少女をただ何もせずに見ているようなことと同じぐらい胸が痛む。

「はい、私が花梨ですけど……どうかしました?」

「あのさ、文化祭のとき、僕も来たんだけど覚えてる?」

「ごめんなさい、あの時は忙しかったものですから……」

「そうか、まあいいや。あのさ、君、彼氏いるの? 僕、君の事いいなと思って」

「……はい、います」

 花梨はその男からの彼氏の有無の質問に一瞬、戸惑ったように感じた。あくまでこれは、緊張から来たものではない。僕を彼氏として認めるのにどこか抱えきれない事情でもあったのだろう。僕も、段々と進んでいく会話に唾を一度大きく呑み込んだ。

「まあ、知ってるよ。その彼氏さんより、僕の方が何倍もいいよ。僕なら君に尽くしてあげるよ。幸せになりたいでしょ?」

「いや、ごめんなさい、私はあなたとは付き合えません。……私の下着を取ったのもあなたですか?」

「僕は君のために尽くすタイプだ。あんな奴より僕の方がいい。ためしにさ、今からデートに行こう。何でも奢ってあげるよ」

 あくまで下着については触れずに話題をそらした。ほぼ犯人はこいつということで確定だろうが、まだ自白していないだけに僕らができるすべはない。花梨の声が時間を追うごとにかすれ気味になっている。

「下着、あなたが取ったのか教えてくれたらデートも考えます」

「じゃあ、分かった。その代わり、約束だよいい?」

「……はい」

「じゃあ、その前にさ、スマホの電源を切って」
 
 こいつは強引な手段まで使ってきやがった。おそらくスマホの電源を切らせたのは、助けを呼ぶことを阻止するのはもちろん、録画や録音を警戒するためだろう。

 今、致し方なくも花梨はスマホの電源を落としたことだろう。この先のプランを詳しく伝えていない手前、花梨はドブの中に落とされた小石のように彷徨い続けるのではないかという恐怖に陥っているはずだ。二台目のスマホを隠し持たせることをすべきだったかもしれない。

 でも、「大丈夫だ」と僕は彼女の耳元が近くにあるわけではないけれど、手で風を起こしてそっと吹きかけるように言葉を乗せた。花梨に届いていないのなんて百も承知だ。でも、僕の存在を傍で感じてほしかった。今の僕にできることはせいぜいこれぐらいだ。
 
「電源、切ったみたいだね」

 こいつはもう一度ドアの扉を開けた。警戒心が思っている以上に強い。僕らの作戦のばれてしまうのではないかとひやひやしているが、北川くんの作戦だ、うまくいくに決まっている。

「はい、切りました」

「今からいうことは誰にも言わないこと、絶対だよ。……そうだよ、下駄箱に紙を入れたのも僕だし、下着を貰ったのも僕だ。でも、下着は新しいのをあげたよ。おそらくサイズもあってたでしょ?」 

「それは本当ですか?」

「ああ、もちろん本当だ。じゃあ、約束通りデートに行こうか」

「待ってください、腕をそんな強くつかまないでください!」

 ——君が救えるなら、今だ。

 誰かにそう言われた気がした。そして、その言葉に僕も納得した。僕もとあるところの扉を左手で勢いよく開けた。右手には箒が握られている。

 掃除用具入れから出てくるなんてかなりシュールだ。掃除用具入れに置かれていたバケツで一瞬、転びそうになってしまったが、なんとか踏ん張った。僕の姿を確認したとき、犯人の顔はひょっとこのような面白い顔をしていた。一方で、花梨の顔は、何年離れ離れだった家族と再会したときのような待ちわびていた瞳で、どこからともなく出てきた水滴で潤っていた。山から湧き出る濁りのない水のように。

「悪いな、彼女にストーカーを働いてくれた変態さん」

「なんだよ、お前!」

「■■くん……」

「花梨の彼氏だよ。文句あるか? 録音させてもらったよ」

 僕はポケットに入れていたスマホを左手で持ち、左右に揺らしてみせた。そして、僕が見ても明らかに嫌であろうにやり顔をしてみせる。その悔しそうな顔、僕は嫌いじゃないなんて言うと性格悪いなと思われるかもしれないが、今はどうだっていい。僕の役割はあくまで花梨を救うことだ。

 それ以外、今は求めるものはない。

 恋もきっと―—。

 ただ、どうしても——。

「面白いことしてくれるな。その録音を消せばまだこっちはどうにだってなるんだよ!」

「おい、まて」

 もうこいつは人間としての尊厳を失いつつあった。僕をいきなり強引に押し倒してきて、馬乗りになったのだ。右手に持っていた箒もその場にカタッと音を立てて落ちる。僕の思った以上に強い。柔道部でもあるのか、体重にも押し負ける。僕は必死に抵抗する。そして、左手に握っているスマホを離さないように、守り抜く。

「お前、こんなことして本当にいいと思ってるのか? 花梨のこと好きだったらこんなことせずに、真正面から突き進めばよかったんだよ。失わなくていいものも、お前はこれで完全に失った」

 僕だったら、間違った道で手に入れた幸せを嬉しいとは思わない。神様だってそんなの幸せだと認めてくれないだろう。

「どうせ僕みたいなぽっちゃり体型、正当な手段を選んだら確実に失敗する。リスクがあってでも、掴かみたいんだよ」

 流石に山から崩れてきた石のように重たいものに生き埋められているままだと僕の体力も限界というものが訪れてくる。なんだか手の感触が、どこかに抜きさられたかのように、失われていく。

「リスクを冒すべきもの、お前は取り違えてる」

「いや、俺のやり方はこうなんだよ。口出しするな! お前も本当はそうだろ? リスクを冒してでも欲しいもの、あるんじゃないか?」

 こいつは牙むき出しのライオンのように吠えた。花梨も加わり、こいつを剝がそうとするが一向に離れない。それほど強力な接着剤で固められているかのようだった。ただ、花梨がその小さな手で必死になっているのを見ると、僕がここで負けるわけにはいかない。

「一つだけ教えてあげよう。僕は、仮に望まぬ結果になっても、それが現実なんだって受け入れる。月のように人生は常には輝いてはくれない。でも、きっとどんな形かはわからないけれど、伸ばした先にはいつか流れ星が見えるんだよ。だから、もう一度考えてみろよ。自分で流れてみろよ!」

「うるさい! 人の気持ちも知らないくせに! いいよな、幸せな奴は。そうじゃない奴だっているんだよ」

「そうかもしれない、でも——」

「……とったぞ! 悪いな」

 ついに、こいつは僕の左手からスマホを奪った。そして、この場から、トンビのように逃げ去った。

「どうすればいい? 追いかける?」

「いや、大丈夫だ。その必要はない」

 僕がそう言うと、花梨は手を伸ばしてくれて、その手によって僕は立ち上がる。

 花梨の心配をよそに、僕は倒れた箒を元に戻し、服に付いたほこりを払う。はーはーと荒い呼吸が整うのはどうやら時間がかかりそうだ。頭がクラクラする気もするが幸い大きなけがはなさそうだった。

「暗証番号を解くのに時間がかかるから?」

「まあ、それもあるけど……。なんっていったって、あれダミーなんだよね。壊れたスマホ」

「そうなの?」

「ああ」

 僕はポケットに入っていたもう一台のスマホを見せた。流石にここまで必要かと感じたけど、これも北川くんの作戦のうちだ。確かに従っていなければ今頃どうなっていたのか怪しい。感謝しかないが、やはりこのことは女の子たちには言えそうにないし、北川くんもそれを望んではいないだろう。とはいえ、埃まみれで、それに生臭い牛乳のようなにおいが漂う僕というのはかなりかっこ悪い。

 でも、我慢できなかった。僕は花梨を抱きしめてしまっていた。こんな姿で抱きしめる僕のこと嫌われてもいい。でも、花梨だけじゃなく僕自身のことも安心させたかったのだと思う。今だけは独り占めさせてくれ。花梨もそんなみっともない僕を抱き返してくれた。月のように輝いてはくれない景色だけど、それで十分だった。