五色に溶けた空の色



 三人はまだ屋台を巡りたいと言って、屋台街の方に向かった。私は胸いっぱいに膨らんだ思い出に浸りたくて、一人その場に残ることにした。でも、 「……疲れた」 そう言って、秀雪くんも私が座っていたベンチの隣に腰を下ろした。

 秀雪くんと二人きりになると、私は「秀雪くんも行けばよかったのに」と冗談めいたように言った。でも秀雪くんは「そしたら女の子一人にしちゃうだろ? 」とぶっきら棒に言った。無意識に女の子として扱われていることが、ほんの少しうれしかったけれど、同時にほんの少し悔しかった。

 周囲から人の気配が消え、本来の夜の静寂が戻ってくる。私たちが特に何かを話すことはなかった。 とはいえ、話していないのが気まずくなるようなそんな空気感でもなかった。 私は今なら文字に起こせるかもしれない、そう思ってスマホを開いた。
 
 下書きとして、今まできくよさんにされた苦しかったことを羅列していった。もちろんこれは誰かに送るのではない。 私の心の中に秘めておくために、文字という形にしたかったのだ。

 家事を全て押し付けられたこと、機嫌が悪い時に殴られたこと……そんなことを私の心が許す限り書き出していく 。

 それをすべて打ち終わった頃、スマホを触っていた手が滑った。急いで確認したが、とあるところにその呪いのような文を送信してしまったらしい。それは秀雪くんへのチャットだった。

 気づいた瞬間に、慌てて消そうとするが、そうすればするほど、頭が回らなくなり、どうすればいいのかわからなくなる。仕舞には、ようやく消せそうだと思ったときに、秀雪くんから「消さないで」と強く止められてしまった。私の表情を見ながらそう言ったということは、 私が間違えて送信してしまったということは十分に理解していたはずだ。

 なにもできなくなった私は、ただ秀雪くんがその文を読み終わるのを待った。どんなことを考えているのか怖い 。「なんで黙っていたの?」と言われるのか、それとも「僕が助けるよ」と言ってくれるのか。ただ、そのどちらでもないような気もした。

 秀雪くんはすべて読み終えたのか、スマホの光を消し、親が子供を叱る前に呼ぶような声で私の名前を呼んだ。見たことのない秀雪くんの顔にそんな顔もできるのかと驚く。私はそれにただ「はい」とだけ答えた。

 彼は、私との距離を静かに詰める。

「なあ、今の本当なんだな?」

「うん、本当だよ……」

 私の絞りだしてやっと出た声は、いつの間にか空に吸い込まれていく。さっきの空とは全くの別物。自分で自分を裏切った。

「前にスーパーで会った時は?」

「そうだね、この高校入学した時から」

 となると、気づかないうちに四ヶ月もこの憎しみを表に出さないようにしていたのか。意外と私、強いじゃん、なんて誇らしくも思えるほどだ。とはいえ、このことを相談しないということは、グループの皆を裏切ったことにもなるのだろうか——。

「言ってくれればよかったのに……とはいえ、難しいよな。人間ってそういうもんだしな」

 私の気持ちを汲み取り、無理に責めることはしなかった秀雪くんだったが、私の見えない部分を探り出すように、いくつか質問をしてきた。私のグループの子が標的となったSNS事件で、私たちのグループは誰もがお互いを守ってくれると自覚したはずなのに、そして、今回も自覚しているはずなのに、なぜ一歩というのが難しいのだろう。いつもの何気ない通学路の風景を見るのはいったって簡単なのに。

「ごめん」

「いや、だから謝らないで。ただ、……どうしてほしいとかある?」

「私が、助けを必要としていたら助けてほしい。でも、できる限り皆には教えないでほしい。迷惑はかけたくないから」

「わかった、それが??の気持ちなら。でも、僕一人じゃどうでもなくなったときはな。約束しとこうぜ」 

 秀雪くんがそう言うと小指をちょこんと差し出してきた。指切りげんまん。秀雪くんの小指の体温が、いつの間にか凍りついていた私の心を、ゆっくりと溶かしていく。こんな仕方ではあったけれど、私たちは今、大人の約束をしたのだと思う。

 ——なぜだか、急に鼻につく重い匂いがした。 この匂い、どこかで。私は胸が痛くなった。

 化粧の濃い女性が一人、私のすぐそばを通ったのだ。先ほど、その人とどこかですれ違ったような気がした。ただ、その時とは違い、一人だった。私はその人が誰だかはっきりと悟った瞬間、身を縮めるようにした。秀雪くんに「あの人が?」と聞かれたので、私は「うん」と頷いた。どうして隠れるようにしているのだろう。私にはわからない。でも、見つかったら何か言われる。そうとでも思ったのだろう。

「あれ??、早く家に帰って、私のために軽く何か作ってくれない? 遊ぶとしても私が帰る前に用意しておくのが基本でしょ。あと、今日、洗濯してなかったよ。早くするんだよ」

 やっぱりだ。厄介事に巻き込まれた。まるで隣の秀雪くんがいることを見えていないかのように、私に向かって言葉を浴びせる。本来は洗濯だってきくよさんの仕事だ。

「ごめんなさい、私も皆と遊びたくて」

「……私が兄の代わりに面倒見てるんだから、その態度は何?」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 どこがだよ、と私は心の中で叫んだ。とはいえ、そんなことを言えるはずもない。喉の奥で突っかかる、私はそこまでで限界だった。どこまで走っても、ゴールがないかのように、私もどこまで嫌だと思っても抜け出せない。

「あのさ」

 きくよさんは私にさらに詰め寄ってきた。まさか、こんなところで殴られるのだろうか。ただ、怖かったのは殴られることよりも、今日の皆によって描かれた思い出が、汚されることだった。

 私は殴られると悟った瞬間、覚悟をし目をつぶった。そして、隣にあった秀雪くんの手を強く握った。自分でもその理由がわからなかった。でも、ほんの一秒たったとき、その理由がわかった。それが、助けを求める合図だったっていうこと。

 ——バン!
 
 その音を聞き、目を開ける。きくよさんが私を殴ろうとした手を、秀雪くんは強くはたいたのだ。その衝撃で、きくよさんがバランスを崩し、後ろに下がった。

「ちょっと、君、介入してこないでよ。関係ないでしょ」

 そして秀雪くんは私を守るように、すかさずきくよさんとの間に手のバリケードを張る。

「申し訳ありません。その代わり、僕ら二人の世界にも介入しないでもらえますか?」

「あなたが何者なのか知らないけど、今、??の保護者は私よ」

 まさか、第三者を巻き込んででもこうやって対抗してくるとは思わなかった。きくよさんにとって自分がよければ、周りの評価などどうでもいいのかもしれない。きくよさんは鷲のような鋭い眼光で秀雪くんを見つめる。秀雪くんはそれでも冷静さを崩さない。

「さっき??にあなたのこと聞きました。それのどこが保護者なんですか?」

「人には人のやり方がある。あなたに口出しする権利はないわ。これは、私たちの問題なんだから」

 これまでもきくよさんの魔の姿をたびたびみてきたけれど、まるで何かにとりつかれているかのように、ここまで恐ろしい姿を見たのは初めてだった。ただ、秀雪くんがここまで声を張り上げるのも初めてだった。約束を破るということは、彼にとって重罪に値することなのかもしれない。

「大切な友達が苦しんでたら、見逃すことなんてできない。彼女はあなたのものではない。そんなやり方で、あなたは彼女を守る資格などない」

「いや、あなたはなにもわかってないわ」

「それはあなたの方だ!」

「しつこい!」

 秀雪くんも必死にくらいつく。だが、ついに、きくよさんは秀雪くんの右頬を殴った。パチンとした音。きっとジリジリと痛むに違いない。このままでは、事態がさらに悪化するだけだ。秀雪くんすらも私のせいで砕け散ってしまう。なぜ、私はこのグループに入ってしまったのか、そう恨む前に止めなきゃいけない——もうやめてと。

「おい、何してるんだ」

 騒ぎを聞きつけた警察だろうか——いや、聞き覚えのある声。でも、私の傍から一時は消えてしまった声——お父さんだ。明日帰ってくるはずのお父さんが、なぜ今いるのかはわからない。

 私はここしかないと思い、自分の言葉でお父さんに今まであったことを全て話した。もちろん、きくよさんも対抗するように「そんなことはない」と反論を続けた。秀雪くんは介入することなく、ただ私の背中をさすって、私が言葉を吐き出すお手伝いをしてくれた。実の姉を信じるのか、実の娘を信じるのか。それともどちらも信じるのか。

「なあ、きくよ、??が言うことは本当ということでいいか?」

「いや、だから、あくまで私は——」

「お父さん、私を信じて」

「——いや、きくよ、もういい」

 お父さんの声は静かだった。でも、結論がついたようでもあった。
 
「あなたがどういう気持ちで接していたのだろうが、そんなことはどうでもいい。??が苦しんでいるのは事実だ。娘が苦しんでいるのに、俺は父親としてこれ以上、二人を近づけるわけにはいかない。悪いが今後一切、??に近づかないでくれ。お願いだ」

 お父さんは強がることなく、頭を下げ、きくよさんにお願いをした。威勢のいい私の見てきたお父さんの姿ではなかった。きくよさんは自分のおもちゃがなくなることをどこか気に入らないようであったが、これ以上、弟を説得するのは無理だと感じたのか「あっそ」とだけ言い残し、夜の闇へと消えていった。お父さんは、きくよさんが去った後も数秒間、頭を上げなかった。そしてお父さんは、頭を下げたまま今度は私の方を向いて「今までごめん」と謝った。そして、私が「顔を上げて」というと、頭を上げ、次は抱きしめてきた。お父さんのすることは次から次に忙しい。

「ごめんな、気づいてやれなくて。もう、お父さんは??から離れないって約束するから。だから??も約束してくれ、辛かったらいつでもお父さんに相談するって」

「私もごめんなさい、お父さんのこと信じてるのに、相談することできなくて。これからはもう我慢しない、だから私から離れないで」

「うん、これでお互い大丈夫だ。まだ俺は、??にお父さんと呼ばれるほどお父さんできていないのかもしれない。でも、きっとお母さんに認められるような、お父さんになるから」

 お父さんはお母さんが病気で亡くなってから「お母さん」という言葉を使うのをどこか毛嫌いしていた。でも、お父さんは今、はっきりとその言葉を使った。なにか小さな扉を開けたのかもしれない。そのあと、警察の人に心配されて声を掛けられるまで、本音を抱き合いながらぶつけ合った。我ながら恥ずかしい親子だ。

 警察に声をかけられ我に返った後、辺りを探してみたけれど、秀雪くんはどこかに消えていた。ただ、秀雪くんから、

『海虎たちには適当に話しとくから今日はもう帰れ。あ、そういえばすまん、パンツ見えちゃった……なんて嘘だよ。落ち着いたら連絡よこせよ』

 と一通のメッセージが来ていた。案外、秀雪くんって面白い奴でもあるかもしれない。上書きしておかなければ。

「そういえば、どうしてここが分かったの?」

「ここは、お母さんと三人で花火を見た場所だからな。……驚かせようと思って一日早く帰ってきたんだが、ある意味正解だったな」

 私がお祭りに行くことを知っていたから、お父さんはこの場所を再び訪れた。偶然なような、偶然じゃないような。

 たしかに、いつかの日に見た景色と似ていると思った。ただ、あまりに小さかったからか、私は覚えてはいなかった。でも、きっと遠くにいるお母さんが、お父さんと繋いでくれたのだろう。そして秀雪くんがその最後の役割を担ってくれたのだろう。

 そして家に帰ると、秀雪くんに対して、私はありったけの長文を送った。たぶん、読むのが途中で嫌になるだろう。でも、秀雪くんは最後まで読んでくれたようだった。短く『全部読んだよ』と返信が来た。

 その日は、何年かぶりにお父さんと一緒のベッドで一夜を過ごした。もういつの間にかここまで大きくなった私だけれど、やはりお父さんの傍は誰にも譲れないポジションだ。仮に譲れるんだとしたら、お母さんぐらいだろうか。誰かに助けを求めるのが恥ずかしくないように、高校生の私がお父さんにたくさん甘えるのも、なんだかちっとも恥ずかしくなかった。

 今度は、お父さんとも一緒に花火を見に行きたい。お母さんがお祭りで取ってくれたぬいぐるみも、もちろん一緒に。