五色に溶けた空の色



「じゃあ、今日はここまでにしておくか。皆で赤点取らないように頑張ろう!」

「おー!」

 午後六時。チャイムと共に勉強会はお開きになった。確実にこの勉強会は私の学力を上げるために功を奏しているだろう。でも、まだまだ油断はできない。

 そのため、勉強会が終わった後も、職員室にいる先生にわからないところを聞きに行ったり、帰りの電車の中でも、空いていた席に座り、ブックカバーがどこかにいってしまった参考書を開きながら勉強に取り組んでいた。

 はぁっ——。

 こうやってあくびが何度も出てしまうのは、私の体からの注意喚起だろうか。

 電車が進むにつれて、立ち客が出てくるほど混んでくると、参考書の文字が段々とぼやけてきた。不意に乗ってきた杖を突いたおばあさんに、優先席ではなかったけれど、迷わず席を譲った。「ありがとうね」と向けられた柔らかな微笑みを、枯れそうな心の栄養剤にして、私は次のページの文字の羅列に目を通した。

 最寄り駅までようやく着いた。住宅街から漏れ出す温かな光を頼りに、一直線に家に帰りたい。けれど、私には寄るべき場所がある。駅から少し離れたところにある激安スーパーだ。スーパーに入ると、カゴの中に慣れた手つきで食材を放り込んでいく。

「あ、卵が安い」

 今日はチラシを見ていなかったなと思いながら、『広告の品! 特別価格!』と大きなポップで私を迎えてくれた卵に、思わず手が伸びてしまう。冷蔵庫の中身を思い出しながら、迷うことなく卵をカゴに放り込んだ。あとは、ケチャップが必要だ。

「……あれ、??」

 背後から私の名前を呼ぶ声がする。こんなところで誰かと会うなんて正直予想もしていないから、一瞬、心臓が跳ね上がって壊れるかと思った。

 振り返ると、そこには一番見られたくない人——秀雪くんが立っていた。彼のカゴの中には割引シールが張られた弁当やゼリーなどが入っている。

「偶然だね、どうしてここに?」

「家から近いんだ。親がどっちも風邪引いちゃって」

 図星だった。まさか、秀雪くんがこの近所に住んでいるなんて。いつの間にか、グループの皆のことを知った気になっていたけれど、まだまだ知らない情報が溢れていることを実感させられる。

 このパターン、私もどうしてここにいるか言わなきゃいけないやつだ。小腹が空いたから寄っただけというのは、カゴの中にある食材からはいえそうにないし、家政婦のバイト中というのも何を言っているんだの話だ。

「私もこの辺に住んでるんだ。親が出張中で」

 それは全くの嘘というわけではなかったけれど、胸がチクリと痛む。私の家庭状況を知られるのは流石に気が引けたのだ。その場から今すぐにでも離れたくて、秀雪くんに「じゃあ、また学校で」と逃げるように告げると、一目散に調味料コーナーに向かった。

 重いレジ袋を提げて家に着くと、玄関には紅色のハイヒールが無造作に転がっていた。一方で、ボロボロになるまで履かれた大きな革靴はなかった。それを見るだけで、どこか憂鬱な気分になる。さらに、重たく甘い香水の匂いは私の体を余計に刺激する。

「帰ってきたらなら、さっさと夕飯作って」

 リビングへとつながる扉を開けると、化粧の濃い女の人がキッチンの方を指さしながら、怒鳴るような声色でそう言い放つ。どうやら今日はいつもより、機嫌が悪いようだ。

 私は黙ってキッチンに立ち、エプロンを着る。今さっき買ったばかりの新鮮な卵を割り、昨日特売で買ったひき肉を炒める。今日の夕飯は特製のオムレツだ。私が手を動かしている間も、化粧が濃い女の人は、自分の場所だというようにファッション雑誌や口紅などを無造作に散らかし、リビングを占領して大音量でテレビの音を撒き散らしていた。

「できました」

「あっそ。そこに置いておいて」

 「ありがとう」なんていう言葉は、もうずっと前に期待するのをやめた。「まずい」と言って料理をゴミ箱に捨てられないだけで十分だ。テレビに釘付けのまま、女の人は私のオムレツを口へ運ぶ。感想は一つたりともない。つまり、食べられるに値する味だということだ。それだけが、今の私のいってみれば心の安定剤だ。

 私は自分の部屋にオムレツを持っていき、ケチャップで四つ葉のクローバーを描いて完成させる。ただ、クローバーの形はどことなくいびつな形。机の照明だけをポツリとつけて、一人で手を合わせ「いただきます」をする。食欲をそそるその香りに無理やり楽しいひと時だと自覚させて、一口食べる。

「おいしい……」

 黄金色に輝くトロトロとした卵と、スパイスの効いたひき肉が調和する。こうやって自分の料理を自画自賛することでしか、家では喜びを得られないのだろう。 

 今日、秀雪くんに見られたのは少し厄介だ。気づいている素振りは見えなかったけれど、今後、巻き込んでしまう可能性がないとも言い切れなくなった。そのことに、頭の中の大半が持っていかれてしまう。

 私が半分ほどオムレツを食べ終えると、お父さんから数日ぶりの連絡が来た。

『単身赴任が長引いちゃってごめんな。夏祭りの翌日に帰ってくるから。今のところ大丈夫そうか?』

 私はそのメッセージに少し考えて、お父さんを心配させないように、

『大丈夫。きくよさんが私のためにご飯も、洗濯も、掃除もなんでもしてくれてるから!』

 と送信する。

 もちろん大嘘。ご飯も、洗濯も、掃除も全てやっているのは間違いなく私。きくよさんという、あの化粧の濃い女の人は、お父さんの姉——つまり私の伯母に当たる人だ。お父さんが単身赴任で長期で家を留守にするから、一人残る私を心配してくれて、お父さんはきくよさんに頼んだみたいだ。だが、蓋を開けてみれば、きくよさんはあの通り。むしろ負担でしかない。とはいえ、大好きなお父さんに——それもお父さんの姉なのだから間違ってでも「嫌だ」とか「何もしてくれない」とか言える勇気は私には持ち合わせていなかった。

 そうやって一度きくよさんのことを考えこめば、夜も眠れなくなる。今日は、ハープが奏でる柔らかく透明感のあるBGMを頼りに、眠りに就こう。けれど、夢の世界へ逃げ込んだとしても、私はきっとあの人が夢の中で暴れ出し、うなされ続けてしまうのだろう。