(30,000円……)
(30,000円かよ……)

家の中に入ると、「にゃぁー!」とエアコンの下から俺を出迎えるクロ。ようやく家にも慣れてきたのに……俺は頭の中で30,000円とクロを天秤にかけた。

「にゃあ!」
「にゃああーー……!」

俺に向かって、切なそうな顔で鳴くクロ。俺が大家と話をした内容が、分かっているかのような目をしている。

「お前……スゴイな」

(あっ……)

『猫ちゃんもわんちゃんも……言葉、分かりますからね』
『ちゃんと名前を呼んであげて下さいね』
『お前―とか、あまり言わない方が良いですね』

そうだった。あの女性が教えてくれたこと……すっかり忘れていた。

「わりぃな、クロ。『お前』とか言っちまってな」
上から俺を見下ろすように、頭を突き出してくるクロ。俺が左手をそっと差し出すと……頭を左手に擦り付けてくる。そしてそのまま……全く鳴かずにぐりぐりっと頭をつけてくる。

(……はぁ)

「流石にな……ばいばいってわけには……行かねぇよなぁ……」

必死な様子で何度も何度も、俺の左手に頭をぐりぐりとしているクロを見ていると……とてもポイっと外に出してしまう気にはなれなかった。

『猫ちゃんはキレイ好きですから』
『お水やトイレは常に掃除したり清潔にしてあげて下さいね』
『お部屋もです』

(そうだ……水とトイレ……)

水飲み用の陶器を、ホームセンターで見た時、俺はびっくりしてしまった。2,000円近くしたからだ。「100均で買うのと……何が違うんだ?」と思った俺は、その足で100均に向かって、お椀を買った。

「別になあ? 飲めれば良いよなぁ?」

クロはぴょん!とエアコンの真下から下りてきて、お椀に向かい……そのままぴちゃぴちゃ……と水を飲み始めた。

「なぁ? 水には変わりねぇもんな。クロ」

しゃがみ込んで、クロが美味しそうに水を飲む姿を見守った。ふと気付いて、部屋を見回すと……ぐちゃぐちゃになったままの服。投げ捨てられるように散乱している雑誌……パウチをはさみで切った時に落ちたであろう、小さな破片……とても知り合いを呼べるような状態ではなかった。

『猫ちゃんはキレイ好きですから……』

女性の言葉が、何度も何度も……俺の頭をよぎる。

(分かってるって……分かってんだよ……)
(面倒くせぇんだよ……掃除は)

いつも真美子がやってくれていた部屋の掃除。「ねえ! 邪魔だから……どいて?」掃除機をかけながら、布団に寝転ぶ俺に向かって、少し嫌な顔をしていた真美子の顔が浮かぶ。

「あぁー……もう……」
「……面倒くせぇなぁー……」

いたる所に落ちている小さな破片。輪ゴムみたいなやつだってある。「もし……クロが俺のいない間に勝手に食っちまったら……」と考えると、何とかしてやるか……と思えた。

「にゃっ!」

水を飲み終わり、ご機嫌な声で俺に挨拶をするクロ。そのまま布団が敷きっぱなしの部屋に行って、キャットフードを食べ始めた。

「……しゃあねぇーなぁー……」
「やるか! だりぃけど!」

ガラララッ!と窓を開ける。もちろんクロが逃げ出さないくらいの高さの所にある窓だ。ヒュゥー……ッと久し振りに気持ちの良い風が、家中に入り込んでくる。

「……ふぅ」

俺は軽く深呼吸をして、床にぐちゃぐちゃになっている服や雑誌をどんどん広い上げて……元の場所に戻していく。服はハンガーに1着1着かけていった。

(結構広いんだな……この家)

散乱していた物が無くなっただけで、広く感じる。そして押し入れの下の段から、掃除機を取り出した。

「クロ。わりぃな。……少しうるさくなるけどよ」

ブイイィィィーー……ン!という轟音が部屋の中に響いた。クロは驚いたのか、バッ!と素早く棚を駆け上り、エアコンの真下に避難してしまった。どうやら大きい音は苦手らしい。

「わりぃな! すぐ済ませるからよ!」

俺は手当たり次第、掃除機をかけていった。クロが間違えて食べてしまわないように、目で見えるくらいのゴミは、全部吸い取った。これまで万年床だった布団も軽く上げて……下は全部、掃除機をかけた。

ウィィィーー……ン……

電源を切ると、掃除機の音はみるみる消えていった。怯えるような顔をしていたクロも、ようやくさっきの顔に戻ったみたいだった。

「……ふぅ。良し!」
「クロ! どうよ!? キレイになっただろ!」

俺は充実した顔で、クロに話かける。

「にゃー!」

「そうだね!」と言わんばかりの表情で、俺に元気良く返事をしてくれた。