俺は湯浅 朝陽 。高校二年生だ。
今日は先生に雑用を押し付けられた。マジでクソ。
片付けが終わった頃には、外はすっかり薄暗い。
カバンを担いだ時、外から「ぽつ」と音がした。
嫌な予感……。
正面玄関を出て外を見ると、案の定、細かい雨が降り始めていた。
「最悪」
思わず呟く。
カバンの中を漁る。――折りたたみ傘がない。詰んだ。
はぁーっと深くため息をつく。
天気予報外れてんじゃねぇよ。
足が疼くから嫌なんだよな、雨。
「覚悟決めるか…?」
家まで雨の中を走って帰ろうと決めた時――。
「先輩?」
後ろから声が聞こえた。聞き覚えのある声に背筋がぞくりとした。
振り返ると、そこには中学時代からの後輩。水無瀬 夜一郎がいた。
黒髪で柔らかい笑顔が似合うやつ。腹立つほど顔が整ってて、俺よりでかくて気に食わない。
「げっ…」
「げっ、とはなんですか?ひどいです。可愛い後輩にその態度はあんまりじゃないですか」
「可愛い後輩は自分のこと可愛いなんて言わねぇよ」
「言っちゃう後輩がいてもいいじゃないですか。あれ?先輩、もしかして傘ないんですか?」
首を軽く傾げて、夜一郎は聞いてくる。
「……ねぇよ。文句あるか」
「ははっ!ない、ないですよ。じゃあ、一緒に帰りませんか?傘、ひとつしかないんで相合傘になっちゃいますけど」
手に持っている傘を俺にかざす。
大きい黒い傘。余裕で二人入れそうだ。
けど――
「え、やだ」
反射的にそう答えた。
「人の親切を失礼な…変わらないですね、そういうところ」
「やだよ。なんでお前と相合傘しないといけねぇんだよ」
「意地っ張り。そういう所も可愛いですね」
「……喧嘩売ってんのか?」
「まさか。可愛い後輩の本音ですよ」
ニコニコと悪気がない笑顔を見せる。
……こいつ、可愛くない。
「でも残念。先輩、今日はこれから一日中雨らしいですよ?覚悟決めて家まで走るのはいいですけど、風邪引いたらたまったもんじゃないですよね?」
確かに、こいつの言う通りだ。
母親に自業自得だと怒られる未来が見える。
「それに、先輩友達少ないですよね?傘貸してくれる人もう校内にいないんじゃないですか?俺、知ってるんですから」
「なんで知ってんだ。俺のストーカーかよ」
「失敬な。大好きな先輩のことを知りたいだけですよ?さぁ、入ってください。家まで送りますよ」
ボンッと音を立てて傘を開くと、俺を手招きする。
やだなぁ。こいつと一緒なんて。
ちらりと、外を見る。雨は止む気配がない。それどころか強くなっているように見える。
それに、このままここにいても嫌なこと思い出すだけだ。
――覚悟、決めるか…。
渋々空いている右側に入る。
「じゃあ、行きましょうか」
そう言うと、俺の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出す。
こいつが中一の時はまだ可愛げがあった。
何故か俺に懐いていて、小さな体で、先輩!先輩!とちょこちょこ後ろをついてきてた。それも俺の背を抜かしてからは、イラつく存在になったけど。
暫く黙って道を歩く。
傘に雨がポツポツと当たる音が響く。
肩が触れそうになる度に変な気持ちになる。うっとおしいと思うはずなのに、悪くない。
……きっと、雨の匂いがおかしくしてるんだ。
「そうだ、先輩。サッカー部、県大会ベスト四まで行ったんですよ!」
「へぇー、すげーな。確か、お前んところ弱小だったろ?」
「はい!でも、俺が指導したおかげで強くなったんですよ」
「ふーん…お前教えるの上手いもんな」
「えへへ。先輩に言われると照れるなぁ」
夜一郎は顔を少し赤くしながら、頬を指でポリポリと掻く。
「褒めてねえよ。調子乗るなバカ」
「調子に乗ってこそ後輩ですよ?⋯でね、俺思ったんです。''ここに先輩がいてくれたら、もっと強くなるのになぁ''って」
――歩く速度がゆっくりになる。
「……俺がいても変わんねぇだろ」
「そんなことないです。''点取り屋''って言われた先輩ですよ?楽勝ですよ」
「……過去の話だろ」
口の中が乾く。
「ねぇ、先輩」
首を傾げて、夜一郎は俺の顔をのぞき込む。
「サッカー、またやらないんですか?」
ギリッと奥歯を噛んでしまう。
夜一郎から視線を逸らす。
そうだ、俺は――中学時代サッカー部だった。
もう過去のはずなのに、足元だけはいつまでも冷たい。
「……その話はもういいだろ」
「よくないです。だって、先輩すごい選手だったじゃないですか。あんなに、楽しそうだったのに……怪我をして、ダメになった」
――やめろよ
「でも、その怪我も治ってるじゃないですか。中学の時、監督に聞きました。靭帯損傷だったけど、ちゃんと治してリハビリすればまたサッカーできるって」
「……そんだけ知ってんなら、俺がサッカーできない理由わかんだろ?''あの時''、お前も見てたじゃねぇか」
「それは……」
夜一郎は気まずそうに言葉を詰まらせる。
「わかってます……先輩の気持ち」
「じゃあ、俺にかまうなよ」
「でも!」
視線が俺の方に向く。肩が、触れ合った。
やけに、あたたかい。
でも、嫌じゃないあたたかさだ。
傘の縁から雫がぽたりと落ちる。その向こうに真剣な顔の夜一郎があった。
どこか、苦しそうな顔にも見える。
「先輩は、おれの憧れなんです!」
声が、少し震えている。
勘弁してくれよ、その顔。俺まで辛くなる。
「中学の時、先輩だけは輝いて見えたんです。誰よりも早くシュートを決めてて、心の底からカッコイイって思った。
この人の隣に立ちたい……その気持ちだけで必死に努力しました。体力つけようと吐くまで走り込んで、体を大きくしようとご飯を何杯もおかわりして――ずっとボールを追いかけました。
全部、先輩に追いつくために」
雫が、肩に落ちる。
濡れて不快なのに、どうでもいいと感じる。
「中二の時、スタメンに選ばれて、これで先輩の隣に立ってずっとサッカーができるって、そう思ってたのに」
夜一郎の声が震える。
雨の音が、強くなった気がする。
「――あの試合で、先輩は足をやった。相手のラフプレーで。」
――あの日、後ろから鋭い痛みが足に走った。
視界が揺れて、草と泥の匂いが鼻に刺さった。
痛くて、息が詰まった。
夜一郎が相手選手に掴みかかってた。
担架に乗せられたまま、笛の音だけが響いていた。
「怪我が治って部活に戻った時、俺、本当に安心したんですよ?部活引退しても、また先輩とサッカーできるって……でも、ダメだった。ボールを蹴ろうとして足がすくんで、しゃがみこんで泣き喚いてる先輩を見て――」
夜一郎は目を伏せる。
「俺、悔しかったです。そして怒りを覚えた。先輩をこんな風にした相手に」
「……もう、いいだろ。終わったことだ」
「なに言ってるんですか!俺の中じゃ終わってない!」
雨の音に負けない音量だ。
うるさい。でも、真剣なのが伝わってくる。
「あんなやつのために、先輩がここで終わっていいわけがない。だから、先輩の後をついてきてこの高校に来たんです」
「ははっ。サッカー部、弱小だったのに?」
「先輩のためなら、俺の手で強豪校にしようって思ったんです」
「……目標高すぎだろ。よっぽど他に行く高校がなかったんだな。お前サッカーのやりすぎでバカだし」
心の底からの感心の言葉を送る。
そんな俺に、夜一郎は珍しく口を開けて大笑いする。
「ははっ!バカって!先輩も俺と同じくらいの成績じゃないですか!」
「う、うるせぇ!お、俺は推薦貰うためにサッカーしてたまでなんだよ!……それも怪我でなくなったけど」
口をつぐむ。
怪我をした数日後、監督に呼び出された。
『再発の可能性と、メンタルの不安がある選手は取りにくいそうだ』
それを聞いて、全部わかった。
その日のうちに、志望校をサッカー部が弱い高校にした。
「ねぇ、先輩。俺、実は先輩が推薦もらってた旭陵高校から推薦もらってたんですよ?」
過去に浸ってたら、夜一郎は爆弾を投げてきた。
「はぁ!?」
そんな話、聞いてない。
こいつ、そんな域に達していたのかよ。
「でも、断ったんです。先輩がいないから」
「こ、断った!?」
バカじゃないのか、こいつ!
旭陵高校っていえば、全国大会で何度も優勝してきた強豪校だ。あそこに行けば、良い方に人生が変わるかもしれないのに――
「おまっ、俺がいないからとか、そんな理由で推薦蹴るなよ!!」
「えー、ちゃんとした理由ですよ?俺がサッカーやるのは先輩がいるからです。そこに先輩がいなかったら意味がないですもん。それに、勝っても負けても、先輩とサッカーがしたいんです」
ニコニコと子どもがオモチャを貰ったように笑う。
開いた口が塞がらない。
こいつは、なにを言ってるんだ。
俺なんかのために、将来を潰すなんて理解し難い。
「……お前、そこまでいくと流石に引くぞ」
「えー、引かないでくださいよ。後輩の鏡じゃないですか。まぁ、親には死ぬほど怒られたんですけどね」
先程の真剣な顔が嘘かと思うほどの清々しいまでの笑顔。
正気かよ、こいつ。
「どこがだよ……それは、''執着''だろ。そんなの向けられても嬉しくねぇよ。
俺にかまうぐらいならサッカーに集中しろ。俺はもう……終わった選手なんだから。俺なんかに向ける感情じゃねぇよ。そんな気持ち、間違ってるんだよ」
追われるのは嫌いだ。
俺なんか、追いかけられる価値なんてない。
それなのに……追いかけてきてほしいと思ってる自分がいて、胸が苦しくなる。
傘を無視して、前に歩く。
雨に濡れてもかまわなかった。
雫が髪の毛や肩、全身にかかる。
けれど、夜一郎はすぐに追いかけて雨にかからないように俺に傘をかけた。
「ねぇ、先輩。そんな事言わないでください」
夜一郎が、ふっと息を呑む気配を感じた。
「……あー、俺、もう我慢できない」
左から頭をわしゃわしゃと搔く音が聞こえる。
「そんな風に諦めた先輩、見てられない。だから言います」
夜一郎はすーっと息を吐く。
「……俺、先輩のこと大好きなんです」
「そうかよ」
知ってる。態度を見れば。
すたすたと無視して歩く。
「わかってない……先輩――朝陽先輩!聞いて!!」
雨の音に混ざって、夜一郎の大声が聞こえる。
久しぶりに名前を呼ばれてた。
だから、つい立ち止まり、後ろを振り向いてしまった。
夜一郎の顔が少し、赤く見える。
「俺、好きなんです……朝陽先輩が。中一の時から誰よりも。後輩としてじゃない、先輩としてでもない。
ひとりの人間として――あなたのことを愛してるんです」
「え、は、はぁ!?」
動揺して、声が裏返る。
俺ってこんな声、出せたんだ……。
いや、そんなこと考えてる場合かよ。
「おまっ、な、なに言って……」
顔が熱い。頭が沸騰しそうだ。
「……俺、ずっと見てました。出会った時から好きでした。憧れでした。輝いてました。
先輩がサッカーやめたあとでも、変わりません。
先輩がいないと、ダメなんです」
まっすぐと俺を見つめて言う。
「……バカ、なに、言って」
「あっ、先輩可愛い。照れてるんですか?」
「て、照れてねぇよ!こ、これは……動揺してるだけだ!!」
「それ、照れてるって言ってるようなものですよ?」
「うるさいうるさい!!」
年甲斐もなく地団駄を踏む。
水たまりが跳ねて、ズボンが濡れるけど、どうでもいい。
「こ、告白されたら……ふ、普通、て、テンパるだろうがよ!」
「さては先輩、告白されたことないんですね?皆、見る目がないなー⋯まぁ、俺からしたらありがたいけど」
後半は聞き取れなかったが、イラッとくる発言だ。
「〜〜〜っ、あー!クソが!!」
キッと夜一郎を睨みつけて、そのまま逃げるように帰り道を進む。
雨に濡れても気にならなかった。
「あ、先輩。ごめん!本当にごめんなさい。俺が悪かったですから、ひとりで帰ろうとしないで」
「黙れ!俺の心を弄びやがって!」
ずんずんと怒り任せに進む。
バカにしやがって。
「弄んでないです。本気です!俺、真面目に言ってるんですよ?……ねぇ、先輩。返事は?」
「え、あ、そ、そんな、急に、う……」
急に言葉がわからなくなる。
それに伴い、歩く速度もゆっくりになってしまった。
へ、返事なんて⋯そんなの――
「わ、わかんねぇ……」
嫌なはずなのに――夜一郎から逃げられなかった。
「いいんです。返事はあとでも大丈夫です」
意外にあっさりな返答で俺は拍子抜けする。
なにか裏があるんじゃないかと勘ぐってしまう。
「あ、その顔。裏があるんじゃないかって顔ですね?」
――バレた。
俺ってそんなに顔に出るのか?
「ふふっ、俺は先輩のことなら、なーんでもわかるんですよ?」
「愛の力とか言うなよ。チープすぎて反吐が出るから」
「え?よくわかりましたね。先輩も俺の事好きじゃないですかー、両思いですね!」
「……ざけんな」
上手く、返せなかった。
『どこがだよ、お前の妄想だろ』
そう言えばよかったのに、口に出すのを躊躇った。
「俺ね、待ってますから。返事、いつまでも。」
そう言い、夜一郎は俺の顔をのぞき込む。
「だから、忘れないでください。
俺があなたのこと、誰よりも愛してるってこと」
慈しむような笑顔を俺に見せる。
――やめろよ、そんな顔をするの。
変な気分になっちまう。
どうしたんだよ、俺。
こいつのこと、苦手なはずだろ?
『ねぇ、先輩。先輩みたいに上手くなるにはどうしたらいいですか?』
――まだ、俺より頭一つ分小さい頃の夜一郎を思い出す。
『そりゃ、いっぱい走って、食って、練習。この三つを必死にすることだ!』
『走る?どのくらいですか?』
『吐くまで!』
『え、は、吐くまで!?』
『そのぐらい走るのが大事なんだよ!お前、背小さいからそのぐらいした方がいい!あと、ご飯もちゃんと食えよ!茶碗一杯も食べるの苦しいらしいじゃねぇか』
『だ、だって俺、少食なんですもん』
『ダメだダメだ!体大きくなれねぇぞ!走れ、食え、そして練習しろ!あ、でも無理と思ったらやめろよ?怪我したら意味ねぇからな』
『や、やってみせます!俺、有言実行の男になります!先輩の隣に立てるように練習します!!』
あの頃のこいつは、ピュアで輝いていた。
……うん、可愛いとさえ思ってた。
ひとりの後輩が、俺を先輩として尊敬してくれたからだ。
なにをするにもちょこちょこ後ろをついてきて、俺を全力で持ち上げて、ベンチでは誰よりも早くタオルや水筒を差し出してくれた。
――でも、それで告白されて照れるのかよ、俺。
隣を歩く夜一郎の肩が、俺の肩と触れ合う。
思わず、夜一郎を見てしまう。
目が合うと、にこりと女子が好きそうな笑顔を見せる。
――なんだよ、こいつ、今でも輝いてんじゃん。
俺よりもお前の方が、輝いてるよ。
「あー……うー……」
なにか言いたいのに、赤ちゃんみたいな言葉しか出てこない。
そんな俺を見て、夜一郎はくすくすと笑う。
――ムカつく。
ベシッと夜一郎の肩を叩く。
「いたっ!先輩、暴力的なのはダメですよ!」
「うるせー、先輩の愛のムチだよ」
「えー!期待の新人にその仕打ちは、ムチが過ぎますよ!」
「ふんっ、俺の純情を笑った罰だ」
「はーい、ごめんなさーい」
反省の色が一切ない、にこにこ顔で謝る夜一郎。
なんなんだ、こいつ。
「先輩。俺、諦めないですからね?恋も、部活も」
「はぁ?待つって言っただろ」
「待ちますけど、アタックしちゃダメなんて言ってないですから」
「くっ、減らず口を、勉強できないくせに……」
「勉強と口は関係ないですから。あ、先輩!家着きましたよ」
頭を上にあげる。
――俺の家が見える。
もうこの傘という狭い空間にいなくてもよくなるのに、なんで残念がってんだよ。
「……一応、礼を言っとく。ありがとう」
「いえ、先輩と二人で帰って楽しかったですから。でも残念だなー、もっと相合傘したかったです」
「調子に乗るな!」
今度は肘で小突く。
いたっと言うだけで、ニヤニヤと夜一郎は俺を見て笑う。
相変わらずヘラヘラしやがって。
傘から抜け出すと、屋根があるところまで走る。
雨が少し弱まったように感じた。
後ろから声が聞こえる。
「先輩!明日は晴れるそうですよ!良かったですね!あ、明日の朝迎えに行っていいですかー?」
「やだよ!」
少し夜一郎と距離ができたため、気持ちいつもより大きい声で叫ぶ。
「そう言われると思ってました!でも残念。俺は有言実行な男ですから。明日の朝――そうだな……七時前後に来ますね?じゃあ、先輩。また明日」
そう言うと、夜一郎は手を振り、今来た道を戻っていく。
「……家、逆方向じゃねぇか。なんで面倒なのにここまで送ってきたんだよ」
けど、なんでだ?胸がくすぐったい。
「本当にバカ。逆方向なのに明日も来るとか、意味わかんないことしやがって!!」
ぶつぶつと呟きながら、ドアノブを握る。
指先が――熱い。
ドアノブが冷たく感じる。
「ふん、来るなら来いよ。話してやらんこともない!精々緊張して来るんだな!」
バタンと扉を閉め、家の中に入る。
『ひとりの人間として、あなたを愛しています』
中に入った途端、あの告白を思い出して顔が赤くなる。
胸の奥がやたらざわざわする。
両手で心臓辺りを押さえる。
「……明日、どうしよ」
先程までの強がりが嘘のように、弱音を吐いてしまう。
「朝陽ー?帰ったのー?」
リビングから母親が出てきた。
「あんた、なんで顔赤くしてんの?」
「べ、別にいいだろ!!な、なんだよ!」
「親に向かってもう……服濡れたんだったら洗濯出しなさいよ?」
母親はリビングに戻っていく。
ふぅーと深くため息をつく。
リビングの方から、明日は晴れると天気予報が聞こえてくる。
「……明日、晴れるんだ」
口から思ってたことがこぼれ落ちる。
――なんだよ、雨になれよ。くっつけなくなるだろ。
「え?お、俺、今、なに言って……」
耳まで赤くなるのを感じる。
でも、なんでだろう。
不思議と、嫌じゃなかった。
逆に――明日を楽しみにしてる自分がいる。
「俺、おかしくなっちまったのかよ……」
頭を抱える。
靴を乱暴に脱ぎ捨て玄関に上がり、階段を駆け上がる。
ドアを閉めて、一息つく。
部屋の隅の棚に視線がいく。
ピカピカに磨かれたサッカーボールが鎮座してる。
「……捨てられないってことは……そういう事だよな」
ひとり、部屋で呟く。
声が少し震えていた。
『だから忘れないでください。
俺があなたのこと、誰よりも愛してるってこと』
夜一郎の声が、耳の奥でこだまする。
耳に焼き付いて、離れない。
「あんなの、忘れられるわけねぇだろ」
ベッドに倒れるように突っ伏す。
制服がシワになろうが、もうどうでもよかった。
ぐぅーっと腹の音が鳴る。
「ははっ……こんな時でも腹は減るのか」
他人事のように笑ってしまう。
「朝陽ー!ご飯よー!」
タイミング良く、下から母親の声が聞こえてきた。
「今行くー!!」
心なしかいつもより声が大きい気がする。
制服を脱ぎ捨て、部屋着に着替えて階段を降りる。
リビングには、ハンバーグ。
俺の好物だ。
けど、その隣の緑の山を見て、うげっと顔が引きつる。
ブロッコリー……俺の嫌いな野菜。
文句を言うと母親にうるさい事を言われるので、渋々座り、フォークでブロッコリーをいじる。
――これ、消えてくんねぇかな。……あいつがいてくれたら、また食ってくれんのに。
そう思った瞬間、ふと記憶が蘇る。
『先輩、ブロッコリー嫌いなんですか?
俺、人参嫌いなんです。人参とブロッコリー、交換しませんか?』
そういや、夜一郎は俺の弁当のブロッコリー食ってくれたよな――
知らない間に口元がゆるんでいた。
黙々とハンバーグを口に運ぶ。
……もちろん、ブロッコリーも。
食べ終わって皿を流しに置くと、風呂を済ませ、二階の自室に戻る。
部屋の明かりをつけた瞬間、ふと我に返る。
「……告白って、受け入れたら……キ、キスとかそういうのも、するんだよな」
――頭の中にあいつの声が聞こえてくる。
『先輩、キスしてもいいですか?』
「す、するかボケ!!」
思わず声が出て、慌てて口を押さえる。
心臓が暴れている。
「寝る!もう寝る!」
明かりを消してベッドに突っ伏し、布団を頭まで被る。
暗闇の中で目をぎゅっと、つむる。
……なのに。
まぶたの裏側に、夜一郎の顔が浮かんでしまう。
「なんで、あいつの顔……」
まばたきをしても消えない。
息が苦しいのに、嫌じゃない。
「……ふざけんな。寝られないじゃんか、これ」
チュンチュン、と鳥の声が聞こえる。
カーテン越しの光が、俺を無理やり朝へと連れ出そうとする。
時計を見ると六時を少し過ぎていた。
「……起きないと」
ベッドから起き上がる。
不思議と眠気は感じなかった。
階段を下りて、顔を洗う。
リビングへ向かうと、テーブルには朝ごはんが並んでいた。
席に座ってトーストをかじりながら、時計に目をやる。
六時二十分。
あと四十分もすれば、あいつが来る。
朝ごはんを食べ終えて、皿を流しに置き、部屋に戻る。
制服に着替え、鏡の前でネクタイを結ぶ。
時計を見る。
六時四十五分。
「あと、十五分……」
ネクタイの結び目をゆるめる。
鏡の前で髪をいじりながらそわそわする。
「誰に見せるわけじゃねぇのに、なにしてんだよ」
自分でツッコんで恥ずかしくなる。
ピンポーン。
「え……」
時計を見る。
六時四十六分。
「嘘だろ!?もう来たのかよ!!」
叫びながら、カバンを掴んで玄関に走る。
階段を降りる途中で足がもつれ、心臓の音が暴れている。
なんで、なんで――嬉しいんだよ、俺。
勢いのまま、扉をバッと開ける。
朝日が眩しくて目を細める。
その光の中に、夜一郎は立っていた。
制服はきっちり整えられ、髪も寝癖ひとつない完璧な姿。
そしてにこりと爽やかな笑顔で立っている。
「おはようございます、先輩。あなたの後輩、水無瀬 夜一郎が来ましたよ!」
「おまっ!……く、来るのはえーよ!!」
「ふふっ、ごめんなさい。先輩に朝から会えると思ったら十五分も早くなっちゃいました。
でも、''七時前後''って言いましたからセーフですよね?」
夜一郎は悪びれるどころか堂々としている。
イラつくな……。
呼吸が少し乱れる。
「なにがセーフだよ。普通に迷惑だろ……」
声が思ったより小さくなる。
だが、夜一郎はどうやら聞こえていたようだ。
だって、顔が気持ち悪いほどゆるんでいるから。
「でも先輩、ちゃんと支度して待っててくれたんですよね?嬉しいなぁ!」
「はぁ!?ち、ちげーし!!俺は毎日この時間に起きてるだけだし!」
「……そうなんですかー。じゃあ合宿でひとりだけ起きられなくて、監督に死ぬほど怒られた先輩はもういないんですね」
「…………」
――こいつ……わかって言ってやがる!
「そ、そうだよ!人間ってのは成長する生き物だからな!……い、いいから行くぞ!」
夜一郎を無視して歩き出す。
「ふふっ、はい!先輩」
俺の隣を並んで歩く夜一郎。
当然のように左に並びやがって……歩幅も俺に合わせやがって。この野郎。
「先輩、朝ごはんなに食べましたか?」
「……なんでお前に言わないといけねぇんだよ」
「だって、先輩のことなんでも知りたいですもん」
''もん''じゃねぇよ。かわいこぶりやがって……。
「……トーストと目玉焼き、あとサラダ」
結局教える俺……わけわからん。
「へぇー、美味しそうですね。あっ、サラダと言えば先輩まだブロッコリー嫌いなんですか?」
「……だったらなんだよ」
「もう、まだ食べられないんですか?可愛い」
「う、うるせぇ!お前も人参嫌いだろうが!!」
「あー……うん。もう白状しちゃうか。
先輩、俺――実は人参好きなんですよ」
「はぁ!?なんで嫌いなんて――」
「えー…だって先輩困ってたし、なんとか助けてあげたいなって思って。それに――」
夜一郎が、少しだけ笑う。
「先輩には嫌がる顔は似合わないって思ったんです」
「……はぁ?」
「だから食べました。あっ、先輩の嫌いなものが俺の嫌いなものでも食べてましたよ?
先輩に笑顔でいて欲しいから」
にこっと優しく笑う夜一郎。
その笑顔が、胸に刺さる。
「ば……かじゃねぇ、の?」
好き嫌いごときで……かっこつけやがって……
「よ、余計なことすんなよ!」
「ふふっ、俺のおかげで助かったくせに」
「うるせぇ!!」
気づけば力いっぱい地面を蹴っていた。
身体が熱い。
それを冷ますように無我夢中で走る。
「あ!先輩……待ってくださいよ!」
後ろから夜一郎の走る音が聞こえてくる。
追いつかれてたまるものかと、さらに脚に力を込めた。
けど、一瞬躊躇った。
''痛くなるかもしれない''
だけど、勇気をだして前に出る。
走る、走る。
――あれ?走るってこんなに気持ちよかったっけ?
「……痛くない」
カチリとピースがハマったような感覚だ。
「……っ、すごい!」
「……なにが!!」
「だって、先輩!ブランクあるのに……俺が全力で走らないと追いつけないんですよ!」
横に並んで走る夜一郎。
息を弾ませながらも、笑顔は崩れない。
「お世辞はいいんだよ!」
「お世辞なんかじゃないです!俺、本気で言ってます!やっぱり先輩はすごいです!その走り、またサッカーで見せてください!
俺、先輩とまた走りたい!!」
その言い方が、あまりにも真っ直ぐで。
ぐらりと気持ちが傾きそうになる。
「……言ってろバカ」
走る速度をほんの少しだけゆるめる。
夜一郎もそれに合わせて走る。
「先輩。俺、諦めないですからね?」
「うるせぇ……たまに走ってやるからそれで諦めろ」
「俺、欲張りだからそれじゃ我慢できないんで、いやでーす」
「……可愛くねぇな」
「でもその後輩大好きですよね?先輩」
夜一郎はにっこりと笑顔を浮かべる。
ドクン、と胸が強く鳴る。
切なくて、苦しくて、だけど心地よい。
「……嫌いだったら、とっくに突っぱねてるっての」
自分でも驚くほど素直だなって、あとから思った。
気づいた時には耳まで顔が赤くなっていた。
「え?先輩、なんて!!聞こえないです!」
「っ!なんも言ってねぇ!……このまま学校まで走るぞ!」
「えー!ゆっくり先輩と登校できると思ったのに……まぁいいや。はい、お供します!」
朝日が眩しい。
隣の''夜''が笑っている。
''朝''もいつの間にか笑っている。
夜一郎と二人並んで走る。
その距離が昨日より近い気がした。
……気のせいじゃない。
――うん、悪くない。
隣で走る''夜''が俺を照らし続ける限り、俺は走り続けられる。


