翌朝、猫カフェにはやわらかな光が差していた。

 昨晩の余韻がまだ店内に残っているようで、ミケはカウンターの上に置かれた帽子掛けをぼんやりと見つめていた。

 マスターが帰っていった夜。
 何かが終わったようで、それでいて何かが始まったような気がしていた。

 ミケは朝の準備をする手を止め、胸に手を当てる。

「……本当に、覚えていたにゃ」

 昨日の言葉がまだ心の奥に響いている。

 “ありがとうな。──僕の可愛いミケ”

 名前を呼ばれた時に胸の奥にぽっと灯った光は、一夜経った今もまだ消えていなかった。
 あの頃と同じ優しい声で。
 あの頃と同じ言い方で。
 こんなに嬉しいことはない。

 ミケは温め直したお湯をポットに満たし、カウンターに“二つ”のカップを置いた。

 「今日は……二杯、淹れたい気分にゃ」

 そう呟くと、外の風がやさしく扉を揺らす。

 チリン……。
 ドアベルの音が小さく鳴り響く。
 だけど扉は開かなかった。風の仕業だ。
 それでも、ミケのしっぽは一度だけふるりと揺れた。

 「────ああ……そっか。今日は来ないにゃ」

 昨夜、マスターは旅立ったのだから。
 けれど、不思議と寂しくなかった。

 行ってらっしゃい。
 また、いつか。

 そんな気持ちが胸に残ったままだったから。

 ミケはカウンターの椅子に座り、ため息にも笑みが混じった声で呟く。

 「いろんなお客さんの、最後のひとときを預かってきたけれど……昨日はミケの番だったにゃ」

 チリン──音が鳴り、今度は先ほどとは違って、ゆっくりと扉が開く。

 ミケは驚いて振り返る。
 けれど店に入ってきたのは、思った人物ではなく、見知らぬ若い女性だった。

 「あの……やってますか?」
 「ぁ…………もちろん、にゃ。いらっしゃいませにゃ」
 ミケは慌ててカウンターに戻り、メニューを差し出す。

 女性は店内を見渡しながら、ふと笑みを浮かべた。

「友達に聞いてね。“あったかい思い出をくれるお店があるよ”って」
 ミケの胸が、ふっと温かくなる。

「そうにゃ。ここは、そういう場所にゃ」

 女性はコートを脱いで席に着くと、窓の外の光を見ながら続けた。

「でも……来る途中で、何か不思議な感覚がしたんです。ここ、初めてなのに……どこか懐かしいような」
 女性の言葉に、ミケは静かに笑った。

「それはきっと、このお店に“誰かの想い”が残ってるからかもしれないにゃ。あったかいものは、なかなか消えないんですにゃ」

 自分ではない誰かかもしれないし、かつて自分であった誰かかもしれない。
 だけど皆、一度はたどり着いたかもしれない場所。

 女性はうなずき、ふわりと笑った。
 「ふふ。……じゃぁ、一杯、お願いしてもいいですか? 何か、忘れていた大事なものを思い出せるような味を」

 ミケはにっこりと笑ってもふもふの分厚い手で自信の胸をトン、と叩いた。

 「任せるにゃ。そのための、この猫カフェですにゃ」

 豆を挽く音が、やさしく店に広がる。

 この音が、ミケは好きだ。
 誰かの記憶を呼び、誰かの心を温め、また新しい物語を連れてくる。

 ふと、昨日のマスターの姿が頭に浮かぶ。

 行ってらっしゃい。
 また会えるにゃ。
 その時は、もっといいブレンド淹れるにゃ。

 ほかほかの白い湯気が立って、部屋中にコーヒーの香りが充満し始め、ミケが女性の前にそっとカップを置いた。

 「どうぞにゃ。特製ブレンド、“夕暮れ仕立て”にゃ」

 さっぱりとした飲み口で甘みもある、飲みやすいブレンド。

 女性は嬉しそうにカップを両手で包み、ゆっくりとひと口飲んで──そして、ほっ、と息をついた。

 「……ああ。ほんとだ。なんだか……帰ってきたみたいな味がしますね」
 目尻を垂れて言った女性に、ミケはゆっくり頷く。

 「おかえりなさいだにゃ。この店に来る人はみ~んにゃ……頑張ったその後に、ちゃぁんとここに帰ってきてるんですにゃ」
 女性は不思議そうに目をぱちぱちとさせたけれど、すぐにどこか納得したような笑みを浮かべた。

 ミケはふと棚の上、昨日の夜に置いた“もうひとつのカップ”に目をやる。

 誰も座っていない席。
 でも、そこには昨日のあの言葉のぬくもりが残っていた。

『──ありがとうな、僕の可愛いミケ』
 胸の奥でそっと響く。

 その残響に、ミケは小さく呟いた。

 「……うん。そう。だからおかえりも、行ってらっしゃいも、また、いつでも言えるにゃ」
 まるで自分に言い聞かせるように。
 まるで、自分を慰めるかのように。

 店の外では、風がやわらかく街灯を揺らしていた。
 あたたかな光が、猫カフェの窓を笑わせるように照らしている。

 そしてミケは、今日もまた、誰かの心をあたためる一杯を淹れはじめた。



END