その日、ミケの猫カフェは朝から大盛況だった。

 たった一人で切り盛りするミケはてんやわんやで、もう朝のことはほぼ覚えていない。
 こんなことはそうそうあるもんじゃない。
 今日はなんだか妙な日になりそうにゃ、とミケは心の中で独り言ち田。

 窓の向こうの街灯が淡い光を灯し始めている。
 ミケはカウンターに並ぶカップを丁寧に並べながら、「何だかわからないけれど、そわそわするにゃ」と、尻尾をピンと立てた。

 毎日のように訪れるお客さんたちの柔らかな記憶が、店内のあちこちにまだ残っている。
 濡れたレインコートの匂い、古い毛糸のぬくもり、夕焼けの琥珀色。
 どれも、ささやかで、愛しい。
 そしてそのどれもが、ただただ、優しいのだ。

 ミケは照明を一段落とし、落ち着いた音楽を流した。
 この店の夜は、だいたいこうして始まる。

 その時だった。

 チリン──店の鈴が揺れ小さく可愛らしい音を立てた。

 音の響き方が、いつもと違う。
 まるで遠くから来た風が、鈴だけを優しく撫でたような、そんな響き。

「失礼」
 入ってきたのは、古びた帽子を深くかぶった初老の男だった。
 背筋は少し丸く、少しだけよれた深緑色のコートが肩を包んでいた。
 
 いつもならすぐに「いらっしゃいませにゃ」と案内するのに、ミケはできなかった。
 ただ茫然と、その男をまん丸の満月のような瞳で見つめるだけ。
 男はそんなミケをよそに、店内を一度ゆっくり見渡し、カウンター席の真ん中に腰を下ろす。

「……ブレンドを一つ。深めで頼むよ」
 注文を聞いて、ミケの胸がきゅうっと締まった。

 「……はいにゃ。お好みのやつで淹れますにゃ」
 声が少し震えそうになるのを、喉の奥で必死にこらえる。

 男は気づいていないようだったが、その仕草の所々に、ミケの記憶の中で眠っていた“ある人”の面影がちらついた。

 ミケは深煎りの豆を手に取り、ゆっくりと挽きはじめた。
 豆が砕ける音が、どこか遠くの記憶を叩いているようだ。

 湯を注ぐ。
 ネルに落ちるしずくが、ぽとり、ぽとり、と静かに音を立てる。
 深煎りのコーヒーはさっと入れるのがコツだ。
 後半になればなるほど、えぐみが増してしまう。
 さっと淹れて、抽出時間を短くすることで、深みの中にも甘みの引き立つコーヒーになってくれるのだ。

 やがて香りが立ち昇ると、男は目を細めて呟いた。

 「……あぁ……、いい香りだ。君のブレンドはどこか懐かしい香りがする」

 その言葉に、ミケの心臓が跳ねた。
 当然だ。
 懐かしいに決まっている。
 だってあなたが、ずっと大好きだった、慣れ親しんだ香りなのだから。
 それを飲むのを、ずっと、見てきたのだから。