インコのある種類(コザクラインコ、ボタンインコ等)は、非常に愛情深く、番つがいとなった相手を生涯深く愛する。
 そのため、番の一方が死ぬと、残された一羽はその悲しみで食欲などが衰え、衰弱死してしまうことも少なくないという。
 その愛情深さから、彼らは「ラブバード」とも呼ばれる。

 私たちには、愛情深さは「本能として」インプットされてはいない。
 ヒトは、少なくともインコではない。





 梅雨の雨が続く7月初旬、金曜の夜。
 今日は、夫は会社の飲み会で遅くなる。
 最近飲み会多いね、と聞いたら、部下たちからあれこれと相談を持ちかけられているらしい。酒入ると「宮本!」って呼び捨てんだから今の若いヤツは、などと苦笑いしながら出かけていった。

 リビングの時計が19時を知らせた。自分だけの気楽な食事の支度をしようかと立ち上がりかけた私の手元で、スマホがメッセージの着信音を響かせる。こういうタイミング、小さく苦笑しながら座り直して画面を確認した。
『少し遅くなりそう。先に店に入って待っててくれる? 俺の名前で予約取ってあるから。ごめんね』
 夫からのメッセージだった。

 ん?
 内容の違和感に首を傾げた瞬間、そのメッセージは画面から消えた。
 送信されてから取り消されるまで、ほんの四〜五秒だっただろうか。
 ——何? 今の。
 送信ミス?
 目の中に焼きついた文字の残像を、脳に繰り返す。

 少し遅くなりそう。
 俺の名前で予約取ってあるから——ごめんね。
 少なくとも、私宛てのメッセージではない。
 今日の飲み会絡みの同僚たちへの連絡か何か?
 いや——会社の飲み会で、あんな会話を他の社員とやり取りするだろうか?

 不思議と、匂いがするものだ。例えたった一行でも。
 仕事関係でも、飲み会絡みでもない。あれは、何か内密な約束への言葉だ。
 奇妙に走り始める心拍と、脳内に風が立つかのようなざわつき。食器棚からグラスを出そうとする指が、小刻みに震えた。
 たった5分前の自分が、俄かに腹立たしくなる。なぜあの時、あと一分早くキッチンへ立ってしまわなかったのか。知らずに済めば良かったのだ、夫の別の顔など。

 上の空で作ったパスタを、味もよく分からぬまま食べ終え、機械作業のように皿を洗った。そのまままっすぐシャワールームへ向かう。湯の温度を上げ、水勢を強めたシャワーを頭から浴びた。
 肌を叩く熱い湯に、こめかみを刺すノイズが少しずつ治まる。それと同時に、思考が冷静さを取り戻し、脳が回転を始めた。

 いや。あのメッセージが、特別な相手への言葉と思い込むのはまだ早いかもしれない。
 例えば——上司のセクハラで悩んでる女子が相手だったりしたら、メッセージもああいう雰囲気になるかもしれない。優しく、気遣うような。
 そう思いつつも、そんな考えはただの気休めだという囁きが耳元から離れない。

 思えば、いくらでも起こる可能性のあることだ。
 中堅電機メーカーの営業部門にいる夫は、現在33歳。長身とすっきりした顔立ちで、一般的には結構イケメンの部類だろう。営業部でも成績はいいはずだ。私が退職する前も、そうだったから。
 私はかつて、夫と同じ会社の総務課に勤務していた。営業部の若手の中でも有能で人柄もいいと評判の二歳年上の夫は、私の目にはいつも颯爽と輝いていた。やがて私たちはお互いを意識するようになり、彼からの告白を受けた時は天にも昇る幸せを噛み締めた。
 一年ほどの交際の後、私たちは結婚した。私が25歳、彼が27歳の時だ。
 会社の通例だったこともあり、私は当然のように寿退職した。それからの私たちは、新たな命を授かるのを今か今かと待ちわびた。
 けれど、その願いは叶わないまま、もう6年になる。
 そのことについてどちらから何か口にするわけでもなく、不妊治療に踏み出すわけでもない。何もできないまま、それぞれの心がなんとなく黙り込む。
 私の母も、なかなか妊娠できずに結婚後4年以上も過ごした。もしかしたら、私もそういう体質を受け継いでいるのかもしれない。
 隣の市に住む義母と義父は、以前は顔を合わせれば冗談交じりに子供のことを夫に催促していたが、今はもう何も言わなくなった。

 お互いにどこか投げやりな心と身体で夫とひんやりとしたセックスをするのは、私にとって最早苦痛になりかけている。薄暗い寝室で諦めにも似た思いが軋むような気まずさと、子供を宿せない自分自身の情けなさが、体を重ねる度に押し寄せる。
 夫も、最近は週末の夜も滅多に求めてこない。

 満たされない思いを抱えた男盛りが、外で様々な人間と接していれば、今回のような展開は全く不思議じゃない。
 ——夫は、本当にそういう男なのか?
 不思議じゃないからと、簡単に欲求を実行に移してしまう、そういう種類の男。
 種類とかじゃなく、男ってそういうものなのか?
 黒く粘りつく得体の知れない太い蔓が、いくら振り払っても心に巻きついてくる。その苦しさに私は大きくため息をついた。

 夫は、私にあのメッセージを誤送信したことに気づいた瞬間、どう思っただろう。数秒で消去したとはいえ、私があの内容を読んだかどうか、気になっているはずだ。後ろ暗い相手への言葉ならば尚更。
 今夜帰宅する彼に対しどのような態度を取ろうか。シャンプーを塗りつけた髪を力任せに指でかき回しながら、私は執拗に思案した。

 とりあえず、今日はどちらとも判別できない態度を取ろう。
 そうすれば、夫の心にも曖昧な不安を残すことができる。 

 闇雲に泡立てたシャンプーが、髪から顔まで垂れて目に染みる。
 押し寄せる胸騒ぎに、私は花の香りのするその泡を足元へ叩き落とした。





 その夜、12時少し前。夫が帰宅した。
 静かに玄関のドアの開く音がする。
 普段なら私は既に寝ていることも多い時間だ。ベッドに入ってしまおうかとも思ったが、帰宅直後の夫の様子をどうしても観察したかった。

 ダイニングテーブルの上の照明だけをつけ、私はコーヒーの入ったマグカップを目の前に置いて雑誌を広げていた。その内容は全く頭に入ってこないけれど。
 薄暗い廊下からリビングのドアを開けた途端、テーブルに座っている私の姿を目にした夫は飛び上がるほど驚いた。
「う、わ……! び、びっくりした!」
「おかえり。そんな驚く?」
 私は彼を振り返り、小さく笑った。
「え、だって佳奈(かな)、俺が飲み会の日は決まって先に寝てるじゃんか……」
「あ、そうだっけ? なんか眠れなくてさ」
 自分でも意識していなかったそんなことを言われ、私は屈託ない仕草で小さく首を傾げた。
「そっか、なんでもなければいいんだけど」
 彼は、心なしかほっとしたような笑顔になった。

「ひー、一週間疲れた。水飲も」
 ビジネスバッグをソファへ置き、食器棚へグラスを取りに歩み寄る夫の横顔を、じっと盗み見る。
 少し酒の酔いが漂う、満ち足りた口元。
 満ち足りた口元という表現を自分で選んだくせに、そのいやらしさに言いようもない怒りが沸き起こる。怒鳴り散らしたい衝動を、寸前でぐっと抑え込んだ。
 ——待て。ここで感情を剥き出しにしては失敗する。穴だらけの網で獲物を追いかけ回すようなものだ。
 そんな直感が不意に心に浮かんだ途端、昂りかけた感情はすうっと引いていった。

 そうだ。もっと確かなものを、突き止めてからだ。
 彼の逃げ場を塞いでから、この話を切り出すべきだ。
 そう切り替えた私の口から、やっと自然な言葉が流れ出た。
将希(まさき)もコーヒー飲む?」
「ん、いいや。シャワー浴びて寝るよ」
 グラスの水を一気に飲み干すと、夫は浅く微笑んでビジネスバッグを無造作に肩にかけた。
 ネクタイを緩めて自室へ向かういつもと変わらない背中が、薄暗いドアの奥へ消えた。





 そんな疑惑が生まれた日から、ひと月程経った金曜日。チャンスは巡ってきた。

 8月に入り、暑さが一層猛威を奮い出す頃、私たちの会社では例年暑気払いが行われる。この行事の開催時期はもう伝統のように八月第一週の金曜と決まっており、暑気払いに出るから遅くなるという夫の話には私も疑わずに了解することができた。

「もーおっさんなんだからさぁ、勘弁してくれよなあ」
 その夜、いつになく泥酔して帰ってきた夫は、愚痴ともなんともつかぬ言葉を漏らしながらどさりとリビングのソファに倒れ込むと、電源をぷつりと落したように小さないびきをかき始めた。
「将希、そんなとこで寝ないで……」
 そう言いかけて、私は口をつぐんだ。

 夫は、深酒をして眠り込んだ時は簡単には目を覚まさない。
 床に放り出されたビジネスバッグの口が、無造作に開いている。
 手を差し入れれば、いつも彼が決まってスマホを入れる鞄の内ポケットのスマホを簡単に取り出せるだろう。
 足音と息を殺してバッグに歩み寄り、夫の様子を慎重に窺いながらそっとかがみ込んで中に手を入れた。

 あった。冷たく角張った感触。
 自分の鼓動すらも抑えるようにしながら、端末をそっと鞄から抜き出す。
 彼のスマホは、指紋認証でロックが解ける。
 認証ボタンを、ソファから垂れ下がった彼の右手の親指に静かに押し当てた。ぐ、と微かに力を込める。
 暗かった画面が、パッと明るく灯った。
 ——開いた。

 無我夢中でLINEのアプリのアイコンを探し、タップした。
 だいぶ前、彼が何気なく教えてくれたLINEのロックナンバーが変更されてしまっていれば、この作業はここで断念しなければならない。
 自分のスマホメモに残していたその番号を見直し、震える指で入力する。

 4桁の番号を入力すると、スッと画面が開いた。
 ロックが開きませんようにとどこかで祈っていた自分自身は、一瞬で消え失せた。開いてしまったのだ。もう止めようがない。
 最近会話をしたらしい相手のアイコンと、その横の名をざっと物色する。怪しいものと怪しくないもの。そこに漂う色なのか匂いなのかわからぬまま、自分の目と勘が選別していく。
『白川さん』
 どこか寂しげに美しい夕空のような風景をアイコンにした名が、目に飛び込んだ。
 叩くようにタップし、トークルームを開けた。

 どうしよう。怖くて、どこまで遡ればいいかわからない。
 そうだ。あの日私に誤送信されたメッセージがここに届いていれば、相手がこの「白川さん」だということが確定する。汗ばんだ指で、画面をスクロールする。
 記憶に刻み込まれたあの日の日付が、目に飛び込んだ。
『少し遅くなりそう。先に店に入って待っててくれる?』
 目の奥に焼き付いたそのままのメッセージが、そこに表示されていた。怪しい相手をビンゴで引き当てる自分の嗅覚に、思わず嘲笑が出る。
 その日は、それきり彼らはLINEでの会話はしていない。次のメッセージの日付はその二日後だ。目が獣のように文字列に喰らいつく。
『宮本さん、一昨日はありがとうございました』
『うん。会えて嬉しかった』
『宮本さんが選んでくれたネイルチップ、届いたのでつけてみました』

 ネイルチップをつけた手の画像が送られていた。
 艶やかなコーラルピンクの地色の上に、パールのような輝きの粒を散りばめた愛らしいネイル。そんな愛らしさとは少し不釣り合いな、白く大きい手が木目のテーブルに載っている。
 関節の骨が美しい、長い指。大学時代の友達がこんな指だったことを不意に思い出す。——男だったが。

『すごくいいね。君の雰囲気にぴったりだ。ついでに顔も写したらいいのに』
『自分の顔の写真送るとか無理!』
 ささやかなやり取りの中に満ちる、甘い空気。
 気が動転したまま、画面を更にスクロールする。その日以降しばらくメッセージのやりとりはなく、最新の会話の日付は今から一週間ほど前だ。
『宮本さん、今日はご馳走様でした。仕事忙しいのにランチ誘っていただいて』
『ん、全然。外回りで近くに行ったついでだし。前もって白川さんの都合も聞かずに急に呼び出して、迷惑じゃなかった?』
『迷惑なんて。美味しくてびっくりしました。あんな場所に小さなイタリアンがあったんですね。
 でも、いつも私がご馳走になってばかりだし。ちょっと困ります』
『あれ、困らせてる? それは俺もちょっと困るな。じゃ今度は君に出してもらうから安心して』
『……すみません。いつも、ありがとうございます』

 一旦会話が途切れ、「白川さん」の言葉は再び続いた。
『この前言ったことは、忘れてもらえませんか。
 あんなこと言うつもり、本当になかったので……あの時は飲みすぎて、つい取り乱してしまって』
『飲みすぎて、つい?
 じゃ、あれは酔ってただけで、君の本心じゃなかったということ?』
『それは違います。そうじゃありません』
『あの時の君の言葉、俺が忘れずにいるのは、迷惑?』
『そういう言い方、ずるいです』
『なら、君は何も考えずにいてほしい。全部俺が勝手にしたくてしてることだから』
『……困りました』
『ん?』
『嬉しくて』
『そっか』

 は?
 何これ……。
 こんな、高校生の恋みたいなやりとり。
 こんなものを見るくらいだったら、「また会いたいわ」「俺もだよ」くらいな低俗で薄汚いやりとりの方がよほどマシだった。ギリギリと、歯が砕けるほどの歯軋りが出そうになる。
 ——「この前言ったこと」というのは、あの誤送信のメッセージが届いた、あの夜にふたりで交わした言葉のうちのひとつ……なのだろうか。
「忘れてください」って、何? 「全部俺が勝手にしたくてしてること」って、何?

「……ん……」
 その時、背後のソファで、もぞりと動く気配がした。
 はっと我に返り、同時に背筋がギクリと硬直する。
 ——バレたか。
 恐る恐る、肩越しに振り返る。

 首を反らせて一つ窮屈そうに息をついた夫は、もぞもぞと身体を動かしながらソファの背の方へごろっと寝返った。
 幸い熟睡からは目覚めていないようだ。思わず安堵の息が唇から漏れる。

 私は慌てて夫のスマホを手にしたままキッチンへ移動し、自分のスマホを開けて今見ている会話の画面を写真に収めた。彼が言い逃れできない証拠にするために。
 すぐに画面を閉じ、スマホを再び元通りに鞄に戻した。夫の背中は、相変わらず深い寝息を立てている。
 一度キッチンへ戻り、グラスに水を注いで一気に呷った。
 ふうっと大きく息をひとつついてから、私はいつも通りの顔と声で夫に歩み寄った。
「将希、そんなとこで寝ないでよ。ちゃんとベッド行かなきゃ。将希」
「んん……わかったから」
 瞼を微かに動かして、夫は怠そうにそう返す。
 その横顔を、じっと見つめた。

 白川さん。
 その人と向き合う夫の心は今、まるで高校生くらいの頃に戻っているのだ。瑞々しくて眩しい、あの時代に。
 子供を授からない侘しさも、心の通わないセックスの冷ややかさも、全部巻き戻して。
 言葉にならない奇妙なものが胸の奥底から込み上げるのを感じながら、私は夫の寝顔をただ見下ろし続けた。





 会社の暑気払いの夜、夫のスマホを覗き見た。
 一番見たくないものを、とうとう確認した。
 この話をいつ、どのように切り出そうかと、どんな風に彼を罵倒してやろうかと、そればかりを考えながら既に二週間が経った。

 そうやって過ごしてみて、私は自分自身の奥底に怒りとは違う何かが重く澱んでいることを感じていた。
 ——私は多分、彼に怒りをぶつけるタイミングを見計らっているのではない。
 私は、この話を夫に切り出すことを、躊躇っている。

 私へのものではないメッセージが夫から私に誤送信され、その相手の存在を突き止め、端末に残ったやりとりの言葉から二人の関係の濃さまで感じとり。
 どれだけ強い態度で夫を責めてもいい証拠が、もう揃っている。
 なのに、私はそれをできずにいる。

 怒りと悔しさが胸に波立っているのに、よくわからない堤防が私の感情を囲っている。
 この堤防は、一体何?
 それでも、何食わぬ顔で仕事から戻り、私の作った料理を当然のように食べ、その日の下着を雑に洗濯カゴへ放り込む夫とは、もう視線を合わせることすら不愉快なのだ。
 怒りを吐き出すこともできず、かと言って夫を許すこともできない。破裂しそうに膨張した爆弾の導火線へ着火できないもどかしさを、ガチャガチャと目の前の汚れた皿にぶつける。

 彼への怒りに、火をつけられずにいる理由。
 もう薄々、わかっている。
 けれど、独りきりの薄暗いキッチンでその理由をはっきり自覚してしまうのは、どうしても嫌だった。

 自己内の矛盾がギリギリまで蓄積したその翌日、土曜日。
 今日は、私の所属する市民オーケストラの練習日だ。
 楽器を奏でて音楽を楽しむ市民約50人で結成された吹奏楽団。毎週土曜の18時から3時間ほどの合同練習があり、公民館の一室を借りて集まれるメンバーで音を合わせる。 
 学生時代に吹奏楽部でフルートをやっていた私は、3年ほど前にこのオーケストラに入団した。楽曲の世界観を全身全霊で創り上げていく瞬間は、たまらない高揚感に全身の感覚がゾクゾクと躍る。ここで活動していて本当に良かったと、オーケストラの存在を改めてありがたく思う。

 いつもは自分から誘ったりはほぼしないのだが、今日は気心の知れた顔ぶれに自分から声をかけた。
 クラリネットの三ツ谷さんと、トランペットの古賀くん。三ツ谷さんは21歳の女子大生、古賀くんは26歳の社会人だ。二人とも気さくで精神年齢が高く、年齢差はあっても一緒にいてとても心地よい。二人とも「姐さん」と親しみを込めて私を呼ぶ。

「珍しいですね、姐さんから誘ってくれるの。めっちゃうれしいです」
 練習場から繁華な街中へ向かう夜道を歩きながら、古賀くんが楽しげに私を振り向いた。今をときめく男前が、アラサー主婦との飲みをこんなふうに喜んでくれる。長身から見下ろすその眼差しがなんだかくすぐったい。
「そー、このメンツで飲むのすごく楽しいよね!」
 私の横を歩いていた三ツ谷さんも可愛らしい笑みを浮かべたが、ふと首を傾げた。
「大学の同期で集まって飲んでも、こんな風に楽しくないんですよねー。なんでだろ」
「それはさ、三ツ谷さんの中身がおっさんだからでしょ」
「うあ、古賀さん鋭い」
 いつもの二人のボケツッコミ調の会話のリズムに、私も思わず笑わせられる。顔馴染みの居酒屋の暖簾を潜り、いつものテーブルに座った。
 それぞれ好みのつまみと酒を好きなようにオーダーし、好きなことを喋り、時に本気でぶつかり合いながら笑い合う。すべきことも、してはいけないことも考えなくていい時間。最近はこういう時間こそ幸せだと思う。
「今日の三ツ谷さんのクラリネットの音、なんかすごく艶っぽくなかった? 聴いててめっちゃ気持ちよかったんだけど」
「え、すごい! 姐さん耳いいよねー。そういうのまで解っちゃうんだ」
「え……もしかして三ツ谷さん、とうとう恋愛成就とか!?」
「わ、古賀さんも鋭いなあ。えへへ、実はとうとう、なんですよ!」
「まじか……すげえ」
 三ツ谷さんの幸せそうな笑みに、古賀くんは本気で驚いた顔をする。
「え、古賀くん、三ツ谷さんの恋のこと、何か知ってるの?」
「あ、最近姐さん誘っても出られなかった飲みが何回かあったじゃないですか。あの時、俺ら二人で飲みに行って、その時にちょっと三ツ谷さんの恋の悩み聞いたりしてたんで」
「その人、大学のサークルの先輩なんです。同性の」
 三ツ谷さんが、ふわりと頬を染めてそう告白する。
「……え、そうなの?」
「で、で、どんな展開になったの?」
 古賀くんが目を輝かせて恋バナの続きを催促する。
「叶わないって思ってても、行き着く結論は結局同じなんです。どんな結果になっても、この気持ちをちゃんと伝えなければ絶対に後悔するだろうって。もしも断られても、自分の想いに区切りがつくなら、それでいい。そういう気持ちが自分の中で動かせなくなりました。
 だから、今度の金曜にちょっと遊びに出かけませんかって誘ったんです、思い切って。
 大学前で落ち合って、ショッピングして、カフェでお茶して、その時に崖から飛び降りる思いで伝えました。ずっと好きでした、付き合ってください、って。
 ——そしたら、『いいよ』って。
 先輩も私の気持ちに薄々気付いてたみたいです。
 あんまりあっさり答えてくれたから、一瞬聞き間違いかと思ったんです。でも、先輩は『これからよろしくね』って思い切り綺麗に笑ってくれて。心臓が壊れるかと思いました」
「……わあ……それは嬉しかったね……! おめでとう!」
 相手が同性であるという事実に驚きつつも、幸せの溢れる彼女の笑みに私は心から祝福の言葉を贈った。
「ってことは、その先輩も、同性が恋愛対象だっていうこと……だよね?」
 古賀くんが、ふと真面目な顔でそう呟く。
「んー……その辺は、先輩自身もよくわからないって言ってます。でも、私とならば、どんなことも絶対楽しい気がする、って。
 どんな返事よりも、嬉しい言葉だった」
 一言一言噛みしめるようにそう話す三ツ谷さんは、一瞬微かに瞳を潤ませてから、眩しいような笑顔を輝かせた。





 明日の予定があるからと、三ツ谷さんは一足先に帰っていった。

「いいねえー若いって。彼女の幸せ、私もちょっとお裾分けして欲しいよ」
 そんなことを言いながら梅酒のグラスを傾ける私の向かい側で、古賀くんがハイボールのジョッキを呷ってぼそりと呟いた。
「姐さん、今日何か話したいことがあったんじゃないですか?」
 私は思わず顔を上げて古賀くんを見た。

「……」
「やっぱりね」
 私の目を覗き込むようにしてから、彼はやれやれという顔をする。
「自分の話をこんな後回しにして、どうすんですか」
「いや、それはさ」
 私は、視線を落としてグラスの中の氷を見つめる。
「……もしかして、姐さんもまさかの恋バナ?」
 古賀くんのそんな言葉に、私は思わず吹き出した。
「何言ってんの。それどころか、夫の浮気話だっての。笑えるでしょ?」
 もうなんだかどうでもよくなって、私は自嘲まじりにそう言いながらグラスをからりと雑に呷った。
「は……? まじですか、それ」
「んー、マジマジ。この前こっそりダンナのスマホ覗いたらさ、どっかの女と高校生レベルのピュアーな会話しちゃってて。唖然とした」
「それで……どうしたんですか。夫婦の修羅場になったとか?」
「それがね、まだなーんもできてないのよ。情けないことに。
 怒りはもう喉元までこみ上げてるのに、『浮気なんかしやがってふざけるな!』って、夫にぶちまけることができないの」
「どうしてですか。普通、妻なら鬼のようにキレるところじゃないですか」 

 私は、古賀くんの誠実な眼差しを見つめた。
 この人になら、受け止めてもらえる。押し殺し続けた呻きを。

「——だって。
 怒りをぶちまけて、その相手との関係を切らせて、力ずくで彼を引き戻しても——引き戻した後、蘇るように家の中が幸せな空気に切り替わることなんてないって、わかってるのに。
 夫をどんより暗い空気の中に引き戻して、それでその先、あんたたちはどうするの?っていう問いが、私の中でずっとリピートしてる。望んでる子供もできないまま、ただ味気ない夫婦の暮らしを再開するのかって。
 浮気を彼に認めさせて、強制的に終わらせて、それで何がどう解決するのか、わからなくて」
 無意識に掌が顔を覆う。

「……辛かったですね」
 静かに包み込むような声が、耳の奥へ沁みる。
 家庭内の事情が、これで全部古賀くんに知れてしまった。それでも、彼のその一言でようやく私の胸に新たな空気が流れ込んだ。

「あなたは怒りすら爆発させられずに、ダンナは外で身勝手な恋を楽しんでる。それじゃ、あんまり不公平じゃないですか?」
「公平とか不公平とか、そういう話じゃ……」
「いいえ、そういう話ですよ」
 私の力ない呟きが、彼の強い声に遮られる。
「そういう状況ならば、あなたもそんなつまらない家の中ばっかり見つめるのはやめたらどうですか? さっさと家に帰ったりしないで身勝手に楽しんだらいいんです」
「そう簡単に言うけどね。そもそもこんないい歳の専業主婦のおばさんが、勝手に楽しむっつったって行く当てもないでしょうが」

「本当にないですか、行く当て」
「ん?」
「あなたの鈍さも大概です」

 古賀くんの眼差しが、私を真っ直ぐに見つめていた。