「はい、じゃあここまで」
キーンコーンカーンコーンと間延びしたチャイムが校舎内に響き渡る。
本日最後の授業終了を告げるチャイムに、教室内の空気が一気に弛緩する。
教科書や便覧を閉じ、教室を出る準備を整えていると、一人の女子生徒が駆け寄ってきた。
「戸坂先生」
駆け寄ってきたのは、いつも真面目に授業に取り組んでくれている、柏原 みつきさんだった。
「どうかした?」
私の問い掛けに、柏原さんは「つ、次の授業までにやっておくことありますか?」と尋ねてくる。
ああ、そうか、柏原さんはこのクラスの国語の教科リーダーだったわね。
教科リーダーというのは各教科に担当する生徒がいて、次回の授業までにやってくべきこと、持ち物などを担当教諭に確認し、クラスに知らせる仕事があった。
「古典の単語の意味をなるべく予習してきてほしいかな。それくらいで大丈夫」
週明けには漢字テストも予定しているし、あまり宿題を出し過ぎてもなかなか手に負えないだろう。他の教科からも出ているだろうし。
柏原さんは、「分かりました、ありがとうございます」と言って、丁寧にお辞儀した。
それににこりと笑顔で返して、私は教室を後にした。
「ふう……」
職員室の自席に戻ってくると、自然と浅いため息が零れた。今日の授業も無事に終わったことに安堵する。
学生の頃から大好きな国語の教師になって、早五年が過ぎ新米と言える時期はとっくに過ぎた。
仕事のペースにも慣れやりがいも感じ、自分は教員が向いていたのだな、とさえ思えるようになった。
授業は楽しい。生徒達は皆いい子で、真剣に聞いてくれるし、分からないことはすぐに訊きにきてくれる。
しかし教師と言う仕事は、授業のみで終わることはなかった。
今日は放課後に、図書室で図書委員会の集まりがある。
私は司書の津田先生と共に、図書委員会の担当になっていた。
「さて、そろそろ行きますか」
一息ついたのも束の間、きっと帰りのSHRももうすぐ終わるだろう。
私はクラスを持っていないが、担任を持つ先生はもっと大変なのだろうなぁ、とぼんやり思う。
部活の顧問や委員会の顧問なんかもやって、自分のクラスなども受け持つことになったら、仕事は倍どころか、三倍四倍くらいになりそうだ。
「って、そんなこと考えてる場合じゃなかった」
私がのんびりと立ち上がると、「戸坂先生」、と、教頭先生から声が掛かる。
「はい」
「図書室の前の廊下、蛍光灯が切れかけていたでしょう?」
そう言われ、昨日の放課後のことを思い出す。確かに少し薄暗く、時たま点滅していたように思う。
「今日、取り替えを野田さんにお願いしたから、野田さんに場所教えてあげて」
「はい、分かりました」
野田先生は用務員の先生だ。すごく穏やかで人当たりも良く、教師陣からも頼りにされている。
私は頷くと、職員室を後にした。
図書室前にやってくると、まだ野田先生は到着していないらしく、私は少しの間待つことになった。
図書委員の生徒達が次々とやってきて、室内に入って行く。
「先に津田先生と進めてて」と促して野田先生を待つ。
するとようやく、野田先生がのんびりとした足取りで脚立を肩に掛けてやってきた。
野田先生の横には、何故かこの学校に住み着いている真っ白な野良猫、通称猫様も一緒だ。
私が猫様にちらりと視線を向けると、猫様はその鋭い瞳で私を射抜くように見た。野良猫と言うわりには、あまりに凛々しい。
「野田先生、お待ちしてました。替えてもらいたいのはこちらの蛍光灯で」
私は野田先生に頭上の蛍光灯を指し示した。
野田先生はのんびり頷くと、「はい、分かりました。十分ほどで終わると思います」と朗らかな笑みを浮かべた。
「よろしくお願いします」
それにぺこりと頭を下げて返答し、私は図書室の扉をスライドした。
室内ではすでに司書の津田先生を中心に、図書委員達との話し合いが始まっていた。
「ごめんなさい、お待たせしました」
今回の議題は、図書委員会で行う、地元の公民館での読み聞かせ会についてだ。
読み聞かせる本決め、その読み手、周知させるためのポスター作りなど。読み聞かせ当日までにしなくてはならないことはたくさんあった。
公民館でのイベントの日にちは抑えているので、その日までに色々詰めていかなくてはならない。
廊下でカシャンと音がした。きっと野田先生が脚立を片付ける音だろう。どうやら蛍光灯の交換は無事終了したようだった。
図書委員の話し合いが終わって、私はまた職員室に戻る。
最終下校時刻まで、宿題で出した作文の採点をすることにする。
採点、と言っても作文に点数を付けるのは難しい。生徒達が一生懸命に書いたものだ。
今回の作文のテーマは「おすすめの本」。おすすめしたい気持ちが伝われば、ある程度の点数を付けるつもりでいる。
一人一ページの作文を、私はじっくり読み進めていく。
おすすめの本、というテーマにはある程度その人の個性も読み取れる。どんな本が好きで、その本に対してどういう感情を抱くのか。生徒達を知るには、面白い題材ではないかとも思う。
いつか担任を持つなら、クラスでこういう授業をやってみてもいいかもしれない。
「どれどれ」
作文用紙を繰る度、生徒達の顔が頭を過る。
やっぱりこの子は青春小説を選んだかぁ、とか、この子絵本好きなんだ、とか、この子らしいな、とか仕事であることそっちのけで楽しんでしまった。
「いいね、みんな。面白そうな本知ってるなぁ……」
生徒達の作文を読んで、私も読んでみたいという気持ちが湧いてくる。
今日は帰りに、本屋さんにでも寄って帰ろうか。
そんなことを思っていると、最終下校時刻を知らせるチャイムが鳴って、私も帰り支度を始めた。
「戸坂先生、さようならー」
「さよならー」
授業の後に部活や委員会があったにも関わらず、学生と言うものはとにかく元気だ。
笑い声を上げながら元気に帰路に就く生徒達を横目に、私は単純に、いいなと思った。
自分の学生時代はどうだっただろうか? あんなにも楽しく過ごせていただろうか?
校門横に野田先生が立っていた。恐らく生徒達の下校を見守っているのだろう。
その足元には、薄暗さの中にも神々しく光る、猫様の姿がある。
「お先に失礼します」
野田先生にぺこりと頭を下げると、「お疲れさまでした」と穏やかな声が返って来る。
猫様も珍しく、にゃあ! と強めに鳴いた。
お疲れと、労ってくれたのだろうか?
やや疲れてはいたけれど、私は駅前の本屋に立ち寄った。
入口入ってすぐの新刊コーナーには、映画化で話題の作品の文庫版がずらりと並べられていた。
その横にひっそりと並んでいる、一冊の表紙に目を引かれ、私はそれを手に取った。
「猫と私の日常……」
裏表紙のあらすじにさらっと目を通すと、悩みを抱える登場人物達が猫に寄ってその悩みを解されていく、というものだった。ヒューマンドラマ的な作品だろうか?
表紙に描かれている真っ白な猫が、なんとなく猫様に重なった。
「買ってみるか」
私はそのまま文庫本をレジに持って行った。
一人暮らしにしてはやや広めな我が家へと帰宅し、適当に買ってきたお弁当を温めて食べる。
普段は少しは自炊もするのだが、今日は何だか疲れたのでコンビニ弁当だ。
食べ終わった容器をそのまま机に放置し、私は先程買った文庫本を読み始めた。
すると思ったよりも集中してしまったらしく、スマホがブブっと振動してはっと我に返ると、もう半分以上も読み切ってしまっていた。
本の栞になるようなものが手近になかったので、とりあえず買った時のレシートを挟んで、私はスマホを手にした。
それは大学の時に仲の良かった友人達のグループメッセージで、また一人、結婚が決まった、という話のようだった。
ロック画面に表示されたポップアップ表示でそのざっくりの内容を把握した私は、スマホをベッドに放り投げた。
私はもう二十八になる。この歳になると、何故だか女性は結婚の話題が多くなる。
私はと言えば、仕事に忙殺される日々で、恋人などと言う存在とは大分ご無沙汰であった。
仕事に不満は全くない。国語は相変わらず好きだし、生徒達も皆いい子達ばかりだ。
けれど、時たまふと考える。
私はこのまま何の趣味もなく、ただ仕事を淡々とこなし、そのまま死んでいくのだろうかと。
閉じられた文庫本に目を落とすと、表紙に描かれた猫と目が合う。
猫様に見られているような、変な威圧感があった。
そこで何故か、私は学生時代のことを思い出した。
私は本が大好きで、年間百冊以上を読む、本の虫だった。
誰かと遊ぶよりも本が大好きで、休み時間も放課後も、ひたすらに本を読んでいた。
高校三年生になって、進路を決めなくてはならなくなった時、私は、国語教師になるか小説家になるか、本気で悩んだような気がする。
けれど小説家という夢は現実的ではないな、と早々に諦めてしまった。
たくさん本は読んでいたけれど、小説を書いたことはなかったし。
「小説か……」
ふと浮かんだ気持ちに、どうにも踏ん切りがつかなくて私はまた文庫本に意識を戻した。
朝早くに学校へ行くと、猫様が校門の横に立っていた。
「あら、猫様。今日は早いのね」
声を掛けると、猫様は目を細めてにたりと笑ったような表情になる。
やっぱり昨日読んだ小説の表紙の猫にそっくりだ。
そう思いながら、猫様の横を通る。少しして振り返ると、猫様は私をじっと見つめていた。
何か言いたそうな、そんな瞳だった。
授業を終えて、廊下を歩いていると胸に冊子のようなものを抱えている生徒と擦れ違った。
「戸坂先生、こんにちは」
「こんにちは」
あの子は確か、桃田さん。国語の成績がよく、確か文芸部に所属していると言っていた気がする。
桃田さんは冊子を胸に抱え、そのまま図書室へと入っていく。
何故だか私はその後を追っていて、桃田さんと一緒に図書室内へと足を踏み入れた。
桃田さんは図書室の雑誌コーナーに持っていた冊子を差し込む。
「桃田さん、それは?」
「ああ、これですか? 文芸部で毎月発行している部誌です! 図書室にいくつか置かせてもらっているんです」
冊子を立てかけた下に、ご自由にどうぞ、とシールが貼られていた。
「先生も一冊貰っていいかな?」
「はい! もちろん!」
桃田さんは嬉しそうに冊子の一冊を手渡してくれた。
「文芸部員が書いている小説や詩なので、先生が楽しめるかは分からないんですけど……」
桃田さんの少し自信のなさそうな言葉に、私は首を振る。
「みんなが一生懸命書いたものでしょう? 大切に読むわね」
桃田さんがにこりと笑顔を浮かべる。
そこでようやく気が付いたが、桃田さんの横に猫様が立っていた。
いつからそこにいたのかは分からないが、私をじっと見上げている。
何故だかその瞳が私の心を見透かしているかのようで、居心地が悪かった。
職員室に戻って、桃田さんから貰った文芸部の冊子を読み耽る。
当然世間一般で売られている本の文章に比べると拙さは目立ったが、どのお話も個性的で、こんなお話を書きたいという気持ちが強く伝わってきた。
この子達の中には、将来小説家を目指す生徒もいるのだろうか。
いいな、と漠然と思う。
仕事でてんてこまいになってしまった自分には、将来何がしたい、なんて夢はもうない。
けれど、それでいいのだろうか。
このまま夢もなく、ただ淡々と日々をこなして、人生を終えるのだろうか。
「小説、書いてみようかな……」
ずっと興味があっても、挑戦したことのなかったことだった。
こんな大人が、小説を書いてみようか、だなんて、おかしいだろうか?
にゃあ!
大きな声がすぐ傍で聞こえて、私は驚いてそちらの方を向く。
そこには猫様がいて、授業で使う国語の便覧が踏みつけられていた。
「ああ、ああ、猫様。それ踏まないでほしいんだけど……」
しかし猫様は、私の瞳をじっと見つめたまま、動こうとしない。
そして猫様はまた、にゃあ! と強く鳴くと、文芸部の部誌を前足でタッチした。
「なに? 読みたいの?」
そうして猫様は今度は机に転がる鉛筆をこちらに蹴って寄越した。
それが何だか、つべこべ言わずにさっさと小説を書いてみろ、と言っているようで、私は思わず笑ってしまった。
こんな大人が、今更夢を抱いてもいいのだろうか?
あの時叶えられなかった夢を、諦めてしまった夢を、また見てもいいのだろうか。
猫様はぐるぐると喉を鳴らす。私を急かすように。
「分かった、分かったよ。書いてみるって、小説」
大人になったからと言って、夢を抱いてはいけないわけではない。
いつからだって、好きなこと、夢に向かって歩き出してもいい。
歩き出したい今が、きっとその時なのだ。
猫様に視線を戻すと、きゅっと目を細めて、笑っているように見えた。
そうだな、じゃあ最初のお話は、猫様を題材にして書いてみようか。
このふてぶてしくも神々しい猫に、何もかも見透かされているような気がして、少し癪だけれど、きっかけなんてなんでもいいのだ。
私は私のやりたいようにやる。それが私の人生だ。



