学校と言う中で過ごす時間は、酷く穏やかだ。
学校での用務員という職に就いて、もう何年になるだろうか。
会社員時代は毎日が忙しなく、いつも何かに追われているような気がしていた。
朝早く起きて会社へ行き、夜遅くまで働いて、寝るためだけに自宅に帰る。
そんな毎日に、私は次第に疲れてしまった。
会社を辞めた私が行きついたのは、この学校の用務員という仕事だった。
私は、一応教職免許も持っている。大学までは学校の先生を目指していたからだ。
しかしそれがどうしてただの企業に就職してしまったのかについては、自分の弱い心にあるとしか言いようがない。
私は、先生になる自信がなかったのだ。
放課後と言う言葉は、学校以外では使われることのない特別な言葉だ。
社会経験を通じて、また学校に戻ってくるとよく分かるが、学校と言うものは酷く閉鎖的で、ここだけが人生の全てだと感じてしまうこともしばしばある。
外に出てみれば、学校生活で悩んでいたことは大したことなかったのだな、と思い知らされることもある。
それだけは、社会経験を積んで良かったと思うことだった。
足元にするりと、ふわふわしたものが擦り寄ってくる気配があって、私は自身の足元に目を向けた。
私のつなぎに頭をこすりつけているのは、この学校に住まう野良猫だった。
神々しいほどに真っ白で、緑と青のオッドアイの瞳は、何もかもを見透かしているようだった。
生徒達からは、その凛とした神々しい姿から「猫様」の愛称で親しまれていた。
その猫様が、私の足元をちょこちょこと歩く。
「やあ猫様、お散歩かな?」
猫様は校内や中庭、学校の至るところを自由に歩き回っている。
教室内にいることもあるし、職員室にいることもある。神出鬼没でまさに自由な野良猫様だった。
「これから図書室の前の廊下の蛍光灯を取り替えに行くんだ。面白いものはなにもないよ」
肩の脚立を抱え直し、私は猫様に話し掛ける。
しかし猫様はそれでもいい、とでも言うかのように、私の横に並んでゆっくりと歩いていた。
普通教室のある棟から、図書室のある特別棟へは、外廊下を渡る必要がある。
外に面しているそこは、放課後のこの時間夕陽が差して心地良い風が吹き抜けていた。
その心地良い風の中に、これまた心地良い優しいクラリネットの音色が耳に届く。
クラリネットが大好きで、演奏するのが楽しいと音が言っているようだった。
クラリネットを吹く後ろ姿が目に入って、私はつい声を掛けていた。
「こんにちは」
「野田さん、こんにちは」
クラリネットを吹いていた男子生徒、佐久間くんは穏やかな笑みを浮かべて私を振り返った。
佐久間くんとは、よく話す仲だ。
私が佐久間くんのクラリネットの音色が好きで、素敵だなぁ、と思って声を掛けてしまったのが始まりだったが、それ以降、彼からもよく話し掛けてくれるようになった。
佐久間くんは大人しい子で一人でいることの多い子だが、いじめられているわけでは決してないことは十分承知している。
これは吹奏楽部の子が話していたのを小耳に挟んだだけなのだけれど、佐久間くんのクラリネットの腕前は吹奏楽部内でも一目置かれているようだった。
それに一人でいることが好きであるようにも見える。
いじめられているわけではない以上、この立場を自分で選んでいるのかもしれない。
私は強くは口出しせずに、彼の様子を時たま気に掛けるに留めていた。
「ごめんね、演奏中に。佐久間くんがいたからついね」
私の言葉に、佐久間くんはまたふわりと微笑む。
「全然大丈夫です。野田さんは、猫様とお仕事ですか?」
彼は私の足元を見て、そう言った。
私の足元で、猫様が私と佐久間くんの話を聞いているみたいだった。
「猫様ねえ、なんだか今日はついてきちゃってねぇ。これから廊下の蛍光灯を取り替えるだけから、面白くないよって言ってるんだけどねぇ」
猫様はツンっとそっぽを向いた。
「それじゃあね、佐久間くん」
小さく頭を下げる。
あまり長居しても練習の邪魔になってしまう。それに仕事の途中でもある。
私は彼との話を早々に切り上げて、特別棟の校舎内へと足を踏み入れた。猫様も相変わらずついて来てくれている。どうやら今日は一緒にいてくれるようだ。
図書室の前の廊下に到着すると、紺色の薄手のジャケットに同じ色のパンツを合わせた女性教師が立っていた。
国語教諭の、戸坂 美奈子先生だ。
「戸坂先生、すみません。遅くなりました」
声を掛けると、戸坂先生は切れ長の瞳をぱっとこちらに向けた。
「野田先生、お待ちしてました。替えてもらいたいのはこちらの蛍光灯で」
見た目からもきちっとした真面目な女性であることが窺える戸坂先生は、私よりも二十は年下だったように思う。まだ二十代だと言うのに、すごく先生らしい先生の模範のような女性だった。
「はい、分かりました。十分ほどで終わると思います」
「よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げた戸坂先生は、そのまま図書室に入っていく。
猫様は戸坂先生が入って行く図書室に一瞬目を向けて、それからまた私を見上げた。
「猫様、脚立置くからね。ちょっとどいててね」
猫様はまるで私の言葉を理解しているかのように、一歩下がって私を見守ってくれている。
私がこの学校の用務員として着任してからもう四年になるが、猫様との付き合いも同じでもう四年になる。一緒にいる時間が多いからか、猫様との空気感を私は気に入っていた。
猫様は様付けで呼ばれているだけあって、普通の猫とはなんとなく違うような気がする。不思議な空気感の持ち主だった。
脚立を上がって、古い蛍光灯を取り外していると、ちょうど図書室の上の窓から室内が見渡せた。
そこには数人の生徒と、戸坂先生、司書の先生が机を取り囲んでいて、何かポスターのようなものを見て話し合っているようだった。
授業が終わった放課後だというのに、先生というものは忙しいものだ。
にゃあ、と猫様の声が聞こえて、慌てて自身の手元に意識を戻す。
「いかんいかん、早く取り替えねば」
用務員という仕事をしていると、ふと思う時がある。
同じ学校で勤務しているのに、どうして私は教職に就かず、用務員であるのだろうかと。
簡単な話だ。
教職に憧れ、大学に進学したはいいが、どうにも教育実習で上手くいかずに教師になる自信を失ってしまったのだ。
教育実習を受ける際は中学校の先生にしようか、高校の先生にしようか、とまだ決めあぐねていた時期だった。
しかし実際に中学校の教育実習に行ってみると、生徒達は学生である私を馬鹿にしているのか、全く授業を聞いてはくれず、授業そっちのけでお喋りし放題。いくら声を掛けてみても、誰一人として私の話しを聞いてくれるものはいなかった。
そんな些細なことだった。
狭い教室内で、私の心はひとりぼっちになってしまった。
昔から気弱な私にとっては、将来に不安を抱くには十分な要素だった。
今思えば、私はただ単に運が悪かったのかもしれない。少し素行の悪いクラスに当たってしまっただけだったのだろう。
だったとしても、私の心をぽっきり折るには十分だった。
私は教職の道をいとも簡単に諦めてしまった。
けれどもやはり結局、私はまた学校という場所に戻ってきてしまったのだ。
蛍光灯を替え終わって、図書室内の戸坂先生に声を掛ける。
そうして私と猫様は用務員室へと戻った。
校庭の運動部の声や、体育館に響くボールとシューズの擦れる音。
吹奏楽部の合奏や、合唱部の歌声が、放課後の学校に賑やかにこだまする。
「なぁ、猫様」
私は隣で同じように暮れていく夕空を見上げる猫様に声を掛ける。
「私の人生は、これで良かったのかなぁ……」
もしもあの時、教師を諦めなければ。
もしもあの時、教育実習でもっとびしっと言えていたら。
私の人生は、変わっていたのかもしれない。
そんなもしものことを、この歳になるとつい考えてしまう。
自分の選んできた道は正しかったのだろうか。これが私にとって正解の道なのか。
大人になっても、その答えは出ないままだ。
猫様が、にゃあ、と鳴いて、すたすたと歩き出す。
「ああ、もうそんな時間か」
私も猫様の後について、一緒に校門を目指した。
すると間もなくして、生徒達がちらほらと校舎から出て来る。
どうやら今日の部活動ももう終わりの時間らしい。
私の足元に立つ猫様は、ぴんと背筋を伸ばして、凛々しい瞳を生徒達に向けている。
「あ、猫様!」
「猫様、今日もお見送り?」
「猫様バイバーイ」
そんな猫様に、生徒達は手を振って下校していく。
「野田さんもバイバイ!」と手を振ってくれる生徒に、私は嬉しくなって手を振り返す。
「気を付けて帰るんだよ」
そういうと「はーい!」と元気な返事が返ってくる。
スケッチブックを見ながら二人でお喋りしながら歩いてくる女子生徒二人がいて、「あ! 猫様と野田さん! さよならー!」「さようなら」と私と猫様に挨拶をしていく。
「気を付けてな」
「はーい!」と元気に手を振る子と、丁寧にぺこりとお辞儀する子。対照的なようでいて、きっと仲良しなのだろうことが窺えた。
「野田さん、さようなら」
落ち着いた男子生徒の声が聞こえて、私は挨拶を返す。
「佐久間くん、さようなら。気を付けてね」
「はい。あ、猫様もさようなら」
佐久間くんはぺこりと頭を下げていく。
そうしてしばらく生徒達の帰りを見守り、人通りが途絶えた頃。
猫様が私を見上げて目を細めた。その表情は、なんだか笑っているように見えた。
「猫様も、嬉しいのかい?」
猫様、も、嬉しい。自分の発した言葉に、私ははっとする。
そうか。私は、嬉しいのか。
こうして生徒達を見守れることが、私の喜びだった。
私は思い出す。
どうして学校の先生になりたかったのかを。
「そうだ、そうだった。私は、生徒達をただ、健やかに育ちゆく生徒達を見守りたかったのだ」
自分が小学生の頃、少しいじめられていた時期があった。
そんな時、担任の先生が親身になって相談に乗ってくれていたことを思い出す。
だから私も、私のような悲しい思いをしている生徒がいないか、しっかり見守って上げられるように教師になろうと考えたのだ。
どうして、そんな大事なことを忘れてしまっていたのだろうか。
そうして同時に、私はその夢が叶っていたことにも気が付く。
こうして朝と帰りに、猫様と共に生徒を迎え入れ、見送る。
私は教師という立場ではないが、用務員として夢を叶えていたのだ。
猫様の喉がごろりと鳴る。
私は自然と猫様に微笑みかけていた。
「ありがとう、猫様。すっかり忘れかけていた大事なことを、私は思い出したよ」
猫様がまた、そうだろう? とでも言いたげににゃあと鳴いた。
私はただ、生徒達を見守りたいだけだ。彼ら、彼女らが楽しく健やかに過ごせるように。
「さて、私達もそろそろ戻ろう」
私が歩み始めると、その横を猫様もちょこちょこと付いて来る。
どうやら私は、この仕事が嫌いではないようだ。



