心地が良い。
晴れて澄み渡った空を見上げながら、少し熱気をはらんできた春の風を胸いっぱいに吸い込んで、僕はそれをクラリネットの音にして吐き出す。
軽快なメロディは、風に乗って空に吸い込まれていく。
学校生活という縛られた時間の中で、僕はこの部活動の時間が一番好きだった。
吹奏楽部に所属しているから、もちろんみんなで合わせる合奏の時間もあるわけだけれど、その前の時間は個人で練習できる時間に当てられていて、その時間がすごく好きだった。
他の部員と一緒に練習するのが嫌いというわけでは決してない。
ただ少しみんなと話すのが苦手で、一人でいるのがちょっぴり好きなだけだ。
春の渡り廊下はとても心地が良い。
普通教室棟と特別棟を結ぶ外廊下は、放課後になると使う人は多くない。
部活のない生徒は帰路に就いているし、部活の生徒は早々に部活棟に移動している。
人気のない渡り廊下は、僕のお気に入りスポットだった。
「こんにちは」
そこに穏やかな男性の声が耳に届く。
僕はクラリネットの演奏をやめ、声のした方を振り返った。
「野田さん、こんにちは」
そこには脚立を抱えた繋ぎ姿の細身の男性、用務員の野田さんが立っていた。
野田さんはこの高校の用務員として、校内の環境整備や管理、ああ、今は猫様の世話もしてくれているんだっけ。
野田さんの足元を見ると、真っ白の毛をキラキラさせた猫様がいた。
野田さんは白髪混じりの髪を無造作に掻く。
「ごめんね、演奏中に。佐久間くんがいたからついね」
「全然大丈夫です。野田さんは、猫様とお仕事ですか?」
僕の言葉に、野田さんは柔らかく笑う。
「猫様ねえ、なんだか今日はついてきちゃってねぇ。これから廊下の蛍光灯を取り替えるだけから、面白くないよって言ってるんだけどねぇ」
野田さんは困っているのかそうでもないのか、引っ付いて来る猫様を見てよく分からない穏やかな笑い声を漏らす。
自分で言うのもなんだけれど、僕と野田さんはよく話す仲だ。
僕がいつも一人でここでクラリネットを吹いているせいか、最初は心配して声を掛けてくれたみたいだけれど、それからぽつぽつ話すうち、この学校だと一番話す人なのではないかと言うくらいになった。
野田さんはいつも穏やかで、生徒達を優しく見守ってくれている。生徒からの人気は高かった。
「それじゃあね、佐久間くん」
「あ、はい」
野田さんは少し丸まりかけている肩を更に丸くしてペコリと頭を下げて特別棟へ入って行った。
後ろを歩く猫様が、僕を振り返ってちらりと視線を寄越した。
軽く手を振ってみたけれど、猫様はツンと顔を背けると、野田さんと共に廊下の奥に消えてしまった。
そこにちょうど、吹奏楽部員の女子がやって来る。
「さ、佐久間くん。合奏、始めるって」
「ああ、うん。分かった。今行くよ」
同じ部、しかも同じクラリネットパートのはずのその女子は、少し気まずそうに僕の横を歩いていた。
僕も少し気まずかった。
放課後。僕はいつもこの渡り廊下で個人練習をしている。
静かだったはずの渡り廊下は、二年生になって少し様子が変わった。
「やあ! 今日も頑張ってるね!」
お日様みたいに明るい声がして、僕は振り返る。
「ああ、本庄さん。こんにちは」
挨拶を返せば、そこにはクラスメイトの本庄 絵美さんがいた。
本庄さんとは、今年初めて同じクラスになった。クラスでも友人が多く、明るいムードメーカーという印象がある。こんな僕にも声を掛けてくれるのだから、その人気ぶりも頷けるというものだ。
彼女は美術部で、校内を回りながらデッサンの題材を探しているらしい。
僕を見つけるといつも声を掛けてくれる。
「さ、佐久間くんは、今日もここで個人練習?」
「うん、そう。ここ、人があまり来ないから」
本庄さんも美術のコンクールがあるらしいこと、僕も大会のコンクールメンバーを決めるオーディションが近いことを話すと、本庄さんは申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん! そんな大事な時期に時間使っちゃって!」
本庄さんの表情はくるくると目まぐるしく変わる。
お礼も謝罪も、言いたいことははっきりと口にする。
「大丈夫。少し根を詰めすぎていたかなって、休憩しようと思っていたところだから。本庄さんと話しているのは楽しいし」
この言葉は嘘ではない。
僕はきっと一人でも楽しめる人間だけれど、もちろん誰かと一緒にいることが嫌いなわけではない。
とりわけいつも明るい本庄さんと話していると、自分も明るくなったような気になって、少しだけお喋りする勇気が出る。
「私もこの近くで絵を描いてもいいかな? 題材がここからだとちょうど良く見えて!」
了承すると、本庄さんは嬉しそうに少し離れたところに腰を下ろした。
僕のクラリネットの演奏にふんふんと鼻歌を乗せながら、広げた画用紙に楽しそうに鉛筆を滑らせていた。
この学校で一番仲が良いのは野田さんだけれど、生徒だともしかしたら本庄さんかもしれない。
僕は楽しそうに鉛筆を動かす彼女を横目に見ながら、クラリネットを吹き続けた。
彼女と、もっと仲良くなれたら……。
そう思いながらも、僕は踏み出すことができなかった。
今日は僕から声を掛けてみようか。
何度か教室でそんな案が浮かんだけれど、結局一言も会話しないまま放課後になる。
いつものようにクラリネットを吹いていると、やっぱり本庄さんが来て、僕に声を掛けてくれる。
明るく声を掛けてくれた本庄さんだけれど、今日はいつもと違っていた。
僕のクラリネットの演奏に身体を揺らしてはいるけれど、眉間に深い皺を刻んでいる。
もしかして、今日は僕の演奏が良くないのだろうか。
確かに少し、意識は彼女に向いているかもしれない。
コンクールメンバーを決めるオーディションが近い。
彼女もコンクールに向けて絵を描いている。
僕も少し集中した方が良さそうだ。
うんうん呻る彼女が少し気掛かりだったけれど、僕は目の前の楽譜に向き合うことにした。
それから数日が経っても、本庄さんは眉間に皺を寄せたままだった。
「あ、猫様」
部活終わり。すっかり日の落ちた薄暗い中庭に、真っ白に光る猫様がいた。
実際には光っているわけでもなんでもなくて、ただ校舎から漏れ出る光が、猫様の真っ白な毛に反射して光って見えているだけだ。
「何してるの?」
話し掛けながら撫でてやると、猫様はくすぐったそうに首を動かした。
「ご飯を待ってるのかな」
野田さんもきっとそろそろお仕事が終わりの時間だろう。
帰る前に猫様にご飯をあげると、野田さんから聞いたことがあった。
「待ってな。きっと野田さんすぐに来るから」
猫様を胸に抱えて、僕は花壇に腰掛けた。
「ねえ、猫様」
「ん?」と返事でもしたかのように、猫様は僕を見上げる。
「人と話すって、難しいね」
人と話すのは難しい。
僕は特に口下手だし、きっと表情も他の人よりも分かりにくいと思う。
周りからはミステリアスな人だと思われることが多くて、一人が好きだと思われている。
もちろん一人は好きだけれど、本当はもっとみんなと話してみたい。
クラリネットのパートメンバーだけじゃなくて、吹奏楽部の先輩や後輩、それに、本庄さんとも。
本庄さんは、僕にとって憧れの人だった。
彼女みたいに分け隔てなく気さくに話せたら、どんなに楽しいだろうか。
僕には到底持ち得ないものを、彼女は持っているのだ。
そんな本庄さんが、最近元気が少なそうだった。
「猫様。僕なんかで、誰かを元気付けることが出来るのかな……」
猫様は僕に抱えられながら、何かを懸命に指差すように白いもふもふの手を一心不乱に振っていた。
「え、なに……?」
猫様の視線の先には、自動販売機があった。
「自販機? 喉が渇いたのかな……」
不思議に思っていると、野田さんののんびりした声が聞こえてくる。
「おーい、猫様。おや、佐久間くん。猫様と一緒だったのかい」
「野田さん。猫様、喉が渇いているみたいです」
そう口にすると、猫様は少し怒ったようにぺしっと僕の腕を叩いた。
何が不満だったのか、その時はよく分からなかった。
次の日も、その次の日も、本庄さんはなんだか苦しそうだった。
握った鉛筆を動かすことなく、その手はぎゅっと握られている。
だから僕は心配になって、彼女に声を掛けてみた。すると彼女は漫画みたいにぴょんと飛び跳ねてびっくりしていた。
「本庄さん。えっと、大丈夫? さっきから声掛けてたんだけど……」
「あ、ご、ごめん! ぼうっとしてた!」
本庄さんはあはは、と乾いた笑いを零しながら頬を叩いている。
「……本庄さん、少し無理をしすぎなんじゃないかな」
「え?」
最近の本庄さんは、絵を描くのが楽しくなさそうに見える。
何か、思い悩んでいることがあるのではないだろうか。
「本庄さん。少し、頑張りすぎなんじゃない?」
僕の言葉に、本庄さんはぶんぶんと首を横に振って否定する。
「え、いや、全然っ! 私、全然頑張れてないよっ!? それを言ったら佐久間くんの方が頑張ってるでしょ!」
「あ、いや、そういうことじゃなくて……」
「無理しないでね! ちょっと散歩してくるっ」
本庄さんは慌てて立ち上がると、校舎の中へと駆けて行った。
止める間もなく、ものすごい速さで。
僕は何も言えなかった。
少し、のんびりした方がいいんじゃない?
ただ、そう一言、言いたかっただけなのに。
やっぱり僕なんかじゃ、本庄さんを元気付けるのは難しいのかもしれない。
そう諦めそうになった時、猫様が僕の足元に来ていた。
「猫様。びっくりした……」
猫様は僕を睨み付けると、ふいっと顔を逸らして走り去ってしまう。
その表情が、腰抜け、とでも言いたそうな顔で、僕は内心ドキリとした。
「腰抜け、か……。確かに」
僕はクラリネットを抱えて走り出す。
本庄さんや猫様に比べてかなりの鈍足ではあったけれど、辺りをきょろきょろと見回しながら、彼女の姿を探しながら、校舎内を走った。
途中、自動販売機の近くを通って、昨日の猫様を思い出した。
何か飲みたそうに手を伸ばす猫様を。
「あ……」
僕はそこで悟った。
猫様の言いたいこと。僕に今出来る、唯一のこと。
「猫様って、本当にただの野良猫だったのかな……」
そんなことを思いながら、自動販売機で苺ミルクの紙パックを二つ買った。
本庄さんはそれからすぐに見つかった。
「……ほ、本庄さん……っ!」
情けないことに校舎内を走り回って、酷く疲弊していたせいか上手く声が出なかった。
猫様を撫でていた本庄さんは弾かれたようにこちらを振り返った。驚いたように目を丸くして、僕を見つめる。
「これ」
「え?」
ブレザーのポケットから、先程買ったばかりの苺ミルクを取り出す。
受け取ってくれた本庄さんは、しかし不思議そうに首を捻っていた。
「どうして、私に?」
疑問を口にする彼女の傍にいた猫様が、僕の足元にスッとやって来る。
まるで僕に勇気をくれるかのように。
「本庄さん、ここのところ少し、辛そうだったから」
「え? 辛そう? 私が?」
目をぱちくりさせる彼女は、自分自身のことにまるで気が付いていなかったみたいだ。
「だから、これ」
「これ?」
なんとかして、気持ちを伝えたくて、僕は必死に脳内から言葉を手繰り寄せる。
「……一緒に、のんびりしようと思って」
目をぱちぱちと瞬かせていた本庄さんは、ようやく表情を緩めてくれた。
そうして二人で、苺ミルクで乾杯した。
口に含んだ甘い苺ミルクは喉を通って、胸に優しく沁み込んだ。
「無理しすぎない程度に、時にはゆっくりしながら、頑張るね!」
本庄さんは、何かが吹っ切れたみたいに笑顔になった。
そんな明るい彼女の笑顔につられて、僕もきっと多少口元が緩んでいたと思う。
僕の表情をまじまじと見つめるように、猫様が僕の元にやってくる。
その目は、なんだか笑っているみたいに細められていた。
そんな猫様の頭を無造作に撫でる。
今日やっと一歩を踏み出せた気がする。
これからはもっと人と話してみよう。
何故だか今日はそう思えた。
声を掛けてもらってばかりじゃなく、明日からは僕が本庄さんに声を掛けよう。
彼女は驚くだろうか。
そんな想像を苺ミルクの甘さとともに、ゆっくりと胸の中に閉まった。



