クラリネットの音がする。
私は音楽には詳しくないけれど、その人の吹くクラリネットは、オレンジ色で形にすると丸みたいな柔らかくて温かい感じがする。
目を閉じクラリネットの音に耳を澄ませていた私は、ゆっくりとその目を開ける。
日々少しずつ熱気をはらんでくる春の風が、渡り廊下を吹き抜ける。
クラリネットの音がやんで、私は小脇に挟んでいた画版を抱え直した。
渡り廊下は屋根がなく、西日がこうこうとアスファルトを照らしている。
渡り廊下へと一歩足を踏み出すと、ふんわりとした少し長めの髪を搔き分ける一人の男子生徒が目に入る。
例え遠くにいても、彼のクラリネットの音色はすぐに分かる。
演奏が終わって、何かを楽譜に書き込んでいるらしい彼に、また一歩また一歩と私は足を踏み出した。
大きく息を吸い込んで、いつもより早い鼓動を落ち着かせるように、「よし」と心の中で小さく呟いて彼の背中に声を掛けた。
「やあ! 今日も頑張ってるね!」
私の声に振り返った男子生徒は、特段驚いた様子も見せず淡々と返事をする。
「ああ、本庄さん。こんにちは」
「あ、こ、こんにちは!」
丁寧に挨拶され、私も慌てて頭を下げた。
「さ、佐久間くんは、今日もここで個人練習?」
クラリネットを吹いていた男子生徒、佐久間 涼に向かって少し声が上擦ってしまったけれど、私は平静を装って話し始める。
「うん、そう。ここ、人があまり来ないから」
佐久間くんは抑揚なく答えた。相変わらずクールというか、少し不思議な子だ。
佐久間くんとは今年初めてクラスが一緒になった。吹奏楽部に所属していて、楽器はクラリネット。
佐久間くんを意識したのは、一年生の頃のこと。
私は美術部に所属していて、その活動場所である美術室は音楽室の目の前にある。
当時は名前も知らなかったけれど、廊下で一人楽譜に向き合って練習する姿を時折見ていて、その一生懸命な姿に、気が付けば私は目を奪われていた。
いつも無表情で何を考えているのかよく分からない人だけれど、不思議とその演奏は温かくて私の心を穏やかにしてくれた。
「あの子、知ってる?」
同じ美術部のみつきに尋ねてみると。
「佐久間くんのこと?」
「佐久間くん?」
「佐久間 涼くん。私、同じ中学だったよ。中学の頃から吹奏楽部だった気がするな」
「そうなんだ」
彼の名前を知ったとき。何故だか頬が緩んでしまった。
たかだが名前を知ったくらいで、何がそんなに嬉しかったというのだろうか。
その時分からなかった自分の気持ちは、一年経った今なら嫌と言う程よく分かった。
「本庄さんは、また絵の題材探し?」
佐久間くんは無表情のまま、こてんと首を傾げた。
「うん、そう! コンクールがあるから」
「そうなんだ。僕と一緒だ。吹奏楽部もコンクールがあって、そのコンクールメンバーを決めるオーディションが近々あるんだ」
「え! そうなの! ごめん! そんな大事な時期に時間使っちゃって!」
私がしまったと言う表情を露骨に浮かべると、佐久間くんはくすりと笑った。
「大丈夫。少し根を詰めすぎていたかなって、休憩しようと思っていたところだから。本庄さんと話しているのは楽しいし」
「そ、そう……」
教室では滅多に見せない佐久間くんの笑顔に、私の鼓動がまた早くなる。
私と話すの楽しい、って……!
「あ、あの! えっと……、私もこの近くで絵を描いてもいいかな? 題材がここからだとちょうど良く見えて!」
「え、ここから?」
佐久間くんはきょろきょろと辺りを見回す。
不思議に思うのも当然だ。ここは外廊下で、私達のクラスのある普通教室棟と音楽室や美術室のある特別教室棟の真ん中の渡り廊下だ。当然あるのは校舎だけで、絵の題材になるような目新しいものはなにもなかった。
「僕は別に構わないけど。クラリネットの音、うるさくないかな?」
「全然! 全く! 寧ろ静かだと集中できないタイプだから、音楽あるとすっごく助かる!」
「そう。ならいいけど」
佐久間くんはやっぱり不思議そうにしていたけれど、それからすぐにクラリネットの練習を再開した。
私はほっと胸を撫で下ろしながら、佐久間くんから少し離れた適当な場所に腰を下ろして膝の上に画版を置いた。
そうして真剣にクラリネットを吹く彼の横顔をこっそりスケッチし始めた。
クラリネットの音色が心地いい。
けれどその音を聴くと身が引き締まる思いでもある。
きっと佐久間くんのクラリネットは上手なのだと思う。
以前みつきも、佐久間くんはいつもコンクールメンバーに選ばれている、と言っていた。
私も、美術のコンクールで絶対に入賞したい。
そう強く思う。
美術のコンクールで入賞して、頑張っている佐久間くんの隣に並んでも恥ずかしくないよう、結果を出し続けなくてはならない。
だからこそ、今年のコンクールも、私は絶対に頑張らなくてはいけないのだ。
私は絵を描くことが好きだ。
最初はただ好きで描いていただけの絵だけれど、たまたま描いた絵がコンクールに入賞して、それからコンクールでの入賞を目標に絵を描くようになった。
単純に選ばれることが嬉しかったし、褒められるのが嬉しかったから。
それに、絵を認められるということは、自分さえも認められたような気がして自信が持てたからだ。
賞を取った時、私の存在を認められたみたいで、私はこの世界に必要な人間なんだと、簡単に思うことが出来た。
もちろん別に誰かに認められなきゃ生きられないわけじゃない。
だけど、確実に自己肯定感は上がる。
私は絵が上手い。そしてそれを認められてもいる。それが自分の自信に繋がっていくのだ。
今回のコンクールも同じだ。
入賞して、自分に自信をつけて、彼の隣にいても恥ずかしくない自分にならなくてはならない。
だからこそ、私は頑張らなくてはいけないのだ。
どんな絵ならコンクールに入賞できるのか、どんな絵がいつも選ばれているのか。
私は分析した。
高校生らしく、キラキラした眩しい青春を切り取ったような絵。
泥臭く足掻いて、それでも届かなかったものを追い求める絵。
それこそが、高校の美術コンクールで求められているものだと私は考える。
当然画力も求められるが、題材の評価も大きい。審査員の心揺さぶる絵を描かなくてはならない。
「なんか違うんだよなぁ……」
自分の手元の画用紙を見つめて、私は呟く。
そこにはクラリネットを吹く彼の姿がある。
けれどやはり、どこか違う。
こんな絵では彼にも失礼だし、コンクールの入賞なんて夢のまた夢だ。
「全っ然だめ!」
私は画用紙を引き千切るとくしゃくしゃと丸めてスカートのポケットに突っ込んだ。
画用紙を破った音が気になってしまったのか、演奏をやめた佐久間くんは驚いたように私を見た。
「大丈夫? 上手く描けなかったの?」
「あ、うん……ちょっとね! ごめん、邪魔しちゃって! 私、ちょっと他のとこも見てくる!」
私は慌てて立ち上がると、渡り廊下から校舎に入った。
真剣に練習している彼の邪魔をしてしまうなんて、なんてことをしてしまったのだろう。
彼に追いつきたくて、彼の隣に並びたくて頑張っているのに、これじゃ迷惑になっているだけだ。
もっと、いい絵を描かなくちゃいけないのに。
もっと、頑張らなくちゃいけないのに……!
私は唇を噛みしめながら、校舎を飛び出した。
中庭に行くと、チューリップの花壇の前にもうすっかり見慣れた女子生徒の後ろ姿と、これまたやっぱり見慣れた、真っ白な猫の姿を見つけた。
私は大きく息を吸い込むと、口角を上げて声を掛ける。
「やぁ! みつき、進んでる?」
「わっ、絵美ちゃん」
同じ美術部の柏原 みつきに声を掛けると、彼女は驚いたように私を見上げる。
目の前には、この学校に住み着いてしまった真っ白な野良猫、通称猫様がいた。
私には目もくれず、一心不乱に手をぺろぺろと舐め上げ、毛繕いをしている。
猫って本当に自由きままで羨ましい。
「みつき、もう題材決まった?」
そう話を振ると、みつきは困ったように眉を下げた。
「あ、ううん、実はまだで……。とりあえずチューリップでも描こうかと……」
「ありゃ。猫様描くんじゃないんだ?」
「そうしたかったんだけど、猫様、すぐ動いちゃうから」
「写生には向かないか」
猫なんて題材、少しありがちすぎる気もするし、私は描こうとは思わない。
みつきが気まずそうに私に問い掛ける。
「絵美ちゃんはもう決まったの? 題材」
ぎくっと思いながらも、私は強がって「もちろん!」と大きく頷いた。題材が決まっているっちゃあ決まってはいるけれど、まだ悩んでいる部分も多い。
「今回のコンクール、絶対入賞したいからね! だからみつきも一緒に頑張ろう! 一緒に入賞目指そうよ!」
私の言葉に、みつきはまた困ったように眉を下げた。
みつきはいつもこうだった。
私はみつきのことが好きだし、みつきと一緒にコンクールで入賞したいし、私みたいにコンクールに向かって一緒に走れるライバルになってほしいと思っている。
けれどみつきは勝気な性格ではないせいか、いつも自信なさそうにしている。みつきだって、絵は上手いんだから、絶対頑張れば入賞できるのに。
私はいつもそう思って声を掛けるけれど、みつきは優しく笑い返すだけだ。
「じゃあ、私も描いて来るね!」
そう言って、私はまた校舎に戻る。
頑張らなきゃ!
みつきに一緒に頑張ろうって言ったせいもあるけれど、私は彼の隣に並ぶために頑張らなきゃいけないんだ。
去り際、猫様がこちらに視線を向けていた気がするけれど、きっと気のせいだろう。
次の日も、その次の日も、毎日描き続けているのになんだか納得のいく絵が描けずに数日が過ぎた。
「……さん、本庄さん……?」
「えっ! わっ!?」
名前を呼ばれて思わず顔を上げると、そこには佐久間くんがいて、私の顔を心配そうに覗き込んでいた。
佐久間くんのあまりの近さに思わずドキッと胸が高鳴る。
佐久間くんがクラリネットを練習する渡り廊下で、今日も私は彼をスケッチしていて、でも思ったように描けなくて何が良くないんだろう、頑張らなきゃいけないのにって、スケッチブックを見つめてフリーズしてた。
「えっと、大丈夫? さっきから声掛けてたんだけど……」
「あ、ご、ごめん! ぼうっとしてた!」
ぼうっとしてた時の私の顔、大丈夫だったかな? 変な顔してないよね?
私はしっかりしなきゃ、と頬を強く叩いた。
その様子に佐久間くんがまた心配そうに眉を顰める。
「本庄さん、少し無理をしすぎなんじゃないかな」
「え?」
「最近、ここにぐって皺が寄ってる」
佐久間くんは自身の眉間にその細い指先を当てる。
それを見た私は、慌てて自分の眉間に手を当てて優しく解した。
佐久間くんは椅子に座り直しながら、私に言う。
「本庄さん。少し、頑張りすぎなんじゃない?」
「え、いや、全然っ! 私、全然頑張れてないよっ!? それを言ったら佐久間くんの方が頑張ってるでしょ!」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「無理しないでね!」
「ちょっと散歩してくるっ」と言って、私はその場から逃げ出した。
自分自身が情けなかった。
頑張らなきゃいけないというのに、頑張って追いつかなきゃいけない人に、心配させてしまった。
「だめだめすぎるじゃん……私……」
こんなんじゃ、コンクールの入賞なんてできっこない。
「頑張らなきゃ……って、うわっ!?」
当てもなく歩いていると、気が付かないうちに猫様が私の横を並走していた。
「ね、猫様!? いつからそこにいたの!?」
猫様はこちらをちらりと見上げたけれど、ツンっと再び私の前を歩き出す。
野良猫とは思えない凛とした態度に神々しいほどに真っ白な毛。
このふてぶてしい感じも、やっぱり憎めなくて可愛らしい。
私が歩みを止めると、猫様もそれに気が付いて、私の元へとちょこちょこと歩み寄ってくる。
「今日の猫様、なんだか甘えたさん?」
しゃがんで猫様を撫でていると、何故だかぽつりと私の口から言葉が零れ出した。
「猫様、あのね。私、最近上手く絵が描けないんだ。納得いくものが全然描けない。もっと頑張らなくちゃいけないのに、頑張らなきゃ頑張らなきゃって思う程、全然上手くいかない」
猫様は私の話を聞いているのかいないのか、気持ち良さそうに私に撫でられている。
「私、もっと頑張らなきゃいけないのに。頑張って、佐久間くんの隣にいられるような人にならなくちゃいけないのに」
そう呟いていて、はっとする。
「猫様と遊んでる場合じゃないよ! 私、絵を描かなくちゃいけないんだよ!」
「じゃあね! 猫様!」そう言って立ち上がると、猫様は私の行く手を阻むように、するりするりと足に擦り寄って来る。
「ちょ、ちょっと猫様? 歩けないんですけどっ」
すると猫様はごろんとお腹を見せて横たわった。まるで撫でろ、とでも言うかのように。
「ええ、そんな時間ないんだけど……」
頑張ってコンクールで入賞できるような絵を描かなくてはいけないのに。
でも猫様がこんなに人に甘えるところはあまり見たことがない。
「ううーん……ちょっとだけだよ!」
私は猫様のお腹をわしゃわしゃと撫でてやる。もふもふとした柔らかい真っ白な毛に手が埋まって心地いい。
早く戻りたい気持ちがありながらも、猫様を撫で続けていると。
「……ほ、本庄さん……っ!」
「え?」
後ろから耳心地の良い、優しい声が聞こえてくる。
そこに立っていたのは、クラリネットを抱えた佐久間くんだった。
「え、佐久間くん……? どうしたの? 上で練習していたはずじゃ」
「そう、なんだけど……」
佐久間くんは、しゃがむ私の足元にいる猫様に視線を向ける。
そうして決意したように、こちらにやってきて制服のブレザーのポケットからピンクの四角いものを取り出した。
「これ」
「え?」
受け取ると、それは苺ミルクの紙パックジュースだった。
「えっと? くれるの?」
「うん」
佐久間くんは頷く。相変わらずその表情は全く読めないけれど、きっと気を遣ってくれたんだろうってことは分かる。
「どうして、私に?」
ごろごろと私に撫でられていたはずの猫様は、今度は佐久間くんの足元にするりと擦り寄る。
佐久間くんは一瞬猫様を見てから、私に視線を動かした。
「本庄さん、ここのところ少し、辛そうだったから」
「え? 辛そう? 私が?」
「美術部もコンクールが近いんだよね? もしかしてそれに向けて頑張らなきゃって自分を追い詰め過ぎてるんじゃないかな、って」
佐久間くんの言葉に、私は目を見開いた。
確かに、その通りだった。
毎日毎日頑張らなきゃって。コンクールで入賞して、佐久間くんの隣に並んでも恥ずかしくない自分にならなきゃって。
私はそればっかり考えてた。
知らないうちに、自分を追い詰めていたのかもしれない。
佐久間くんは反対のポケットから、同じように苺ミルクを取り出した。
「だから、これ」
「これ?」
「一緒に、のんびりしようと思って」
佐久間くんの少し照れくさそうな表情を、きっとこのとき、私は初めて見た。
「う、うん……」
私と佐久間くんは苺ミルクの紙パックにストローを挿すと、それをこつんとお互いのものに当てる。
「乾杯」
「か、かんぱい……っ!」
口に含んだ苺ミルクは喉を通って、胸に甘く沁み込んだ。
傍にいる猫様に視線を向けると、猫様は目を細めて私を見ていた。
まるで、ゆっくりしていてよかっただろ? 好きな人との時間を私が作ってやったのだ、とでも言うかのように。
「美味しかったー! ありがとう、佐久間くん!」
「どういたしまして」
「よーし、また頑張るぞーっ!」
私の宣言に、佐久間くんは慌てたように止めに入る。
「本庄さん、だから頑張り過ぎは……」
「分かってるよっ! 無理しすぎない程度に、時にはゆっくりしながら、頑張るね!」
私の言葉にほっとしたのか、佐久間くんはふわっと微笑んだ。



