「にゃーん~! こっち向いて~お願いだよ~……」
目の前にいる真っ白な猫は、私の切実な願いを聞き届けることはなく、ぷいっとそっぽを向いてしまう。
猫はきまぐれ、だなんて言われているけれど、まさに今日の猫様はツンとしていてこちらを見向きもしない。
「今日はご機嫌斜めなのかな……?」
真っ白な猫様は、私のことなどお構いなしに手足をぺろぺろと念入りに舐め上げている。
猫様、というのは、この高校に住み着いている真っ白な猫の愛称だ。
右目は青色、左目は緑色のオッドアイで神々しいほどに真っ白な毛並みを持ち、学校に住み着いてしまった野良猫とは思えない凛とした姿に、生徒達から猫様の愛称で呼ばれている。
朝と夕方、生徒の登校時と下校時には校門前に立ち、生徒を見守るのが日課の猫様。
なんだか生徒指導の先生みたい。
数年前ふらっとやってきた猫様は大層学校が気に入ったようで、生徒だけでなくすっかり教師陣の心まで鷲掴みにし、学校公認の猫となった。今では用務員の野田さんが、基本的なお世話やご飯係を担当してくれているらしい。
私は大きな画版を首から下げ、そんな猫様を見つめる。
花壇の淵に凛と立つ猫様は、やっぱり私が困っていることなんてお構いなしのようで、引き続き毛繕いに夢中だった。
「猫様をモデルにするのは難しいか……」
私、柏原 みつきは、美術部に所属している。
今日はその部活動の一環で、写生の題材を探すために校内をうろうろしていたのだけれど、そこにちょうど猫様を見つけて、せっかくだから描かせてもらおうと猫様に交渉してみた次第。けれどどうやら猫様は、私の写生のモデルになるつもりはないようで、忙しなく毛並みを整えている。
「猫様を題材にするの、良いと思ったのだけど……」
仕方がない。猫様の後ろの花壇に咲いているチューリップでも描こうか。
可愛らしく鮮やかなピンク色を堂々と咲かせているチューリップは、なんだか誰かを見ているようでその眩しさに少し目を細めた。
「やぁ! みつき、進んでる?」
「わっ、絵美ちゃん」
画用紙に鉛筆を立てたところで、後ろから元気な声が降って来る。
まさに彼女のことを考えていたので、私は酷く驚いてしまった。
振り返ると高く結ったポニーテールをふわっと揺らして、本庄 絵美ちゃんはにこっと笑った。
絵美ちゃんは私と同じ美術部の二年生で、副部長を務めている。
大人しい私とは正反対の、明るく元気なムードメーカー的な存在。
「みつき、もう題材決まった?」
「あ、ううん、実はまだで……。とりあえずチューリップでも描こうかと……」
「ありゃ。猫様描くんじゃないんだ?」
相変わらず一生懸命毛繕いをしている猫様を見た絵美ちゃんは、「おー、猫様今日も可愛いねぇ~!」と頭を撫でる。
「そうしたかったんだけど、猫様、すぐ動いちゃうから……」
「写生には向かないか」
絵美ちゃんが苦笑交じりの表情を浮かべる。きっと私も同じような表情をしているだろう。
「絵美ちゃんはもう決まったの? 題材」
私の問い掛けに絵美ちゃんは「もちろん!」と大きく頷く。
「今回のコンクール、絶対入賞したいからね! だからみつきも一緒に頑張ろう! 一緒に入賞目指そうよ!」
「え……。ああ、うん……。そうだね」
今日の写生は、来月行われる高校美術コンクールに出す題材探しも兼ねていた。
「私の名前の隣にみつきの名前も並ぶ。それって最高じゃない!? 私、せっかく美術部に入ったからには、絶対結果を残したいって思ってて! 自分の絵がどこまでやれるのか、試したいんだ!」
絵美ちゃんは空を見上げて、声高らかに目標を語る。
そのやたらとキラキラした瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。
「だからみつきも一緒に頑張ろう! 絶対に、一緒に入賞しようね!」
「う、うん……。頑張ろうね」
絵美ちゃんは「じゃあ、私も描いて来るね!」と慌ただしく走り去って行った。
嵐のような、けれどみんなを照らす太陽のような彼女は、いつだって前を向いていて目標に向かって全力だ。
迷い続けている私なんかとは、大違い。
気が付けば猫様は毛繕いを終えていて、私の顔をじっと見つめていた。
その瞳が私の心の中を見透かしているようで、なんだか居心地が悪かった。
「もしかして描いてもよかったりする……?」
そう問うと、猫様はぴょんと花壇の淵から飛び降りて、さっさとどこかへ行ってしまう。
「あ、行っちゃった……」
絵美ちゃんだけじゃなく、猫様にも置いて行かれたような気がした。
私は絵を描くことが好きだ。
物心ついた頃にはもうとっくにクレヨンを握っていて、スケッチブックにたくさんの絵を描いていた記憶がある。
初めは家の中にある積み木やおもちゃを描いていて、物足りなくなった私は庭の花を描くようになった。
幼稚園の授業でクラスの子を描く課題があったけれど、私はどうにも人物が上手に描けなくて、そもそも人物を描くよりも物や風景を描くのが好きなんだって、その時にはもう自覚していたと思う。
小学校、中学校に上がってもそれは変わらなくて、私はずっと風景画を描いている。
風景を描くのはすごく楽しい。
動かず、ただそこにある静かな景色は、私の心を穏やかにしてくれる。
私は賑やかなものが苦手なのだと思う。
だから静かに風に揺れる花々や、ただそこにある建物。放置された空き缶や、夕暮れの誰もいない公園なんかに心惹かれ、私のスケッチブックはそういうもので溢れ返っていた。
美術部の活動は楽しい。たくさん絵を描ける時間は大好きだから。
でも、コンクールは好きになれない。
入賞のために、好きなものを描くことを、諦めなくてはいけないから。
私の絵はコンクール向きではない。
誰もいないただただ静かな図書室や、打ち捨てられた古い机。食べ欠けてしけったクッキーや水溜まりに落ちてふにゃふにゃになったテスト用紙なんて描いても、当然のように入賞することは出来ない。
色遣いも暗く、明るいものは一つもない。
コンクールというものは、目に見えて綺麗に整っていて高校生ならではのキラキラを求められている気がして、どうにも好きになれなかった。
そんな私なんかと比べて、絵美ちゃんはすごかった。
入部して早々に行われたコンクールであっという間に入賞し、一目置かれる存在となった。
いつも元気でキラキラしていて目標に全力で走っていく姿は、私には到底ないものだ。
絵からも絵美ちゃんの自信やパワフルさが伝わってきて、すごく彼女らしくて力強い。
きっとこういう作品が求められているのだろうなぁ、って絵美ちゃんの絵を見ていると思う。
私の作品は、今年もコンクールに入賞できないだろう。
あんなに絵美ちゃんが一緒に頑張ろうと声を掛けてくれているのに、私だけが入賞できなかったら、絵美ちゃんはがっかりするだろうな……。
約束を破ったって、思われてしまうのだろうか。
翌日の部活動も、コンクールに向けた題材探しと言う名の写生の時間に当てられた。
部員は次々に題材を決め、それに向かって真摯に取り組んでいる。
絵美ちゃんももうすでに題材を決めているようだし、もしかしたら題材が決まっていないのは私だけかもしれない。
焦りながらも私は今日も校舎を歩き回る。
私も、コンクールに入賞できるような作品を描かないと。
中庭にある鯉のいる池に、何故か靴下が沈んでいた。
私はこういうものに心惹かれる。
どうしてこんなところに靴下が? とか、この靴下の持ち主は靴下がなくなってどうやって帰ったんだろう? とか、鯉にとっては迷惑だろうなぁ、とか。
そんな色んな想像をかきたてられるものが好きで、そう言うものをスケッチブックの上に残しておきたいと思う。
けれど、やっぱりそんな題材ではきっとコンクールには入賞できない。
水面は夕陽を受けてキラキラしていたけれど、靴下はドロドロだった。
「こういうのが好きで、描きたいものなんだけどなぁ……」
コンクールに入賞できる絵ってどんな絵なのだろう?
それっぽいキラキラを詰め込んだ絵を描けば、入賞できるのだろうか?
高校生らしい、私らしくもない絵を描けばいいのだろうか?
私は池に沈んだ靴下に目を落とす。
すると池の水面がいきなり波紋を描き始め、一つ、二つと円が増えていく。
ぱっと隣を見ると猫様がいて、その可愛らしい真っ白な手で池の水をちょんちょんと突いていた。
鯉が少し迷惑そうに忙しなく動き始める。
「猫様。鯉がびっくりしちゃうから駄目だよ」
私の声に反応した猫様は、水面から目を離しこちらを一瞥する。
あとには数個の波紋が残って、鯉と波紋。まさに絵になる構図だった。
「こういうキラキラした絵を描けば、私もコンクールで入賞できるのかな……」
そんな私の呟きに反応するように、猫様は池の水をばしゃばしゃと乱雑に引っ掻く。
「猫様っ!? 駄目だよ! 鯉がびっくりしちゃう!」
しかし猫様は先程よりも水を激しく掻き分けた。
どうしよう!? と戸惑いつつも、なんだかその様子が可笑しくて、私は少し笑ってしまう。
猫様によって池の水が掻き乱され、鯉が不満そうに猫様から距離を置く。池のそこにはドロドロになってしまった靴下が沈んでいて、そんな少しコミカルな風景が、私の心を動かした。
やっぱり私は、こういうのが好きだ。
「綺麗な鯉と美しい波紋」よりも、「乱れた水に迷惑そうな鯉と謎の靴下」。
その時ふと思った。
どうして私はコンクールの入賞に固執していたんだろう?
絵美ちゃんに一緒に頑張ろうって言われたから?
頑張らないと絵美ちゃんに呆れられるから?
ううん、そうじゃない。
私はきっと怖かったのだ。
私の絵を否定されるのが。
私の好きを、否定されるのが。
「……猫様、もういいよ。大丈夫、ありがとう」
私の言葉を理解したみたいに、猫様は水を引っ掻くのをやめた。
コンクールで入賞したいのなら、自分を偽ったキラキラしたものを描かなくてはいけない。
私は、ずっとそう思い込んでいた。
「私、描きたいものが決まったよ」
猫様は私の言葉に耳を傾けるように静かにこちらを見つめている。
「私、やっぱり絵は好きなように好きなものを描きたい。綺麗なものじゃなくて、自分が好きだと心動かされたものを描きたい。それが誰にも理解されなくても、入賞なんてできなくてもいい。ただ私は、好きなものを好きに描きたい。それだけなんだ」
コンクールで入賞できなくてもいいなんて、こんなことを言ったら絵美ちゃんに怒られてしまうかもしれない。
でもコンクールだけがすべてじゃない。
私は、ただ絵が好きだから描く。それだけのことだった。
いつかもしかしたら、本気でコンクールに入賞したいって思う時が来るのかもしれない。
だけど、それまではまだ、私は私らしく好きに絵を描こう。
猫様はすっと目を細める。
その表情がなんだか笑っているように見えた。
「それでいいんだよ」って、そう言ってくれているみたいで、私は嬉しくなって猫様の背中を撫でた。
「ありがとう、猫様。私は私のペースで、私の好きを大事に描いてみるよ」
コンクールには入賞できないかもしれない。
でもそれでもいいんだ。
好きで描き続けていたらいつかきっと。
そんな未来もあるかもしれないのだから。
私の言葉に頷くように、猫様は「にゃあ」と小さく鳴いた。
物悲しい夕暮れの橙色を背に、猫様の真っ白な毛並みが神々しく光って見えた。



