レストランを出て、私はひとりで夜道を歩く。頭を冷やす時間が欲しくて、弘也には先に帰ってもらった。食事もワインも台無しになった。せっかく予約してくれた店だったのに、私はなにをしているのだろう。
自己嫌悪に襲われている中、カバンの中のスマホが鳴っていることに気づいた。弘也かもしれないと思ってすぐに確認したら、画面にはまた〝あの番号〟が表示されていた。
父から連絡さえ来なければ、弘也とも喧嘩にはならなかった。全部、全部、お父さんのせいだ。
悔しさで涙を拭い、なかなか終わらない着信に苛立つ。後先も考えずに感情のまま、スマホを投げようとした瞬間――。
「え、嘘でしょう……」
突然、空から雨が降ってきた。通り雨ではなく本降りの大雨で、すれ違う人たちが足早に建物の中や駅のほうへと避難している。私はタクシーに乗り込もうとしたが、なかなか捕まらない。雨から逃れる場所を探して視線を巡らせると、路地奥にぼんやりと灯る小さな店を見つけた。
「雨宿り……喫茶?」
街の片隅にひっそりと佇んでいるような店は、まるで雨雲に隠された秘密の隠れ家のようだった。外からでは中の様子を伺うことはできないけれど、明かりがついているから営業しているはずだ。少しの間だけでもここで雨を凌ごうと思い、私はそっと店のドアを引いた。
チリン、チリン――……。
珈琲のいい香りが漂う店内は、木の温もりが感じられる空間が広がっている。雫を模したランプが雨のくすんだ空気を優しく包み込んでいて、壁にかけられたドイツ製の古時計は、なぜか秒針が止まっていた。不思議で、幻想的で、初めて入った場所なのに妙に心が落ち着く。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
カウンターの奥から声がした。「はい――」と返事をしかけて、言葉を詰まらせる。
こちらを見て微笑んでいたのは、銀灰色の猫だった。猫と言っても身長はすらりと高くて、人間と同じように二足で立っている。優雅な曲線を描く肢体は細くて長く、頭部には先端が丸い耳が付いていて、瞳は鮮やかなエメラルドグリーン色をしていた。
私は、ワインを飲み過ぎて夢でも見ているのだろうか。猫だ、どう考えても、どう見ても。
「カウンター席で、よろしいでしょうか?」
「……え、は、はい」
「では、こちらへ。コートはお預りしますね」
顔を見て帰るのは失礼だと思い、一旦席に腰を下ろした。外の雨音が窓を叩く中、テーブルの中央に置かれたサイフォンコーヒーセットに目が留まった。
ガラス製の器具は、二つの球形の容器が繋がっていて、下の容器からゆっくりと蒸気が立ち上り、上の容器で新鮮なコーヒー粉が香ばしく抽出されている。
コポコポと音を立てて踊る泡。ひとりでに行き来する琥珀色の液体は、まるで雨の宝石みたいだった。
「綺麗……」
「この珈琲は、私の故郷のものです。とても体が温まるので、一杯どうぞ」
「す、すみません、注文もしないで……」
「これはサービスです」
「ありがとうございます。いただきます」
青みがかった磁器のティーカップを両手で包み、一口味わう。軽やかな苦味が心地よく広がり、最後にはほんのりした優しい甘味が後を引いた。
「わっ、すごく美味しい!」
普段から珈琲には目がなく、馴染みの店で豆を買って自宅で挽くこともあるが、今まで飲んだどの珈琲よりも味わい深い。
「お口に合ったようでよかったです」
「あの、失礼かもしれないんですけど、聞いてもいいですか?」
「はい、どうぞ」
「ロシアンブルーですよね?」
「そうです。私はこの雨宿り喫茶のマスターをしているシトレと言います」
「シトレさん。私は大崎です」
シトレさんの装いは、まるで英国紳士そのもの。白いドレスシャツに黒いベストを重ね、襟元にはリボンタイがきゅっと結ばれている。ウエストから足元までを覆うネイビーブルーのエプロンはフォーマルだけど重くなく、喫茶店の柔らかな照明とシトレさんの穏やかな笑顔が相まって、絵本の世界に迷い込んでしまったような気分だ。
「私のことが何者か気になりますか?」
「え、いや、そんなつもりじゃなくて……。すみません、じろじろと見すぎました」
「謝る必要はないですよ。雨に導かれてここにやって来たお客様は、皆さん最初は驚かれますから」
「雨に導かれて……?」
「はい。この雨宿り喫茶は、雨の日にしか開かないのです。もっと言えば、雨さえ降ればどこへでも現われ、雨の匂いがするお客様を私たちの元に導いてくれる」
「雨の匂い、ですか?」
「涙の匂いのことです」
たしかに私は、ここに来る前に泣いていた。だけど、それは雨の匂いなんてロマンチックな名前を付けてもらえるほど綺麗なものじゃない。
「このお店は、シトレさんお一人でやっているんですか?」
「いいえ、スタッフがいます。今日は三匹出勤していますので、ご迷惑じゃなければご挨拶しても?」
「はい、ぜひ!」
「ドリズル、セレイン、アヴェルス」
シトレさんが名前を呼ぶと、店の奥から二足歩行の猫がやってきた。三匹はウェイターの格好をしていて、胸には筆記体で書かれたそれぞれのネームプレートを着けている。
「初めまして。私はラテアート担当をしているドリズルよ。雨宿り喫茶へようこそ!」
とても元気よく話すドリズルさんは、白と茶色の長い毛が特徴的なミヌエット。小柄で円らな瞳が愛らしく、私が癒しを求めて通っている猫カフェの推し猫ちゃんにそっくりだった。
「か、可愛いっ……!」
思わず感想を叫んでしまったが、すぐにハッとする。猫とはいえ、スタッフのドリズルさんにいきなり可愛いだなんて……。
「ごめんなさい。私ってば、失礼なことを……」
「ううん、私は可愛いって思われたくて可愛くしてるから、可愛いって言われるのが一番嬉しい!」
ドリズルさんは、八重歯を見せてにこりと笑ってくれた。出来ることなら抱きしめてもふもふしたい……。
「こんばんは、レディ。僕はスイーツ担当のセレイン。和菓子、洋菓子、生菓子、世界にあるどんなスイーツも作れるよ。レディのお好みはなにかな?」
シャム猫のセレインくんは海外育ちなのか、片膝をついて私の手の甲にキスをした。レディなんて呼ばれたのも、跪かれたのも、生まれて初めてだ。なんだかお姫様にでもなった気分。
「わ、わたしはスコティッシュフォールドの、ア、アヴェルスですっ。ふ、普段はテーブルサービスを担当しています。き、気軽にアヴと呼んでください」
丸い顔と折れ耳が特徴的なアヴちゃんは、少し緊張しやすい性格のようで、それを克服するためにあえてお客さんと接する機会が多いテーブルサービスを任されているみたいだ。
マスターのシトレさん、ドリズルさん、セレインくん、アヴちゃん。みんな個性が際立っていて、本当に夢の中の出来事みたい。シトレさんが淹れてくれた珈琲を再び口に含み、不思議な余韻に浸っているとカバンの中のスマホが鳴った。ドキッとしながらおそるおそる確認すると、弘也からのメッセージだった。
【今どの辺? 千鶴の気持ちが落ち着いたらでいいからまた改めて話し合おう】
代行を使って帰った彼は、もう家に着いているだろう。弘也は優しいから、レストランでの一件は自分に非があると思っているに違いない。あれは完全に私が悪い。だけど、できることなら私はもう父については話したくない。話したら、またきっと心が乱れてしまう。
「ご主人ですか?」
シトレさんに問われて、私は静かに首を横に振る。
「婚約者です。さっきまで一緒だったんですが、ちょっと意見の違いで言い合ってしまいまして」
「それで、泣いていたのですか?」
「……いえ。涙が出たのは、父が理由です」
私は父のことが大好きだった。母がいなくて大変なことも多かったけれど、父が側にいてくれるだけで大丈夫だと思えた。大人になったらたくさん親孝行をして、お酒も一緒に飲んで、いつか孫の顔を見せてあげたい。
私が幸せにしてもらったぶんだけ、父のことを幸せにしたい。そう思っていた自分は、すでに遠い過去にいる。
あんなに父のことが大切だったのに、二十五歳になった自分がこんなふうに心変わりをしているなんて、あの頃は想像もしてなかった。
「家族って難しいよね。私もずいぶん会ってないなー」
「えっ、ドリズルさんも、その、ご家族とは疎遠なんですか?」
「疎遠とは違うけど、猫は生後半年前後になったら、強制的に自立させられるの。私はそうなってから会ってないし、お父さんの顔も覚えてない」
それに共感するようにアヴちゃんも「うちも同じです」と頷いていた。
「僕は定期的に会っていますよ、レディ。猫は自立すると親兄弟を認識できない、なんてよく言いますが、猫は長い間過ごしてきた場所を一生覚えています。『猫は3年の恩を3日で忘れる』ということわざは大嘘です」
セレインくんはソファ席の背もたれに寄りかかり、やれやれという感じで肩をすくめた。
「シトレさんのご家族は?」
「うちも両親との縁はあんまり深くないですね。でも、セレインが言っていたとおり、一生覚えている記憶は少なくありません。大崎さんにも、お父様との忘れられない思い出があるんじゃないですか?」
そう問われて、私は視線を落とした。たしかに父との思い出はあるけれど、それを封じ込めてきたからこそ今日まで生きてこられた。ずっと大切にしたままだったら、どこかで壊れて自分自身がダメになっていただろう。そうなっていたら、今とは違う生活だったかもしれないし、弘也とも出逢えなかったかもしれない。
「いいえ、父との思い出はなにもありません。あ、そういえば、まだお店に入ってなにも注文してませんでしたね。メニューをいただけますか?」
私は冷静に、話を逸らした。弘也とディナーを食べたばかりだけど、後半はほとんど料理の味がしなかったし、ワインもすっかり体から抜けてしまった。
「アヴェルス、メニューを」
「はい」
アヴちゃんが差し出してくれた浅葱色のメニュー表。さらっとした光沢がある表紙の中央には銀の箔押しで傘マークが施され、その下に『Rain Cafe』と表記されている。開いた傘の中にある雨の喫茶店。だから、雨宿り喫茶。なんてお洒落で心惹かれるのだろう。
メニュー表を両手で持って開くと、中には見開きページしかなく、記載されているメニューも一品だけだった。
「あの、これって……」
「はい。現在オーダーできるのは、その一品だけとなっております」
シトレさんのはっきりとした口調を聞いて、この店の看板メニューなのかもしれないと思った。少し前に片倉さんと醤油味しかないこだわりのラーメン屋に行ったことがあるから、さほど驚きはしなかった。
「では、雨粒ナポリタンをお願いします」
「承りました」
シトレさんはそう答えると、すぐに料理の準備に取りかかった。ドリズルさんによると、シトレさんは珈琲だけじゃなく、料理も担当しているらしい。
カウンターに面したキッチンは、開放的なデザインで、私の視線から全てを見渡すことができる。
シトレさんは長いしっぽを揺らしながら素早く食材を切り揃え、熱したフライパンにオリーブオイルを引いた。
そこにウインナー、玉ねぎ、ピーマン、ニンニクを加えて香りを立たせ、250mlほどの水を流し込む。
水が沸騰したらパスタを入れて水分をよく飛ばし、ケチャップ、はちみつ、牛乳を入れてよく混ぜると、あっという間に美味しそうなナポリタンが完成した。
「わあ、いい匂い……!」
私も家でナポリタンを作ることがあるけれど、パスタは鍋で茹でるし、ソースにはコンソメやバターを入れるから、自分とは全く違う作り方だ。
「お待たせしました。雨粒ナポリタンです。仕上げに粉チーズを振らせていただきますね」
シトレさんはステンレス制のチーズグレーターを使い、ナポリタンの上に削りたてのパルミジャーノを振りかけた。すると、ナポリタンが雨粒のように艶やかになり、きらきらと輝いた。
「綺麗ですね……」
あまりの美しさに、うっとりしてしまう。
「冷めないうちに、どうぞ」
「いただきます」
ナポリタンをフォークに巻いて、口まで運ぶ。食べた瞬間に、私はカシャンッとフォークを置いた。
「どうして、この味を……」
――『外食に行こう』
一緒に暮らしていた頃、父には一軒だけ馴染みの洋食屋があった。外観はお世辞でも綺麗とは言えず、立て看板も色褪せている店で、いつもお客さんはひとりかふたりだけ。父は『誰にも知られていない店ほど穴場なんだよ』と言っていて、その洋食屋には私も度々連れていってもらった。
お母さんのお墓参りの帰り。運動会で頑張ったご褒美。クリスマス。私の誕生日。振り返ればいつも洋食屋に行くのは決まって大切な日だった。
色々あるメニューの中で、私とお父さんはいつも同じものを頼んだ。それは、ケチャップ味のナポリタン。その味が、亡き母が作るナポリタンと似ている味だと知ったのは、通い始めてしばらく経ってからのことだった。
『そんなにお母さんの味と同じなの?』
『ああ。沙苗が作るナポリタンは少し甘めだけど、本当に旨かったんだよ』
母の話をする時、父は懐かしさと同時に、いつだって寂しそうな顔をしていた。母の闘病生活の記憶は、私が幼かったせいで曖昧だけど、祖母から聞いた話では、とても辛いものだったらしい。
母を失ってから父は私の前で涙を見せることはなかったが、今振り返れば隠れて泣いていたのだと思う。そんな母の作るナポリタンの味をいつか再現したくて、思い切って洋食屋の亭主に作り方を尋ねたことがあったけれど、残念ながら教えてもらえなかった。
「どうして、この味を知っているんですか?」
私は、シトレさんに問いかける。試行錯誤しながら自分で何度作ってもお母さんの味にならなかったナポリタン。シトレさんが出してくれた『雨粒ナポリタン』は、まさしくあの洋食屋の味だった。
「味のことはわかりませんが、私は注文されたとおりに大崎さんが求めている料理をお出ししただけですよ」
「え……?」
「先ほどお渡ししたメニューの料理は、お客様が開いた瞬間に決まるのです。もっと簡単に言えば、お客様が一番心に残っているメニューしか表示されない。大崎さんにとってこのナポリタンが、思い出の味なのですね」
「……思い出じゃなくて、思い出したくなかった味ですよ」
これを最後に食べた日のことは、今でもよく覚えている。特になにかの節目でもないのに、父が急に外食に行こうと誘ってきた。お母さんの味が恋しくなったのかもしれないと思って、あの日も父と一緒に窓際の席に座って、向かい合わせでナポリタンを食べた。
『お父さん、どうしたの?』
『どうしたって?』
『急に外食するなんて珍しいし、なんだか今日はいつもと様子が違う気がするから』
勉強や友達のことをやたらと質問してくるだけじゃなく、『好きな人はいるのか?』なんて恋の話を聞きたがるなんて、いつものお父さんじゃない。
『べつにいつもどおりだよ。ただ小さいままだと思っていた千鶴が、もうこんなに大きくなったんだなって』
『やだ~。お父さん、年?』
『そうかもな』
まさか、それが最後の会話になるなんて思ってなかった。その翌日、父は失踪した。祖母の家で暮らすようにという置き手紙だけを残して。
「ズルいと思いませんか? 説明もしないで突然いなくなるなんてありえないですよ。まあ、借金で首が回らなくなったなんて娘には言えないか。自分のことでいっぱいいっぱいで、私のことなんて考えてなかったんだと思います」
窓を叩く雨が、さらに強くなる。乱暴に降っている横殴りの雨が、私の心を映しているように乱れていた。
すると、ドリズルさんが「隣に座ってもいいかな?」と聞いてきた。その手には、ふたつのマグカップが握られていて、私の心を落ち着かせるためなのか、猫のラテアートを作ってくれた。
「さっき猫は強制的に自立させられるっていう話をしたけど、それは親からの最大限の愛情なの」
「……じゃあ、うちの父も愛情で私を置いていったってことですか?」
「それはわからない。だけど、私は確かに親の優しさを感じてた。急にひとりになって生きることに苦労したけど、恨むことはなかった。あなたはお父さんを恨んでる?」
雨の音が、うるさい。どうせ置いていくなら、なにも残さずに行けばよかったのに、どうして最後に外食をしようなんて言ったのか。きっとこのナポリタンを食べる日は、私だけじゃなく、父の心の節目でもあったように思う。
残された自分たちはどのように生きていけばいいのか、考えていた日もあったかもしれない。
ナポリタンを美味しそうに食べる私を見ながら、どうやって育てていいか迷っていた日もあったかもしれない。
あの日、最後の日、父はなにを思っていたのだろうか。
「恨んでいます。私をひとりにしたことではなく、父がひとりになることを選んだことにです」
私は、お父さんと一緒にいたかった。離れることを、勝手に決めないでほしかった。
「……本当は、わかっていたんです。父は私のために……お父さんは私を守るために置いていったって、ちゃんとわかっていました」
我慢していた涙が、止めどなく溢れてくる。
〝娘だけは、守っていかなければならない〟
〝この子の幸せだけは、自分が守っていく〟
あの日のお父さんは、そんな瞳をしていた。
気づくと、セレインくんとアヴちゃんも私の近くにいてくれて、ドリズルさんもハンカチを差し出してくれた。
「大崎さん。今日は雨に流すつもりで全てを吐き出してしまいましょう。大丈夫ですよ。猫は聞き上手ですから」
シトレさんの笑顔を見たら、冷えていた心が息を吹き返した。猫は体温が高いとよく言うけれど、ドリズルさんもセレインくんもアヴちゃんも、みんな優しくて温かい。
「私もお父さんを守ってあげたかったんです。でも、なにもできなかった。なにもできないことが悔しくてもどかしくて、早く大人になろうと思いました」
「強く生きてこられたのですね」
「はい。そのために、お父さんはいないものだと思って過ごしてきました。でも……やっぱりダメですね。この十年間、お父さんを忘れた日は一日もありません」
「それを、伝えてみてはどうでしょう?」
「え?」
「十年なんて、まだまだ。ここだけの話、猫はとても長生きなんです。毛皮を変えるために生まれ変わりを望む猫のほうが多いですが、そうではない猫は長生きするにつれて二本足で歩き、人間にも化けられるとか、化けられないとか」
「それって……シトレさんのことですか?」
「ふふ、ご想像にお任せいたします」
もしもそうだとしたら、私よりもうんと人生経験豊富な猫の助言は聞くべきだ。
「シトレさんには今、ご家族はいますか?」
「はい。ドリズル、セレイン、アヴェルス、ここで働くスタッフはみんな私にとっての家族です」
シトレさんの言葉に、三匹が嬉しそうに頷いていた。私は雨粒ナポリタンを、再び食べ始める。涙で少し塩味が増していたけれど、セレインくんが作ってくれた小さなプリンが、それを見事に中和してくれた。
「皆さん、ありがとうございました。食事も飲み物も本当に美味しかったです」
みんなに見送られながら店を出ると、あんなに降っていた雨が嘘みたいにやんでいた。
空気はどこか清々しく、湿った土と草の香りが混じり合って、肺いっぱいに広がっていく。濡れたアスファルトの路面が柔らかな月を反射し、鏡のように煌めいているのを見て、まるで世界が洗濯機の中でぐるぐると回されて綺麗になってしまったみたいに思えた。
「大崎さんの心は、晴れましたか?」
「はい、おかげさまで」
「それなら、よかったです」
「あの、また、来てもいいですか?」
「はい。いつか、雨の匂いがした時に」
私は、手を振りながら歩き出す。路地を抜け、ゆっくりと振り返ると、雨宿り喫茶はもう私の瞳には映らなくなっていた。



