定時が過ぎ、受付や診療室から漏れていた声が少しずつ静まっていく。私――大崎千鶴がスタッフルームで着替えていると、背後から優しく声をかけられた。
「千鶴ちゃん、お疲れ!」
それは同じ職場の先輩であり、歯科衛生士の片倉さんだった。歯科助手の私とは異なる淡いブルーのユニフォームに身を包み、手には明日のアポイント表を持っていた。
「片倉さん、お疲れ様です。今日は子どものフッ素けっこう混みましたね」
「そうなのよ。午前も午後も小さな子が多くて、みんな大泣きだったわ」
「でも、片倉さんは子どものあやし方も上手なのでさすがでした」
「ふふ、だてに三人育ててないからね」
人生の先輩である片倉さんは、高校生、中学生、小学生の娘さんがいて、その豊富な経験と包容力で私のプライベートな悩みも親身に聞いてくれる。
歯科助手としてこの職場で働き始めて三年。順調にスキルを磨いてきた私は、いつか片倉さんのように歯科衛生士の資格を取得することを目標にしていた。
「千鶴ちゃんは今日これからデート?」
マスクで消えてしまったリップをロッカーの鏡で直し、自分へのご褒美として買ったゴールドのピアスを着ける。
「はい。これからディナーなんです」
「いいわね。彼、お役所勤めだっけ?」
「そうですよ。この前、片倉さんの旦那さんに会ったって言ってました」
「退職金の手続きの時かしら? うちの旦那一回りも上だからもう年金生活よ。それに頼って生活はできないから私がバリバリ働かなくちゃ!」
「片倉さん、まだ若いから大丈夫ですよ」
「若いなんて言ってくれるのは千鶴ちゃんだけよ。あ、ごめんね、引き止めちゃって。明日新患のカウンセリングがあるからよろしくね」
「はい。では、お先に失礼します」
マフラーをきゅっと結んで外に出ると、街はクリスマスのイルミネーションで輝いていた。
現在同棲している彼と出逢ったのは、ちょうど今と同じ二年前の冬だった。きっかけはマッチングアプリで、付き合うまでにそんなに時間はかからなかった。
二個上の彼は真面目で優しく、私には勿体ないくらい素敵な人。そんな彼から、先日プロポーズをされた。都内の夜景が見えるホテルで、永遠を意味する108本のバラと一緒に結婚してくださいと言ってくれた。彼の両親もすごくいい人だから、きっとうまくやれると思う。職場環境にも恵まれて、婚約者もいて、涙が出るほど幸せな人生のはずなのに――ひとつだけ心に引っ掛かりがあった。
〝千鶴、元気か?〟
スマホの画面を見ては、ため息が漏れる。つい一週間前、知らない番号から電話がかかってきた。いつもだったら出ないのに、その日はたまたま電話を取ってしまった。電話をしてきたのは、十年前に失踪した父だった。
幼い頃に母を病気で失ってから、私は父と暮らしていた。父はとても不器用な人で、卵をうまく割ることさえできなかった。料理、洗濯、掃除、家事全般は私の役目だったけれど、不自由だと感じたことはなく、父は男手ひとつで、私のことを愛情深く育ててくれた。
そんな日々が突如として終わりを迎えたのは、私が中学三年生の時だ。父が友人の連帯保証人になっていたことで生活は一変。二千万円の借金を肩代わりすることになってしまい、私は祖母の家に預けられた。
祖母は『勉強はできなくてもいいけれど、どこへ行くにも身なりだけはきちんとなさい』と常々言う人で、私がいつもメイクやアクセサリー、洋服で自分のことを綺麗にしているのはその影響が大きい。
祖母の家で生活するようになってから、父は一度も私に会いにこなかった。父のことが恋しくて枕を濡らした夜もあったけれど、成長するにつれて、父はいない人だと思うようになった。母と同じように死んでしまったことにしよう。そうすれば、会えないのは当たり前で、自然と心が前向きになれた。
社会人になって家を出てからも、祖母とは頻繁に会い、年に二回旅行にも行く。彼のことも紹介済みで、来週は一緒に結婚の報告をしにいくつもりだ。
祖母は、きっと喜んでくれるだろう。これからもたくさんおばあちゃん孝行をさせてほしい。私の家族は、祖母だけだ。他にはいないし、いらない。そう思っていた矢先に、父から電話があった。
〝千鶴、元気か?〟
父は当時私に迷惑をかけないように仕方なく祖母に預けたことや、私に申し訳が立たなくて連絡することを躊躇していたこと、現在は借金を全て返済したことなどを一方的に話し始め、私はそれを黙って聞いていた。
『千鶴、会いたい。会って直接謝りたいんだ』
父からそう言われた時、正直な感想は『なにを今さら?』だった。
私は今まで父を心で求めた瞬間が何度もあった。進路で迷った時、真っ先に相談したかった。友達関係で悩んだ時、話を聞いてほしかった。
初めてお給料を貰った時、一緒にご飯を食べに行きたかった。彼と同棲を始めた時、お母さんとはどんな感じだったのか聞きたかった。他にもまだまだ話したかったこと、側にいてほしかったことがあった。
でも、父は寂しい時も嬉しい時も、私の隣にいてくれなかった。それが、全ての答えだ。



