「ただいま戻りました」
 昼下がり、二回目の飯を食べ終えたオレがストーブの前でまったりしていると、通りに面したドアが開く。
 陽二が帰ってきた。
 事務所にひとりでいた茜が、パソコンから顔を上げる。
「おかえりなさい」
 今日は例の遺言書とやらを開封する日。陽二は春雄のじいさんに付き添って裁判所に行っていた。らしい。
 猫のオレは、なんの興味もないが。
「八神さんは?」
「商店街で解散したよ」
 茜はめずらしく陽二に話しかけている。遺言書とやらに興味津々やったからな。
「それで、……どうだった?」
 陽二がコートとマフラーを脱いで、鞄から封筒を一通だけ机の上にだした。
 茜は陽二の机にやってきてそれを覗き込む。そして首を傾げた。
「これ……一通目? これだけ? 二通目は?」
「一通目の遺言書は、先生がおっしゃってた通りの内容だったし、今後の相続手続きに必要だからお預かりしてきた。二通目は、春雄さんがお持ち帰りになったよ」
「二通目は、手続きに必要ないってこと? なにが書いてあったの?」
 茜の問いかけに、陽二はくすりと笑った。
「二通目の遺言書はね、久子さんから春雄さんへのラブレターだったんだよ」
「へ? ラ、ラブレター⁉︎」
 茜が素っ頓狂な声をあげる。
 陽二が笑いながら頷いた。
「久子さんは春雄さんへのあたりがキツかったでしょう? でも本当は、感謝していた、春雄さんを愛してたんだよ。はじめは嫌で嫌で仕方がなかったけど、結婚生活を送るうちに大切な存在になっていった。私と添い遂げくれてありがとう、そんなことが書いてあったな」
 それを聞いて茜は目を丸くしている。
「あのおばあちゃんが?」
「うん。春雄さんはもう泣き笑いで『久子らしいなぁ』とおっしゃってた。甥っ子さんは怒り心頭で帰られたけどね。春雄さんの話では意地っ張りな方みたいだったから、久子さん、最後まで口では言えなかったんだね。でも自筆証書遺言書の検認手続きの仕組みを知って最期に気持ちを伝えようと思われたんだろう」
 アホらし、とオレは思った。
 ほんまに人間というのは変な生き物やな。
 言いたいことがあるんやったら、生きてるうちに言えばいいのに。
 長老のように、なにもかもをオレに言ってから死んだらいいやんか。
 さすがに茜もオレと同じことを考えたんやろう。
「そんな……だけど、亡くなってから伝えたって……」と呟いた。
 その声が、いつもと違っているような気がして、オレは身体を起こして茜を見た。
「まぁ春雄さんには、久子さんの想いは伝わっていたみたいだったけど……それでも言葉にしてもらえたのは嬉しいと泣いておられたよ。言葉にしないと伝わらないこともあるからね」
 陽二の言葉に茜は黙り込み、うつむいた。
 家猫家猫、世間知らずとカアコにバカにされているオレでも、今茜がなにを考えてるかわかった。
 自分に重ねてるんだろう。
 好きな相手に好きと言えずに、ついつい嫌な態度をとってしまう。素直な想いを伝えられない今の自分に。
 いずれは自分も、遺言書でないと愛してると言えなかった久子とやらのようになるのではないか、と考えているのかもしれない。
「僕まで胸があたたかくなったよ。……この事務所の最後の仕事が春雄さんの仕事でよかったよ」
『最後』という言葉に反応して茜が弾かれたように顔を上げた。切羽詰まったその表情に、陽二が首を傾げる。
「茜ちゃん、どうかした?」
 けれどそれには答えずに、物言いたげに陽二を見つめている。
 がんばれ!!と、オレは思った。
 毎日毎日悩んどったやないか。言うんや! 今の自分の本当の気持ちを。
 そやないと、ほんまにこれが最後になってしまうで!
「……ようちゃん、私……!」
 ようやく茜が口にした言葉に、陽二が目を見開いた。
 茜が陽二をその呼び方で呼ぶのは、ここにきてからはじめてやからや。
 そしてオレはついにこの時がきたと期待した。
 茜、言うんか? 言うんやな?
 ついに……!!!
「な、なんでもない……」
 おいー……。なんやねん。
 ここまで来ると、意地っ張りというよりは、意気地なしやな……。
 オレはがっくり肩を落とすが、ただならぬ様子の茜に、陽二が問いかける。
「なんでもない……って感じじゃないけど。なにか言いたいことがあるなら聞くよ?」
「な、なんでもないのよ。なんでもないなんでもない」
 なんでもないことないくせに、なんでもないを繰り返す茜に、オレはだんだんイライラしてくる。
「本当に、なんでもなくて……」
 そしてついにブチンと堪忍袋の尾が切れた。
 むくりと起き上がり、椅子から思い切りジャンプ。
 椅子の肘置き、机、それから本棚、次々に飛び乗る。
 目指すは、できそこないの子分!
 お前。
 ええか。
 げんに。
 せーーーーよ!!
 茜の背中目掛けて大ジャンプ。
 ドンっ!と、思い切り、オレサマスペシャルハイパーキックを決めてやった。
「きゃあ!」
 茜が声をあげて、陽二の方に倒れ込む。それを陽二が受け止めた。
「茜ちゃん! 大丈夫!?」
「だ、大丈夫……でも、なに?」
 わけがわからないままに、ふたり言葉を交わし目を合わせてハッとする。
 倒れ込んだ拍子に抱き合っていることに気がついて真っ赤になった。
「あっ、こ、これは、ごめっ……!」
 陽二が慌てて離れようとしたその時。
「あ、茜ちゃん!?」
 茜が陽二にぎゅっと抱きついた。
「辞めないで!」
「…………え?」
「わかってる! 私にこんなこと言う資格はないのは。でも、私……ようちゃんが……ようちゃんのことが、好きだから、ここで一緒に働きたいの。ずっと前、ようちゃんが告白してくれた時、嫌なこと言ってごめん。あのあと、私、自分の気持ちに気がついたの。……だけど、言えなくて……今さらなのはわかってるけど」
 なんや言い出したらすらすらと言葉が出てくるやんか。
 オレは心の中で、拍手喝采していた。
 はーやれやれ、これで一件落着や。あとは陽二が自分の気持ちを…………て、なんや陽二。なに固まってんねん。
 茜に抱きつかれた陽二はもうキャパオーバーだとでもいうように、赤い顔で目を見開いている。
 目の前のことを現実だと受け止められていないみたいや。
 その反応に、茜が不安そうに顔を上げた。
「……今さらだよね。本当に、ごめん」
 そう言って陽二から離れようとする。
 ……ほんっとうに世話のやけるやつらやな!!
 しゃーないからオレはもう一度さっきと同じ経路でジャンプを決める。
 ただし、今度の標的は陽二。
 こら!
 さっさと。
 返事。
 せんかーーーい!
「いてっ!」
 オレの後ろ足は見事に陽二の頭に命中し、ようやくやつは我に返った。
 驚き離れようとする茜を抱き寄せる。
「い、今さらなんかじゃないよ!」
「……ようちゃん?」
「ぼ、僕はずっと……ずっと茜ちゃんのことが好きだった! だからおじさんに誘われた時、この事務所で働くと決めたんだ」
「ようちゃん……本当に?」
「本当だよ。茜ちゃんに迷惑がられるかもしれないのはわかってたけど、せめて友達に戻るだけでもしたくて……。だって俺は、小さい頃からずっと茜ちゃんだけだったから」
 ……やれやれようやく言いよった。
 二回も大ジャンプさせられて、オレはもうぐったりやで。
 ストーブの前の椅子に戻り、ぴったりとくっつく子分と子分見習いに背を向けた。
「茜ちゃん、僕、夢みたいだ」
「私も。絶対にもう遅いって思ってたから」
 ぼそぼそ話すふたりの会話を聞きながら、丸くなって目を閉じた。