親父と茜の仕事場に、珍しく客が来たのは、寒くなってきたある日のことだった。
 いつものようにオレが机の上で日向ぼっこをしていると、親父が陽二に話しかける。
「陽二くん、もう少ししたら相談のお客さんがみえるから、陽二くんも同席してくれるかな。商店街の駄菓子屋さんの八神春雄さん」
「わかりました。どのようなご相談ですか?」
「先日奥さんの久子さんが亡くなられたでしょう。遺言書を遺されたから持ってくるんだよ」
 そんな話をしていると、ドアが開いて男がふたり入ってきた。
「こんにちは、安江先生」
「ああ、八神さん。いらっしゃい。どうぞどうぞ」
 親父と陽二が立ち上がり、ふたりをオレがいる応接コーナーに連れてくる。
「クロ、お客さんだから悪いけど少し向こうにいっててくれるかな?」
 その問いかけに、オレはむむっとなった。
 なんでやねん。ここはオレの場所やのに。
「ああ、この子が噂の所長ですか?」
 ふたり組のひとり、年寄りの方が目を細めてオレを見た。
「かまいませんよ、僕は猫が好きだから。むしろ所長にも聞いてほしいなぁ、僕の相談」
「ははは、そうですか。じゃあまぁ、どうぞお座りください」
 にこにこする八神に比べてもうひとりの男は不機嫌そうにオレを見る。こっちは八神よりは若い。親父と同じくらいやろか。
「八神さん、紹介します。彼は新しい司法書士の藤岡陽二くん。ご存知だと思いますが、商店街のフジオカクリーニング店の息子さん」
「よろしくお願いします」
 陽二が机越しに、小さな紙をふたりに渡した。
「もちろん知ってるよ。陽二くん、大きくなったねえ。試験一発で受かったんだって? 感心するよ。ご両親も喜んでるだろう」
「ありがとうございます」
 八神と陽二がニコニコ喋っているところへ茜が茶を運んできて、相談とらやらがはじまった。
「先生、今日はよろしくお願いします。甥も同席させてもらいます。あのまずはこれを。あの時の久子の遺言書です。先生のご忠告どおり封は開けていません」
 まずは八神が机の上に白い封筒を出す。
 封筒には『遺言書』と書いてある。受けとった親父が裏返すと『令和七年七月八日 八神久子』とあった。
 ……まぁ、猫のオレにはなんのこっちゃわからんが。
 すると甥だと紹介された不機嫌おっさんが口を開いた。
「なんで開けたらダメなんですか? 僕は甥だから相続人なんですけど。早く中身を確認したい」
「そういう決まりなんですよ。お亡くなりになった方の最後の意思が書かれてある遺言書は相続人全員を裁判所に集めて裁判官が開ける決まりです。これを検認手続きと言いますが、手続きしないで勝手に開けると罰金がかかりますよ」
 親父の説明に、甥は「めんどくさいな」と呟いた。
 なんや失礼なやつやな。
「でもなにが書いてあるのか、先生は知ってるんでしょう? 春雄おじさんの話では、久子おばさんが遺言を書いて封をするところに同席していたらしいし」
「はい。ですがここで内容をお話ししません。どうせ開ければわかりますし」
 不機嫌おっさんはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「まぁいいですが。叔父さん、もうひとつあるんでしょう? 早く出してよ」
「……もうひとつ?」
 親父が首を傾げると、八神がまた白い封筒を出した。
「先生、実はもうひとつ遺言書が見つかったんですよ……」
 これには親父は驚いたようで、眉を寄せている。
 白い封筒にはさっきと同じように『遺言書』、そして裏には『令和七年七月九日 八神久子』と書いてあった。
「これは……。では久子さんは私が立ち会って遺言を書かれた次の日に、もう一回書かれたということですか。このことは八神さんは?」
「知りませんでした。亡くなったあと妻の病室を片付けていたら引き出しから出てきまして。驚いた次第です」
「…………そうですか」
 親父が何やら難しい表情になった。
「ちなみに、内容に心あたりは?」
「ありません。先生に立ち会ってもらって、遺言を書いた後、妻は『これで死ぬ前にやることは終わりだね』と言っていました。まさかその後にもう一枚遺言書を書いているとは思わなくて」
 なぜかしばらくシーンとなる。オレを挟んで、繰り広げられるやり取りは、猫のオレには興味はない。退屈すぎてあくびが出た。早く終わらんかな。
「まあなんにせよ、開けなくては始まりませんから。検認の手続きをしましょう。裁判所への書類をこちらで作らせてもらうということでよろしいでしょうか?」
「はい、先生。よろしくお願いします」
 八神と甥は帰っていった。
 ドアが閉まると、親父が口を開いた。
「驚いたね。まさか遺言書が二通あるなんて。陽二くん、春雄さんとは顔見知りだったんだね」
「はい。あの駄菓子屋には小さい頃よく買いに行きましたし。茜ちゃん……とも一緒に。春雄さんは優しくて好きでした」
 陽二の言葉に、親父が茜を振り返る。茜は「う、うん。おじいちゃん優しかった」と答えた。
 普通にしようとしているがやっぱりどこかぎこちない。
「久子さんは今年の春にご病気が見つかってね。……治療も難しいということで、亡くなった後の財産のことについて相談を受けたんだよ」
 陽二に説明をする親父の話を茶を片付けながら茜も聞いている。
「本当なら、公正証書でやるのがいいんだけど、もう入院されていて時間もあまりなかったし、有効な遺言になるように僕が立ち会いさせてもらったんだ。自筆証書遺言は、書き方の形式が法律でかっちり決まってるし」
「内容についてもアドバイスされたんですか?」
 陽二が尋ねると、親父は頷いた。
「うん。財産はあの駄菓子屋の土地と建物と貯金。そんなにたくさんではないけど、ご夫婦にはお子さんがいないからね。このままだとあの甥っ子さんにも財産がいってしまう。それは望まないとのことだったから、遺言ですべての財産を春雄さんへ相続させると書いた方がいいと、僕はアドバイスしたんだ」
「……さっきのおじさん、感じ悪かったもんね」
 茜が、嫌そうに言った。
 さすが子分、オレと同じ意見やな。
「生前ほとんど交流がなかったみたいだし、揉めるのは目に見えてると言っていたから」
「でもその久子さん? おばあちゃんの方も私はあんまり印象よくないけど。お菓子買いに行くとおじいちゃんはニコニコしてるんだけど、おばあちゃんの方は店の中でしゃべるなとかお菓子に触るなとかうるさかった。おじいちゃんに対しても、『ノロマ』とか『あんたは引っ込んどけ』とか言葉が悪かったのを覚えてる」
 茜が顔をしかめる。
 陽二が同意した。
「商店街でも久子さんの春雄さんへのあたりのキツさは有名でしたよね」
 親父が頷いた。
「うん、あのご夫婦はちょっと特殊なんだ」
「特殊?」
「久子さんのご実家はね、もとはこのあたりでも一番大きな仏壇屋さんだったんだ。久子さんはお嬢さまでね。春雄さんはもとは従業員だった方でご養子なんだ。久子さんのお父さんが人柄を見込んで結婚させると決めたらしいが、それを久子さんは嫌がってね、当時は別に恋人がいたらしい。で、駆け落ちするしないの騒ぎになって」
「ええ? あのおばあちゃんが⁉︎」
 茜が素っ頓狂な声を出した。
「結局連れ戻されて春雄さんと結婚したわけだが、もともと従業員だったということもあってちょっと言葉がきつかったんだな」
「なにそれ感じわる」
 茜が呟き、陽二が尋ねる。
「それで、どうして今は駄菓子屋をやってるのですか?」
「ふたりが結婚してしばらくして、その父親が亡くなって仏壇屋はダメになってね。事業は畳んだんだ。久子さんの兄があらかた財産を持っていったと言ってたかな。久子さん夫婦には、あの駄菓子屋の土地と建物だけが残されたというわけだ。その財産を持っていった兄の息子がさっきの甥っ子さん。そのお兄さんはもう亡くなってるから、法律上は彼が久子さんの相続人なんだよ」
「……なるほど」
 陽二が考え込んだ。
「あの方と、春雄さんが話し合うとなればうまくいかないかもしれませんね」
「うん、最悪、土地も建物も取られてしまうかもしれない。それを久子さんは心配されてね。お父さんの時に苦い思いをしてるからね」
「で、遺言書を書いた」
 陽二が、机に置かれた二通の封筒を見た。
「問題は、なぜ久子さんが次の日にもう一度遺言書を書いたのかということだ」
「……なにが書かれてるんでしょう」
 なにやら深刻な表情のふたりに茜が首を傾げる。
「でもなんでもよくない? だって久子さんが"全財産を春雄さんへ相続させる"って書いたところをお父さんは見たんでしょ?」
「それがそうとも限らないんだよ」
 陽二が、重々しく答えた。
「遺言書っていうのは日付が大事なんだ。亡くなった方のなるべく最後の意思を実現するという趣旨のものだから、後のものが有効になる。つまり二通目の遺言書に『昨日書いた遺言は破棄します』と書いてあれば、一通目の遺言書の効力はなくなってしまう」
「ええ? そうなの? ……もしそうなったらどうなるの?」
「原則通り、あの甥っ子さんと春雄さんで財産を分けることになるね」
 再びその場がシーンとなる。
 猫には難しすぎる話に、退屈すぎてオレはふわああとあくびをする。
 なんでもいいがオレは寝たい。話ならあっちでやってくれんかな。
「まあそんなことは考えにくいけどな。遺言を書きたいと言い出したのは久子さんだし」
「でもあのおばあちゃん、本当におじいちゃんこと、雑に扱ってたよね。正直言って意地悪だった。……私は心配」
 茜は心配になってきたようだ。
「お父さん、本当に中身に心あたりないの? 一通目の遺言書を書くときになにか言ってなかった?」と、親父を問い詰めた。
「心あたりなんて……でもそうだな……」
 親父が考え込んで、何かを思い出したように顔を上げた。
「あの時、久子さんから、検認手続きについて聞かれたな」
「検認?」
「うん、遺言書は勝手に開けたらいけない。開けたら罰金だということを僕が説明してたら、そこに興味があったようで、詳しく何回も確認されて」
「……その時に、二通目を書こうと決意されたのかもしれませんね。万が一亡くなる前に遺言書を見られても、開けられる心配はないわけですから」
「なによそれ、じゃあ生きてるうちに見られて困るようなことを書いたってわけ?」
 茜が不機嫌に言い、陽二が慌てる。
「いや、俺はそうじゃないかなと思っただけで」
「まあ、内容についてあれこれ言ってもはじまらないよ。二か月後にはわかるから。陽二くん検認手続きははじめてだろう? 担当してくれるかな」
 親父の言葉に、陽二が「はい」と答えてやっと解散になる。
 やれやれやで。
 なんやただ死ぬだけでもややこしいな人間は。
 長老みたいにさらっと死んだらええやんか。
 やっと静かになったテーブルで、オレは呆れて目を閉じた。