こんな乱暴者が飼い主なんて絶対に嫌やと思いながらも抵抗するほどの体力もなく、連れてかえられたのが、この家やったというわけや。
 クロという変な名前まで付けられて、最悪やと思ったが、茜ははじめほど乱暴でもなく、弱っていたオレの面倒を熱心にみた。生意気なのは変わらんかったが、それはそのうち慣れたし、オレの面倒をみる時の手つきは意外と優しかった。
 もうペットボトルをぶつけられることもなかったし、親父もなかなかいいやつやった。
 あったかい寝床と飯があるなら、ここにおってやっていいという気分になって、あれからずっとここにおる。
 
「さあて、そろそろ仕事の時間だな」
 親父の声でオレはパチっと目が覚める。
 昔を思い出してるうちに、いつのまにかふたりとも飯を食べ終えていたようだ。
 朝飯のあとは、ふたりとも隣の部屋へ移動する。そこで『仕事』をするらしい。
 人間は仕事というものをするというのを知ったのは、この家に来てからや。
 仕事をせんと、オレに飯をやれんくなるとかなんとか。
 ほんまかいな?と思うけど、それならせっせと働けよと言うために、オレはふたりについていく。ぴょんと『お母さん』から飛び降りる。
「ははは、クロも出勤だな。一緒に働いてくれて心強いよ。クロはうちの『所長』だからね」
 あほか、オレが仕事をするわけあるか。
 子分たちがオレのためにちゃんと仕事をしてるかを見はるんや。
「お父さん、クロが所長だって商店街の人たちに言って回ってるでしょ。所長は元気?って言われても、どっちのことかわからないんだけど」
 隣の部屋には、机と椅子と本とパソコンがある。
 茜が外へ続くドアを開けて、ガラガラとシャッターを上げると、大きなガラスから日の光が差し込んだ。
 入り込む清々しい空気に、甘い匂いが少し混じる。
 ふんふんふん、これは金木犀の匂いやな?
 箒を持って外へ出る茜と一緒にオレも出る。家の中は、これ以上ないくらい快適やが、やっぱり外も気持ちがいい。
 ガラスにはでっかい字で『安江司法書士事務所』と書いてあるが、猫のオレにはなんのこっちゃわからない。
 通りすがりの人間が「茜ちゃんおはよう」と声をかけてきた。
「おはようございます」
「この間はありがとうございました。安江先生によろしくね」
「はい、こちらこそありがとうございました」
「家の庭で柿がたくさん採れたんだけど、もらってくれるかしら」
「わぁ、ありがとうございます」
 安江先生と呼ばれているのが、どうやら親父のことらしい。
 親父は司法書士、茜は事務員さん。
 まぁ、猫のオレには関係のないことやけど。
 出会った頃とは違い、もう茜の髪は金色じゃない。オレと同じ黒色で乱暴な言い方もオレ以外にはせんようになった。むしろニコニコして気持ちが悪いくらいや。
 親父は『大人になったな、茜は』と喜んでいるが、どういうことかはよくわからん。
「クロ、ドア閉めるよ」
 声をかけられて、素直に部屋の中へ戻る。
 日が差し込む窓際の大きなテーブルの上にごろりと寝そべりあくびをする。人間があくせく働いてる間は、ここがオレの定位置や。
「あ、もうクロ。そこはお客さんとお話しする場所なのに」
 茜にジロリと睨まれるが、無視を決め込む。
「いいじゃないか、応接なんて滅多に使わないんだから。それより、今日はようちゃんの初出勤だけど、名刺とかの準備はしてある?」
「……してあるよ」
「パソコンは?」
「……そっちのやつ」
 不機嫌丸出しの茜の受け答えに、また寝かけようとしていたオレは「ん?」となる。
 なんや、茜、珍しく歯切れが悪い受け答えやな。
 親父も同じことを思ったのか「まだ反対してるのか。ようちゃんを雇うことにしたこと」と問いかけた。
「べつに反対はしてないよ。私には司法書士の資格はないわけだし、資格がある人に来てもらうのが事務所にとっていいのはわかってる。でもなんでようちゃんだったのかなーって」
 またこの話か、とオレは思う。
 なぜならここしばらく、ふたりはこの話を何回も繰り返しているから。
「同じ町内で小さい頃から知ってる子が資格をとったのだから来てほしいと思うのは当たり前じゃないか? お父さんももういい歳だし、あとを継いでくれたら嬉しいなぁと思ったんだけど」
「……それは、わかってるけど」
「お前とも幼なじみなんだから。全然知らない人がくるより働きやすいと思ったんだけどなぁ」
「…………逆」
「え? なに」
「なにもない」
 全然なにもないことない感じで言って、会話が終わる。
 なんやこれ?と、オレは寝そべりながら首を傾げた。
 これまでのやり取りで、猫のオレにわかるのは、"ようちゃん"という人間が今日からここで働くこと。
 そしてそれを茜は、嬉しいと思っていないこと。
「難しいなぁ」
 親父のぼやきを聞きながら、オレが目を閉じようとした時。
「おはようございます」
 通りに面したドアが開いて、若い男が入ってくる。
 親父が立ち上がった。
「ようちゃん、おはよう」
「今日からよろしくお願いします!」
 古ぼけたこの事務所に似つかわしくない張りのある声にオレの耳がピンと立った。
 こいつが例の"ようちゃん"か。
 思わず茜の方を見ると、無表情になってパソコンをじっと見ていた。
 まるで男が入ってきたのに気がついてないみたいやけど、こんな小さな事務所で、いくらなんでもそれはない。
 ん?
 ていうか今気がついたけど、『ようちゃん』って、なんかもっと昔に聞いたことがあるような……?
「こちらこそよろしく。親子でやってるこんな小さい事務所に君みたいな若い子が来てくれるなんてありがたいよ」
「そんな、僕の方こそ、おじさん……いえ、先生のところで働けるなら安心です」
「ははは、おじさんのままでいいよ。小さい頃から知ってるんだし」
「いえ、ケジメはつけたいので」
「じゃあ僕も陽二くんとあらためるよ」
「はい。あ、所長の方がいいですか?」
「いや、『先生』の方がいいかな? ここの所長はクロだから……ほら応接で寝てる」
 そう言われて"ようちゃん"こと陽二と呼ばれた男はオレを見る。そして笑顔になった。
「君か、安江事務所の所長さんは。商店街でも噂になってたよ。先生より貫禄があるって。先生、所長に触ってもいいですか?」
「どうかな? 僕と茜が触るのは全然嫌がらないけどね。茜、どう思う?」
 親父の言葉に、陽二はちらりと茜を見る。
 が、茜は相変わらずパソコンをガン見して、なにや熱心にパチパチとキーボードを叩いている。朝っぱらからあんなに熱心に仕事してることなんかないのに。
「茜、挨拶をしなさい」
 親父にやや強めに言われて、茜はパチパチをやめる。
 そして立ち上がり無表情で頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。いろいろ教えてください」
 陽二が答えるやいなや座って、またパチパチとし出した。
 親父がはーっとため息をついた。
「ごめんね、陽二くん。茜、ちょっと緊張してるみたいだ。この事務所に家族以外の職員が入るのは初めてだから。妻が亡くなるまでは、妻が事務をしてくれてたので」
「大丈夫です」
 陽二は穏やかに微笑んではいる。
 無害そうに見えるが、オレの警戒心はマックスになった。
 茜がここまで愛想が悪いのは珍しいからだ。
 こんなに嫌がるのだから、この男きっと曲者なんやろう。
 茜の反応を陽二は特に気にする様子もなく、オレの方を見てにっこり笑った。
「所長、よろしくお願いします」
 ふん、そんな笑顔に騙されるか。
 オレはこう見えても子分を大切にするいいご主人さまなんや。
 茜の敵はオレの敵、所長としてはここでお前が働くことを許すわけには……ん?
 ていうか、なんかお前、どっかで見たことがあるような……。
「なんかクロ珍しく警戒してるね」
「じゃあ今日は触らせてもらえなさそうですね。残念だな、僕、猫大好きなのに」
 しゅんとして下がった眉を見てオレはピカーン!とひらめいた。
 オレこいつ知ってるわ。
 オレがヤンキーを探してた公園で、茜と喧嘩してたやつや!