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また舞台に出るなんて、自分の実力じゃ有り得ない。
巽に入団を勧められた時はそう思っていたのに、せっかく来たのだからと舞台を見てしまったら、気づけば入団オーディションのチラシを貰っている自分がいた。
若い劇団員の姿に昔の自分を重ね、もう一度あの場所に立てたらと、あの頃のように、ひたむきに夢を追いかけられる自分に戻れたらと思ってしまった。
劇団を辞めて五年、気づけば三十路も過ぎ数年、何を今更夢見てるんだとせせら笑う自分が居る。捨てきれない夢を選べないのは、結局、怖いからだ。溜め息をついてやり過ごす日常すら、慣れてしまえば変えてしまうのは怖い。
何を今更と笑われやしないか、自分なんて誰にも注目されていないのに、そんな不安が頭を過る。
「…結局、私はどうなりたいんだろう」
その後はまっすぐ自宅に帰り、食事をしてお風呂に入って、寝仕度を整えたが、今夜も眠れそうにない。佳世は、夜風にでも当たって気分を変えようと、ベランダの戸を開けて座り込んだ。
今日は、あの猫、来てたのかな。
思い浮かべるのは、やはり背中に傷を負った黒猫の事。あの猫を気にしてしまうのも、あの瞳の色が巽を思い起こさせるからだ。
黒猫を思い浮かべれば、巽が現れ、結局頭の中は、劇団と巽の事でいっぱいになる。
現実的に考えれば、夢を追いかけるよりも、ちゃんと仕事に就いて、未来を考えるのが大事なのかもしれない。親には、結婚は考えているのかとせっつかれている、それを思えば、また深い溜め息がこぼれそうだ。
結局、何も選べないで宙ぶらりんのまま、時間だけが過ぎている。そんな、くよくよして情けない自分が嫌なのに、どうしてこうも足踏みを繰り返してしまうのだろう。
「…あ、」
悩みの沼に沈み込んでいると、ベランダの片隅に、何か黒い影が動くのが見えた。一瞬、それが何か分からず、佳世はびくりと肩を跳ねさせたが、よく見ると、ゆらりと揺らめく細い尻尾が見えた。それがゆっくり近づいてくると、佳世はほっとして肩の力を抜いた。夜の街は明るい。自室から漏れ出る明かりもあるが、近くの街灯や向かいのマンションの廊下にも明かりが煌々として、その黒い影の正体はよく見えた。ベランダにやって来たのは、あの黒猫だった。
「こんばんは」
声を掛けた所で、猫が返事をする筈もないが、落ち込む佳世にとっては黒猫が慰めに来てくれたような気がして、声を掛けずにいられなかった。
すぐにどこかへ行ってしまうかと思ったが、黒猫は佳世の顔をちらりと見上げ、それからその場に腰を落とした。今夜はこの場に少し留まるようだ、それが佳世の心をまた慰めて、ベランダに出していたサンダルをちょこちょこ動かしてみると、黒猫はそれに反応して、可愛い前足をちょんちょんと出してきた。
愛らしい姿に自然と頬が緩めば、胸のもやもやがつい口から出てしまった。
「…今から夢を叶えたいなんて、遅すぎるよね」
どう思う、なんて尋ねてみる。猫は喋らない、当然だ。ただ、誰かに話を聞いてもらいたかった。自分ではもう何を選べば良いのか分からなくて、頭の中を整理したいと思うのに、こんな時に頼れる人もいない。
「遅くはないんじゃないか?」
「え?」
自分は随分寂しい人間なんだなと、先程とはまた違う問題に落ち込んでいると、思いがけずに返事が聞こえた。佳世は、ぱちぱちと目を瞬いて、それからゾッとして勢いよく部屋の中を振り返った。そして、注意深く部屋の中を見回すが、当然人の気配はない。佳世は一人暮らしだ。
「…気のせいか」
空耳だろうか、そうでなければ不審者と対峙する事態だ。
誰もいない事にほっとしたが、そんな都合の良い幻聴が聞こえるほど、自分は追い詰められていたのだろうか。自分で自分を追い込んでいては世話ないなと、部屋の中をぼんやり見つめていると、「どこ向いてるんだ」と、再び声がした。
「…え、」
また、空耳だろうか。しかし、二度も同じような事が起きるだろうか。
その時、夜風が冷たく佳世の首筋を撫で、佳世は身震いをして肩を竦めた。
まさか、まさかとは思うけど、幽霊とかじゃないよね…。
「おい、聞いているのか?」
「す、すみません!祟らないで…!」
再びの声に、佳世はいよいよ飛び上がり、ベランダに向かって土下座をする勢いで顔を伏せた。今の声は、間違いなくベランダから聞こえた。幻聴なんかではない、しっかりとした男性の声だった。人生に行き詰まった上、幽霊に祟られでもしたら本当に立ち直れない。
「君、何を勘違いしているんだ。どうして僕が人を祟るんだ」
溜め息混じりの声は温度感を持ち、佳世は恐る恐る顔を上げた。この世のものではないなら、もっと悪寒を感じるとか、精神に入り込まれるようなイメージを持っていたのだが、その声は、それとは違うもののように思えた。それはそれで恐怖だが、今の佳世はそこまで頭が回らない。
そして顔を上げた先、佳世の思考は完全に停止した。
そこに居たのは、先程の黒猫だった。きちんとお座りをして、その瞳は佳世を見げている。

