そこには、すらりと背の高い青年がいた。彼のたれ目がちの瞳が驚いたように見開かれ、その瞳を見た途端、佳世(かよ)の胸はどきりと跳ねた。
南の海の色を思い起こす緑がかった青が深く穏やかに佳世を映して。日本人離れした魅惑的な瞳と目が合えば、心はその青に引き込まれ、きゅっと胸が苦しくなる。

佳世の中で時間が一気に巻き戻り、過去に置いてきた筈の淡い恋心が呼び起こされていくようだった。

「た、(たつみ)先輩?」

ドキドキと、胸が苦しくて仕方ない。それでも、目の前の現実が信じられなくて、確めずにはいられない。どもりながらもどうにか佳世が尋ねれば、彼は驚きに開いた目を柔らかに細め、爽やかに微笑んだ。

「懐かしいなー、元気にしてた?」

柔らかな低音が耳に心地よく、ほっとさせられると同時に、佳世の胸は再び締めつけられる。

本当に、巽先輩なんだ。

彼が巽なのだと実感すれば、佳世は途端に恥ずかしくなる。そのまま、声も出せずに何度も頷くしか出来なくなった佳世に、巽はその様子がおかしかったのか、声を上げて軽やかに笑った。

彼は、夕凪(ゆうなぎ)巽。佳世の劇団員時代の先輩で、芝居が上手で華もあり、その上、気さくな人柄で誰もが慕う憧れの存在だった。風の噂で彼が劇団を去ったと聞いていたが、まさかその劇場前で会うとは思わなかった。

「皆の舞台観にきたのか?」
「は、はい、ちょっと懐かしくなって」

佳世は苦笑い、「先輩は?」と、すぐに言葉を続けた。巽は、記憶の中の姿と何ら変わらない。そして、再会して気づかされる、佳世にとって巽は、今も変わらずに恋しい存在なのだと。

だから尚更、その綺麗な瞳に、情けない今の自分を覗かれたくなかった。

夢を諦めて将来も分からないまま、狭いアパートでただ繰り返すばかりの日々を過ごしている。華やかに夢を叶えた同期と比べられるのが怖い、惨めで格好悪いし恥ずかしい。巽が自分に期待などしていないと分かっていても、佳世は、ちっぽけなプライドで心を必死に武装するしかない。

そうでもしなきゃ、巽の前になんて居られなかった。

「俺も同じ…って言いたいところだけど、今、店をやってるんだ。今日は差し入れを持って来たんだよ」

今帰るところだという巽の姿を改めて見ると、彼の腰には黒いエプロンが巻かれ、その手には、大きな四角いバッグがあった。出前専用のバッグだろうか、バッグの側面に印字された店名に、佳世はまた口をぱっくりと開けた。

「え、お店って、あの“紫陽花”ですか?あの、おじいちゃん夫婦が営んでる」
「そーそー、昔よく食ったよな」

“オムカツサンド!”と声が重なれば、二人して笑ってしまった。先程は塞ぎ込むしかなかった昔の思い出が、今は佳世の顔を上げさせてくれる。それに加え、巽の笑顔を見ていたら、昔の自分に戻ってしまったようで、佳世の心は幾分軽やかだった。

「あの店さ、跡継ぎがいないらしくて。店を潰すなら俺にくれって頼んだんだ。今は、マスター達から色々教わってるとこ」
「そうだったんですね…私、てっきり先輩は役者になるのかと思ってました」
「今も役者だよ」
「え?でも、劇団辞めたんじゃなかったんですか?」

きょとんとする佳世に、巽は苦笑い頭を掻いた。

「店が忙しいから最近は顔出せてないけど、一応、気持ちは役者と二足のわらじ。あ、お前も再入団するか?役者達も入れ替わりが多い上に、団員も少なくなってさ、古参の役者って居ないから、ちょっと肩身狭いんだよなー」
「嘘、絶対一目置かれてるからですよ。先輩ほどの人、そうそう居ませんもん。舞台に引っ張りだこで、いずれは映像の方にも回るって、皆思ってましたよ」
「買い被りすぎ。それ言うなら、お前の事だって俺は一目置いてたんだから」
「え?」

巽は少し腰を折って佳世に視線を合わせた。巽の端正な顔立ちが目の前に迫り、佳世は再びドキリと胸を震わせた。

「下手なのに、目が離せない」

悪戯っぽく笑って腰を伸ばした巽に、佳世は詰めていた息を吐き出し脱力した。
その笑い顔は、自分をからかっている時のものだ。そうは分かっていても、心臓は正直にドキドキと音を立てる。佳世は赤くなる頬が恥ずかしくて、不貞腐れた振りをして顔を背けた。

「…それって、芝居が下手すぎって事ですか?」
「はは、違うよ。あ、悪い、そろそろ行くな。時間あったら店にも顔出して。奢ってやるから」
「ありがとうございます。ごめんなさい、足止めちゃって」
「こっちこそ。入団の件、考えとけよ!」

佳世は笑って頷いたが、それは無理かもしれないと、小さく溜め息を吐いて俯いた。