「私が、不合格だったから?役者の素質がないから?」

これでは駄々をこねる子供みたいだと、情けなくなる。けれど、どうしたらミカを引き止められるのか佳世(かよ)には分からない。だって、今更記憶を消す必要がどこにあるのだろう、佳世はミカの正体を言いふらしたりはしなかったし、上手く二人で生活出来ていた。

「私が何かまずい事しちゃった?それなら直すから、もう怒られるような事はしないから!」

必死に訴える佳世に、ミカはいつかのように腰を折ると、佳世の顔を覗き込んだ。だが、佳世は視線を合わせられず俯いた。ミカが自分を説得しようとしているのを、感じ取ってしまったからだ。

「君のせいじゃない、君には十分素質があるし、」
「嘘だよ、そんな、」

「佳世」と、強く名前を呼ばれ、佳世は小さく肩を跳ねさせ顔を上げた。
緑がかった青い瞳は、美しい南国の海のように深く澄んだ色をしている。その綺麗な瞳の中心に、佳世がいる。ミカは誰かではなく、しっかりと佳世を見つめている。その瞳は悲しく揺らぐものではなく慈しむような愛情深いもので、佳世の胸を自然と高鳴らせて、また同時に苦しめていく。

「僕が探していた君は、どんな時も軽やかに笑って、僕に胸騒ぎを与えるんだ」

そう言って、ミカは佳世の頬に触れた。大きな手は佳世の頬を包むと、そっと頬に伝う涙を指で拭う。
優しいその仕草に、柔らかな温もりに、苦しい胸が耐えられなくて、どうしたらこの思いを止められるだろう。

まだ、伝えたい事がたくさんあるのに。早くしないと、ミカを引き止めないといけないのに。

なのに、言葉がどうしてか出てこない。涙は次々と溢れて止まらないのに、ミカはまだこんなにも側にいるのに。

「…うん、とても綺麗だ」
「ミカ、」
「僕の我が儘に付き合わせてごめんね」

その微笑みが徐々に透けていく、佳世は咄嗟にミカの頬に手を伸ばした。まだ触れられる、でも、その体温がどんどん遠退いていき、佳世は焦ってミカを見つめた。

「待ってミカ、まだ、」
「佳世、忘れないで、君はとても美しい。君の声はとても心地いいし、君の瞳はいつでも澄んでいて、見つめられるとドキドキするんだ。いつの間にか、君しか見えなくて、何度この気持ちを確かめたかしれない」
「ねぇ、ミカ聞いて、嫌だよ、」
「弱虫な君も可愛いよ、だけど自分には負けないで。僕はもう君には会えないけど、君を想ってる。君なら大丈夫だ」
「ミカ!」

伸ばした手は空を切り、彼は光の礫となって夕闇に消えてしまった。

まだ、ちゃんと気持ちを伝えてないのに。
ありがとうも、ごめんねも、
好きって事も。

涙がパタパタと床に染み、膝をついた床板がゆらりと傾き、佳世はその場に倒れ込みと、次第に意識を手放した。



そして、佳世はミカの、(たつみ)の記憶を失った。




***




早寝早起き、規則正しい生活にロードワーク。顔を洗って鏡を見ると、「手入れを怠るな!」と、誰かに怒られた記憶が脳裏を掠めたが、それが一体誰の声か、佳世にはもう分からない。


あの時、意識を失った佳世は、気がつくと自分の部屋にいた。どうして部屋にいるのかよく分からず、触れた頬に涙の跡を見つけても、それが何故なのか見当もつかなかった。

ただ、どうしてか、胸の奥が締めつけられるように苦しくて、悲しくて、その気持ちの理由も分からないまま、佳世はただ、この手に残るような温もりを抱きしめ、涙をこぼすばかりだった。



カリカリ、と音がしてベランダの戸を開けると、背中に傷のある黒猫が可愛い鳴き声を上げた。

「おはよう、ミカ。ミルク飲む?」

この黒猫は近所の野良猫だが、時折、こうしてやって来る。大家さんは大の動物嫌いだし、佳世も黒猫の事は見守るだけのつもりだったが、どうしてかそれでは落ち着かず、思い切って仲良くなろうと一歩踏み込んでみたら、思いがけず黒猫は懐いてくれた。

この猫をミカと呼ぼうと思ったのも、佳世としてはただ何となくだった。もしかしたら佳世の中に、ミカの記憶が微かに残っているのかもしれない。

ふんふん鼻歌混じりにミルクを用意していると、ミカが鳴き声で合いの手を入れてくるので、佳世はすっかり黒猫の虜だった。

「今日は、朝からみっちり稽古があるんだ。だから、またね」

なん、と鳴く声に手を振って、佳世は家を出て行く。
棚の上の写真立ての中に、巽の姿はなかった。




佳世は、芝居の世界に戻って来た。絵美(えみ)に、一緒に舞台を作ろうと誘われた佳世は、改めて入団のオーディションを受け、懐かしの劇団に戻ってきた。まだまだ役を貰えるレベルではないが、それでも佳世にとっては大きな一歩だ。

佳世の記憶の中にミカの記憶はない。それでも、誰かに背中を押して貰った事は覚えている。誰だか分からないけど、胸の中に残るその温もりを、佳世は時々取り出して確かめている。


稽古場に着くと、既に絵美がいて、いつものように挨拶を交わすと、彼女はニヤッと笑って佳世の顔を覗き込んだ。

「なんか最近、キレイになったんじゃない?」
「あ、分かります?なんか忙しくなってから肌の調子が良くて」
「はは、普通逆じゃない?ま、役者は体が資本だからね、あんまり無理しちゃ駄目よ」

ポンと絵美に頭を叩かれ、佳世は笑って頷いた。
仕事して稽古して、忙しいけれどとても充実した毎日だ。夢はまだ果てないし、不安が消えた訳ではないけれど、迷いが一つ減ったおかげか、気持ちが上向き、自信を持って日々を過ごせている気がする。


「僕が言った通り。開き直って、正解だったな」


不意に柔らかな低音が聞こえ、佳世ははっとして振り返った。劇場の中にある小さな中庭には、さらさらと木葉の揺れる音が聞こえるだけで、そこには誰の姿もない。

「……」

何か聞こえた気がしたが、気のせいだろうか。
少し胸の奥が疼いたけれど、その理由に佳世が気づく事はない。
だけど、何だか不思議と勇気を貰えた気がする。

「さ!今日も頑張りますか!」

意気込む佳世の後ろを、「ありがとうございました」と“紫陽花”と書かれた配達用のバッグを抱え、駆け抜ける人がいる。


見上げる古い劇場、風がそっと駆け抜ける。姿は人から猫へと変わり、黒い尻尾が揺れた。頑張れと心の中でエールを送り、ミカは風と共に街を駆け抜けた。