夢さえ見なければ、何の不満も無さそうに思えるミカとの共同生活だが、それでも一つだけ重大な問題があった。
佳世のアパートは狭い。ミカが人間の、それも巽の姿で共に寝るにはさすがに抵抗がある。巽の姿のミカに起こされるだけでも心臓が止まりそうなのだ、絶対に眠れやしない。
なので、食事やお風呂など用事を済ますと、ミカには猫の姿になって貰っていた。ミカも、佳世の心情を理解してくれたのか、それとも佳世が女性である事を思い出してくれたのかは分からないが、それに対して文句を言う事はなかった。
因みに、何度か他の人間に化けられないかとお願いをしてみたが、それは面倒だから嫌だと一蹴されてしまった。ミカ曰く、新たに別の人間に化けるのは手間がかかるらしい。そういうものなのだろうかと佳世は半信半疑ではあったが、問い詰めたって化け猫の事はよく分からないので、佳世はそれ以来、他の人間に化けてほしいとお願いをする事はなかった。
もしかしたら、巽でなければならない理由があるのかもしれないし、突然、別の人に化けられても、それはそれで落ち着かない気もしたからだ。
「寒くない?」
「問題ない」
夜になると、ミカはクッションの上に乗り、タオルケットにくるまった。猫の姿でいれば可愛いものだ。丸まったミカを見て、佳世も安心してベッドに潜り込んだ。
「ねぇ、ミカ。ミカはずっとこの街にいるの?」
「…そうだね」
「このアパートも昔から通ってたの?」
「うーん、気ままに散歩してるからなぁ、この辺は昔からよく歩いてたよ」
劇団時代、ベランダを通るミカを見なかったのは、自分がミカに気づいていなかっただけなのだろうか。あの頃は、今よりも仕事に芝居にと時間を目一杯使っていたし、周りを見る余裕がなかった。
佳世は、ミカの背中にある傷を見つめた。あの傷はどうして出来てしまったのだろう。遠目で見守っている時だって痛々しく思っていたが、こうして間近で見てみると、その傷の大きさが生々しく伝わり胸が痛む。人間に化けている時もこの傷はあるのだろうか、今もその傷は、痛んだりするのだろうか。
「…ねぇ、今までも人間に化けてお芝居した事はあるの?」
佳世は、傷について思いはしても、言葉では触れず、代わりに気になっていた事を尋ねた。
「どうしてそんな事聞くの?」
「だって、上手いから。家事も手慣れてるしさ」
だが、ミカからはそれきり返答がなかった。佳世は起き上がってその様子を確かめてみたが、ミカの目は閉じられている、どうやら眠ってしまったようだ。
「…おやすみ」
佳世は呟き、再びベッドに潜り込んだ。
芝居が上手い猫なんているのだろうか、それとも、人に化ける猫とは、皆そういうものなのだろうか。
ミカはどこで生まれて、どう生きてきたのだろう。あんなに生き生きと芝居をしている事に、ミカは気づいているのだろうか。
「…あんなに上手なのに、ミカこそ勿体ないよ」
佳世は目を閉じた。その呟きを、ミカは僅かに耳を震わせ聞いていた。
それから、何度かミカの過去に触れてはみたが、ミカは決まって話をはぐらかし、教えてくれる事はなかった。
***
疑問を抱えながらも、ミカとの生活がすっかり日常となった頃。
あっという間に、オーディションの日がやって来た。ヒロイン役という事もあり参加者は多く、ざっと見渡してみても、佳世よりも若い女性が多い印象だ。緊張と、場違いなのではという不安から胃が痛み、お手洗いへと歩いていると、向かいから巽がやって来た。以前と同様、腰には黒いエプロンを巻いて、手には配達用のバッグがある。
だが、どこか違和感がある。その違和感の正体がはっきりとはしなくても、佳世には不思議と確信があった。
「もしかして、ミカ?」
「お、よく僕の正体に気づいたね」
やはりミカだった。そうだと分かると、佳世は慌ててミカの腕を引き、劇場内にある小さな中庭に向かった。
「何してるの、こんな所で!」
こんな所で、もし本物の巽に出会したらどうするのだと佳世は気が気ではないのに、ミカはといえば、全く危機感を感じていない様子だ。
「何って、君を見守りに来たに決まってるじゃないか。どうせ、ウジウジ悩んでたんだろ?」
「う、ウジウジは余計!嫌味を言いに来たなら帰ってよ!」
佳世が噛みつくと、ミカは「それくらい元気があれば、大丈夫だね」と、おかしそうに笑った。
「大丈夫じゃないよ、こっちは緊張でどうにかなりそうなのに」
「そうだね、緊張感はあった方が良い。でも、それに飲み込まれてはいけないよ」
ミカはおもむろに佳世の頬を両手で包むと、コツンと額同士をくっつけた。
突然の接触に、佳世はびくりと肩を跳ねさせた。憧れの巽の姿でやめてほしい、そう言い返したくても、触れる温もりが優しく佳世を引き留めてしまう。
彼は本当にミカだろうかと疑ってしまいそうになるほど、柔らかなこの空気感は巽に似ていた。
「佳世、君はとても演技が下手だ」
ドキドキと胸が苦しくて、更に穏やかな声でそう告げられたからか、佳世はけなされてる事にすぐには気づけなかった。
「…は?」
「あれ、気づいてなかった?」
顔を上げると、ミカはまた可笑しそうに笑う、前言撤回、これはまさしくミカだ。だが、文句を言おうとして佳世は口を閉じた。ミカが、どこか懐かしそうに目を細めたからだ。
「でも、君は不思議と目で追いたくなるんだ」
そして、ミカはそっと佳世の頬を撫でると、懐かしむ瞳をやがて悲しみの色に変えた。
青く澄んだ海が、何かに怯えて、暗く深く沈んでいくようで。
その瞳は、今、誰を見つめているんだろう。
ミカは今、佳世を見ているけど、佳世は自分が見つめられているとは思えなかった。遠い記憶に思いを馳せているのだろうか、ミカは過去にもこんな風に誰かを心配して、励まして、その額を寄せた事があったのだろうか。
だとしたら、どうしてそんなに悲しい顔をするのだろう。
誰がミカに、こんな悲しい顔をさせているんだろう。
そう思ったら胸の奥がぎゅっと痛んで、どうして佳世は、悔しさが込み上がってくるのを感じた。
ミカの心を塞ぐ誰かが許せなくて、誰かではなく、自分がミカの力になりたいと思っている。
佳世は、ぎゅっと手を握り、それから心を決めて、ミカを見上げた。
「わかった。私、ヒロイン役取ってくる」
「え?」
「ミカは私をヒロインにしたいんでしょ?見てて」
佳世は笑ってミカの手に手を重ねると、ぎゅっとそれを両手で握った。祈るように、願いを込めるように手を握る姿に、ミカの瞳が何かを見つけたように僅か揺らいだ。
「行ってくるね!」
佳世はミカの様子には気づかないまま手を離すと、気合いに満ちた表情でミカを見上げ、それから背を向け歩き出した。その清々しい後ろ姿に、ミカは暫し呆然として、やがてそっと表情を緩めた。
「…ヒロインになんてならなくていい。僕は君が笑ってくれたらそれで…」
頑張れ、佳世。
振り返らず未来へと向かう佳世の背中に、ミカはそう呟いた。

