夜、何気なくテレビをつけたら、劇団員時代の同期がキスをしていた。
「…え」
ぱっくりと、開いた口が塞がらない。人は驚くと、どうして口を開けてしまうのか、四宮佳世は暫し呆然としてからはっとする。これはテレビドラマの映像だ、テレビの中の劇団員時代の同期生は、見事女優としての夢を掴んだのだ。
「はー…」
納得すれば、衝撃によって強ばった体は力を失い、佳世は背後のベッドにぐったりと背を預けた。
「凄いな…」
夢って、叶うんだ。純粋に凄いと思う。しかしそう思う反面、佳世は自身の現状を思い知らされるようで、どうしても彼女の活躍を素直に喜ぶ事が出来なかった。
煌びやかな世界で生きる彼女とは対照的に、佳世は三十路を過ぎて数年経った現在も、アルバイトで生計を立てる日々を送っている。
同じ時間を生きていた筈なのに、どうしてこうも結末は違うのだろう。華々しく人生を生きる彼女と自分を比べれば、溜め息だって吐きたくもなる。
けれども佳世だって、ただぼんやりと生きていた訳ではない。アルバイト生活を続けていたのだって、佳世にも役者になるという夢があったからだ。
だがその夢も、五年前に潰えてしまった。それでもこの生活を辞められないのは、まだその夢に未練があるからだろうか。
佳世はぼんやりと部屋を見渡した。いつか多くの人に認めて貰ったら、広くて綺麗な家に暮らすんだ、あの頃はそう息巻いていたというのに、そんな過去の自分が今は恥ずかしくて仕方ない。佳世が手に入れた未来は、いまだに狭いアパート暮らしだ。
部屋の中だって、あの頃から何も変わっていない。出来るだけ安く揃えた家具に、いつかお洒落な部屋に暮らす夢だけを残して、結局シーツカバーの一枚も変わってやしない。考え始めれば、ただただ膨らむ惨めな思いに、とにかくその気持ちをやり過ごそうと視線を巡らせば、ふと、ラックの上に飾ってある写真に目が止まった。
そこには、劇団員時代に撮った写真が飾ってある。
「綺麗になったな、彩夏…」
彩夏とは、先程テレビに映っていた女優だ。その彼女も、飾られた写真の中に写っている。
佳世は、写真のほぼ中央に写っている彼女とテレビに映るその姿を見比べてみる。元々、彩夏は美人だったが、以前と比べて顔つきが変わったように思う。顔のつくりが変わったのではない、それは内面から滲み出る自信の差だろうか、ますます磨きがかった華やかさ、凛としたその眼差しを見れば、きっと誰もが彼女に惹き付けられるだろう。
それを感じ取り、佳世はやめておけば良いのに、手近にあった手鏡に自分を映してみて、案の定、深い溜め息の海に溺れた。
今の佳世の姿は、キラキラした彩夏とは雲泥の差がある。沈み込んで人生を負け惜しむ自分が、そもそも彩夏と張り合える訳もないと叩きのめされた気分だった。
「…ま、見た目だって到底敵わないけどね」
それだけは、見比べるでもなく分かる事だ。そもそも、彩夏と同じ土俵に立てるなんて思ってもいない。期待するだけ損だ、傷つくと分かっている勝負に挑むなんて辛いだけ。
そう、自分は結局、その程度の人間だ。
佳世が落ち込みに手鏡を伏せた時、ベランダから物音が聞こえた。カタンという小さな音だ、ベランダへと視線を向けると、カーテンが僅か開いている。閉めたつもりが、ちゃんと閉めていなかったようだ。
佳世がそのカーテンを少し開けてベランダを覗いてみると、黒猫の去っていく背中が見えた。
「あの子、来てたんだ」
暗がりでも、近くの家々から漏れ出る明かりのおかげで、それがいつもベランダを通りすがる黒猫だというのが分かった。
佳世の部屋はアパートの二階だが、どこから登ってくるのか、その黒猫は、最近よく姿を見せるようになった。恐らく野良猫だろう。彼はここを通り道にしているのか、ベランダを横切るだけの日もあれば、丸まって寝ていたりする。初めてそれを見た時は、見知らぬ猫がいて驚いたが、今のところトイレ代わりにもされていないので、そのまま好きにベランダを使わせている。
野良猫にも、様々な黒猫が近所にはいるが、いつもベランダを通る黒猫には大きな特徴があった。その背中に、大きな傷痕があったからだ。切り傷というよりは火傷の痕のようで、もう傷は塞がっているようだが、どうしたって痛々しく見えてしまう。かといって、佳世に出来る事はない。猫の世界は分からないし、知識もない。アパートの大家さんは動物嫌いだし、下手に手を出したら、猫を飼っていると疑われ、黒猫もろとも自分だって追い出されかねない、それぐらいの動物嫌いだ。それに、黒猫自身の警戒心も強い、ベランダに居るからといって身を乗り出せば、さっさと逃げてしまう。
佳世はといえば、日向ぼっこの邪魔をしてしまい悪い事をしたな、そう思うくらいには、あの黒猫に愛着が沸いていた。
その理由の一つに、黒猫の瞳の色がある。
柔らかに緑がかった青色の瞳、見つめれば深くまで吸い込まれてしまいそうで、それが、劇団員時代の先輩の瞳の色にそっくりで、黒猫の姿を見かける度に、どうしても彼を連想してしまうからだ。
「……いや、だから、もう…」
頭の中に瞬時に広がった劇団員時代の記憶に、佳世は自分に溜め息を吐き、再び膨れ上がるもやもやに目を背けるようにカーテンをきっちりと閉めた。それから急いでテレビを消すと、ベッドにその身を沈めた。

