それから一年後。春。
 透は再び絵を描いていた。自宅のアトリエで、新しいキャンバスに向かっている。午前中の柔らかい光が窓から差し込み、部屋を照らしていた。
 色覚は完全には戻っていない。世界は相変わらず灰色に見える。朝起きて窓を開けても、空は灰色だ。庭の草も、木々も、海も、全てが灰色のグラデーションで構成されている。
 でも、少しずつ変化があった。
 時々、ほんの一瞬だけ、色が見える時間が増えている。朝日を見たとき、海を眺めたとき、花を見つめたとき。一日に何度か、数秒間だけ、世界が色づく。それは以前のように完全な色彩ではないが、確かに色だった。青、黄色、緑。そして時々、他の色も見える。
 透の心には、シロが渡してくれた色の記憶が刻まれている。その記憶を頼りに、透は筆を動かす。灰色にしか見えない絵の具を、心で感じながら塗り重ねていく。ここは海の青、ここは空の青。ここは菜の花の黄色、ここは銀杏の黄色。心が色を教えてくれる。
 シロは相変わらず透の側にいる。
 制作中の透の膝で眠り、散歩に付き合い、透が煮干しをくれるのを待っている。朝は透と一緒に港へ行き、海を見つめる。シロが海を見つめる時、透の視界に青が走る。午後は庭で日向ぼっこをする。夜は透の枕元で丸くなって眠る。その寝息を聞きながら、透も眠りにつく。
 一年前のあの夜、シロが消えかけた夜のことを、透は時々思い出す。あの恐怖、あの絶望。でも今、シロはここにいる。温かく、柔らかく、確かにここにいる。それが何よりも大切なことだった。
 町の人々は、透とシロのコンビを「癒しの画家と猫」と呼ぶようになった。透の絵を求めて、遠方から訪ねてくる人もいる。青と黄色と緑で描かれた、穏やかで優しい絵。それらを見た人々は、心が落ち着くと言う。
「この絵を見てると、世界が優しく見える」
「色が少ないのに、こんなに豊かに感じる」
 そんな言葉を聞くたび、透は思う。これがシロの色なのだと。シロが見ていた世界なのだと。
 そして静とは、穏やかな関係が続いていた。
 週に一度、静は透の家を訪れる。シロの健康チェックという名目だが、本当は透とシロの様子を見に来ているのだろう。静が来ると、透は珈琲を淹れる。二人でリビングのソファに座り、他愛のない話をする。静は透の新しい絵を見て、感想を述べる。透は静の動物病院での出来事を聞く。シロは二人の間で、満足そうに喉を鳴らす。
 時々、透と静は一緒に食事に行く。町の小さなレストランで、ゆっくりと時間を過ごす。恋人というわけではない。でも、お互いを大切に思う、特別な関係。透にとって静は、あの絶望的な夜に希望を与えてくれた人だった。シロを救う方法を教えてくれた人だった。

 ある春の日、透の展覧会『猫と虹』が、東京の画廊で開催されていた。
 大きな画廊の壁一面に、透の絵が並んでいる。港の海、花畑、銀杏の木、公園の草、浜辺の空。全て青と黄色と緑で描かれた世界。そして中央には、大きな『猫と虹』の絵。シロが虹色の光に包まれ、青と黄色と緑の世界を歩いている絵。
 会場は多くの人で賑わっている。週末の午後、様々な年齢の人々が訪れている。若いカップル、中年の女性、老夫婦。みんな絵を見て、様々な反応を見せる。
 来場者たちは絵を見て、涙を流す人もいる。
「こんなに優しい色、初めて見た」
「心が洗われる」
 ある老人は、港の絵の前で長い時間立ち尽くしていた。そして透に言った。
「この青、昔見た故郷の海の色だ。もう何十年も帰っていないが、この絵を見たら思い出した」
 ある若い女性は、花畑の絵を見て涙を流した。
「最近、色々あって辛かったんです。でもこの絵を見たら、世界がまだ美しいって思えました」
 会場の隅には、本物のシロがいる。クッションの上で丸くなり、来場者を迎えている。来場者は絵を見た後、シロを撫でていく。シロは誰にでも優しく、喉を鳴らす。不思議なことに、シロを撫でた人々は、みな穏やかな表情になる。
「この猫、絵のモデルですか」
「はい。シロです」
「可愛いですね。茶トラなんですね」
 来場者がシロを撫でると、シロは嬉しそうに目を細める。来場者は微笑む。その表情は、さっきまでの疲れた顔とは違う、穏やかな顔だ。
 静も来ている。透の隣に立ち、来場者の反応を見て微笑んでいる。静は週末に合わせて東京まで来てくれた。
「素敵な展覧会ですね。みんな、蒼井さんの絵に癒されています」
「静さんのおかげです。あなたがいなければ、この絵は生まれませんでした」
「いいえ、蒼井さんとシロちゃんが作り出した奇跡です」
 二人の間には、穏やかな空気が流れている。透は静の横顔を見た。優しい人だと、改めて思った。

 午後、東京時代の画商が訪れた。透を見つけると、嬉しそうに近づいてきた。
「透君、素晴らしい展覧会だ」
「ありがとうございます」
 画商は一枚一枚の絵を丁寧に見て回った。そして中央の『猫と虹』の前で立ち止まった。長い時間、じっと絵を見つめている。
「透君、これは新しい境地だ。君は本当に変わった。いや、進化したと言うべきか」
 画商はゆっくりと透に視線を移した。
「でも……君の目は。色が見えているのか」
 透は少し迷った。だが、正直に話すことにした。
「いえ。色は見えていません。今でも、世界は灰色にしか見えないんです」
 画商のまなざしが、はっきりと揺れた。
「では、どうやってこの絵を」
「この猫が、色を教えてくれるんです」
 透はシロを指差した。シロはクッションの上で、静かに丸くなっている。
「シロが何かを見つめるとき、俺の心に色が見えるんです。そして、その色の記憶を頼りに、絵を描いています」
 画商はシロに目をやり、そして透へ視線を戻した。しばし沈黙ののち、ふっと笑みがこぼれる。
「それなら、この猫こそ君のミューズだな」
 画商はシロに近づき、その頭を撫でた。シロは目を細めて、喉を鳴らした。
「不思議な猫だ。でも、君とこの猫の関係が、こんなに素晴らしい絵を生み出したんだな」
 画商は透の肩を叩いた。
「透君、これからも描き続けてくれ。君の絵は、多くの人を癒している」
 透は静かに頷いた。その言葉の余韻が、胸の奥に広がっていく。

 展覧会の最終日。夕方になり、来場者も少なくなってきた。透はシロを抱いて、会場を見渡す。
 二週間の会期中、本当に多くの人が訪れた。絵の多くが売れた。美術雑誌にも取り上げられた。テレビの取材も来た。透はもう一度、画家として認められた。
 でも透にとって一番嬉しかったのは、来場者たちが「癒された」と言ってくれたことだった。透の絵が、人々の心を少しでも軽くできたのなら、それが何よりも嬉しい。
「シロ、お前のおかげで俺は気づいたんだ。色は目で見るものじゃない。心で感じるものだって。そして、大切なものは、失うことを恐れるんじゃなく、今、この瞬間を一緒に生きることだって」
 透が囁くと、シロはただ、透の腕の中で目を細める。そして小さく鳴く。まるで「わかってるよ」と言っているかのように。
 窓の外には、夕焼けが広がっている。画廊の大きな窓から、東京の空が見える。透の目には灰色にしか見えないが、心では色を感じている。茜色、橙色、黄金色、紫。全ての色が、空を染めている。美しい夕焼けだ。
 透は思う。この色は、もう失われることはない。なぜなら、心に刻まれたから。そして、シロと共にあるから。これからも、透は絵を描き続ける。シロと見た色を、シロと過ごした日々を。そして、その絵を通じて、人々の心を癒していく。それが、透とシロの使命なのだと、透は信じている。

 その夜、透とシロは家に戻った。東京から電車で二時間。海辺の町の、透の家。玄関を開けると、懐かしい匂いがした。
 郵便受けを確認すると、一通の手紙が入っていた。差出人は不明。宛名は透の名前だけが書かれている。透は不思議に思いながら封を開けた。
 便箋には、美しい文字でこう書かれていた。

『色の記憶を持つ猫は、百年に一度、色を失った魂に出会う。そして色を返す時、猫も人も、新しい命を得る。あなたとシロは、お互いを救った。これからも、色と共に、歩みなさい』

 透は手紙を読み終えて、静かに笑った。誰が書いたのかはわからない。でも、その言葉の意味は理解できた。シロは透を救った。そして透もまた、シロを救った。お互いが、お互いを必要としていた。これからも、二人は一緒に生きていく。
「そうか……」
 透は手紙を折りたたみ、大切にしまった。そして振り返ると、シロが足元でにゃあと鳴いている。
「ああ、わかってるよ。ごはんだろう」
 透は台所へ向かう。その後ろを、シロがとことこと付いていく。尻尾を立てて、嬉しそうに。
 透はシロの餌を用意する。皿にキャットフードを入れ、シロの前に置く。シロは勢いよく食べ始める。透はその様子を見ながら、微笑む。こんな穏やかな日常が、こんなにも愛おしい。色が見えなくても、世界は美しい。シロがいれば、それで十分だ。
 窓から差し込む月明かりが、二人を照らしている。透の目には灰色の光にしか見えない。でも心には、確かに色が見えている。青い月光、黄色い星の光。そして、シロの茶色と橙色の毛並み。
 世界は美しい。そしてシロがいる限り、この美しさは決して失われない。透とシロの日々は、これからも続いていく。色と共に。希望と共に。お互いを大切にしながら。


(完)