全ての色を取り戻した透。しかし、シロはもうほとんど透明になっていた。
 その日の朝、透はシロを抱いたまま、リビングのソファに座っていた。一睡もしていなかった。シロの身体は輪郭だけが辛うじて見える程度で、透の腕の中には温もりだけがあった。その温もりも、昨夜よりさらに弱く感じた。まるで薄い絹のような、消えてしまいそうな存在感だった。
「シロ……」
 透は小さく呟いた。シロは透の腕の中で、静かに呼吸をしていた。まだ生きている。まだここにいる。でもあとどれくらいの時間が残されているのだろう。透は恐怖を感じた。このまま朝日が昇る頃には、シロは完全に消えてしまうのではないか。
 透は立ち上がり、壁に並んだ絵を見た。港の海、花畑、銀杏の木、公園の草、浜辺の空。全て青と黄色と緑で描かれた絵。シロと見た景色たち。透の目には灰色にしか見えないが、心では色を感じていた。これらの絵は、シロとの思い出だった。シロが教えてくれた色の記憶だった。
 絵を描くことができた。色が見えなくても、心で色を感じながら筆を動かすことができた。それはシロのおかげだった。シロが色の記憶を分けてくれたから。二年間失っていた喜びを、シロが取り戻させてくれた。
 だがその代償として、シロは消えようとしている。
 透は苦しかった。色を取り戻したことは嬉しかった。絵が描けるようになったことは嬉しかった。でもその喜びは、シロを失う悲しみに押し潰されそうだった。シロがいない世界で、色が見えて何になる。シロがいない世界で、絵が描けて何になる。
「シロ……色を返したい。お前に返したい。だから消えないでくれ」
 透は必死に願った。だが色は、もう透の心に刻まれてしまった。返す方法がわからない。透はシロを抱きしめた。腕の中の温もりが、少しずつ薄れていくのを感じた。
 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。透は驚いて振り返った。こんな早い時間に誰だろう。時計を見ると、午前六時を少し回ったところだった。透はシロを抱いたまま、玄関へと向かった。
 ドアを開けると、そこには桐谷静が立っていた。コートを羽織り、息を切らしている。走ってきたのだろうか。
「蒼井さん、おはようございます」
「静さん……どうして」
「夜中に目が覚めて、どうしても心配になって。シロちゃんは」
 静は透の腕の中を見た。そこには、ほとんど見えないシロがいた。静の目が大きく見開かれ、顔が青ざめた。
「シロちゃん……なんて……」
「入ってください」
 透は静をリビングに案内した。静はソファに座り、透の腕の中のシロを見つめた。見えないシロを。
「本当に……ほとんど透明ですね。触れても、わかりますか」
「はい。温もりはあります。でも、昨夜よりずっと弱くなっています」
「そんな……」
 静の目には涙が浮かんでいた。
 透は静に昨夜の出来事を話した。山の池で最後の色を見たこと。紫と藍。それで全ての色が揃ってしまったこと。そして家に帰ってきたときには、シロはもうほとんど透明になっていたこと。
 透の声は震えていた。静は黙って聞いていた。そして深く息を吸い、透を見た。
「蒼井さん、色は返せないんですよね」
「はい。シロが言っていました。色の記憶は一度渡されたら、受け取った側の心に定着する。もう返すことはできない」

 静は眉を寄せ、長い沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「でも……別の方法があるかもしれません」
「別の方法」
「色を自分の中に留めるのではなく、外に出すんです。絵として。蒼井さんは既に絵を描いていますよね。でも、それだけでは足りないんです」
 透は静を見つめた。静は続けた。
「今まで描いた絵は、蒼井さんがシロちゃんから受け取った色の記憶を形にしたもの。でも色は、まだ蒼井さんの中に留まっている。本当に色を循環させるには、シロちゃん自身を描くんです。シロちゃんが渡してくれた全ての色と共に。そうすれば、色は完全に外に出て、蒼井さんから絵へ、絵から見る人へと流れていく」
 透は静の言葉を噛みしめた。色を外に出す。絵にする。
「それで、シロは」
「わかりません。でも、もしかしたら……」
 静は言葉を選ぶように、ゆっくりと話した。
「色が循環することで、シロちゃんの負担が軽くなるかもしれない。シロちゃんが渡した色が、ちゃんと世界で生き続けているなら、シロちゃんの使命は別の形で果たされるかもしれない。そうすれば、シロちゃんは消えずに済むかもしれない」
 透は息を呑んだ。それは確かなことではない。でも、可能性はある。
「急いでください、蒼井さん。シロちゃんの絵を描いてください。シロちゃんが見た全ての景色を背景に、シロちゃん自身を。そしてその絵を、世界に見せるんです。色を循環させるんです」
 静は透の手を握った。その手は温かかった。
「私は獣医として、たくさんの命を見てきました。そして学んだんです。諦めない心が、時に奇跡を起こすことを。蒼井さん、諦めないでください」
 透は頷いた。そうだ。諦めるわけにはいかない。シロのために。
「わかりました。描きます。今すぐ描きます」
「私も手伝います。何か必要なものがあれば言ってください」
 静の言葉に、透は力をもらった。

 静が帰った後、透はすぐに準備を始めた。
 一番大きなキャンバスを引っ張り出した。埃を払い、イーゼルに立てかけた。絵の具を全て並べた。青、黄、緑、そして茶色、橙色。シロの色。筆を何本も用意した。
 これにシロの全てを描く。シロが見た世界、シロが渡してくれた色、シロの姿。シロとの全ての思い出を、この一枚に込める。
 透は筆を取った。だが手が震えていた。シロはもうほとんど透明で、姿が見えない。どうやって描けばいいのだろう。記憶だけを頼りに、描けるのだろうか。
 そのとき、透はふと思い出した。あの夜、シロの身体が発光したとき、ほんの十数秒だけ見たシロの本当の姿。茶色と橙色のストライプ模様。琥珀色の瞳。ピンクの肉球。小さな耳。ふわふわの尻尾。
 透は目を閉じた。そして記憶の中のシロを思い浮かべた。鮮やかな茶トラの姿。その姿が、透の心の中ではっきりと見えた。細部まで、全てが見えた。
「よし」
 透は目を開け、筆を動かし始めた。
 透は三日三晩、一心不乱に描き続けた。
 食事はほとんど摂らなかった。静が時々訪ねてきて、簡単な食事を作ってくれた。透はそれを口に運びながら、筆を動かし続けた。睡眠もほとんど取らなかった。眠気が襲ってきても、コーヒーを飲んで目を覚まし、また筆を取った。
 ただひたすら、シロを描いた。
 最初に下描きをした。シロの輪郭、身体のバランス、座っている姿勢。何度も描き直した。納得がいくまで、線を引き続けた。
 次に色を塗り始めた。まず茶色。透の目には灰色にしか見えないが、心では茶色を感じていた。あの夜見た、シロの美しい茶色。それを思い出しながら、丁寧に塗っていった。
 次に橙色。茶色と橙色のストライプ模様を、一本一本描いていった。シロの毛並みは、細かいストライプで構成されている。それを丁寧に、愛情を込めて描いた。
 白い部分も塗った。シロの顎の下、胸、お腹、足先。柔らかそうな白い毛。そして黒い部分。鼻の周り、肉球。
瞳を描いた。琥珀色の瞳。その奥に宿る、深い知性。優しさ。そして使命感。透はシロの瞳を見つめた記憶を辿りながら、丁寧に色を重ねていった。

 二日目の夜、透は気づいた。シロの温もりが、さらに弱くなっている。透は時々筆を止めて、シロを抱き上げた。腕の中に、微かな温もりがある。まだいる。まだ消えていない。
「待ってくれ、シロ。もう少しだけ。もう少しで完成する」
 透は必死で筆を動かした。手が痛い。肩が凝る。目が霞む。でも止まれない。シロのために。シロを救うために。

 三日目の朝。透は背景を描き始めた。シロと見た景色を、シロの周りに配置していく。
 港の青い海。深い群青から明るい青まで、様々な青を使って波を描いた。朝日に照らされて輝く海面。
 花畑の黄色い菜の花。一面に広がる鮮やかな黄色。風に揺れる花々。
 神社の黄金色の銀杏。何千枚もの葉が作り出す、壮大な黄色の世界。
 公園の緑の草。朝露に濡れて輝く、生命力に満ちた緑。
それらを組み合わせ、シロを囲むように配置した。シロが見た世界。青と黄色と緑の世界。

 三日目の午後。透は最後の仕上げにかかった。シロの周りに、虹色の光を描く。これが一番大切な部分だった。
 青、黄、緑、橙、赤、紫、藍。シロが持っていた色の記憶たち。それをシロの身体から放たれる光として描いた。柔らかな、優しい光。シロを包む虹色の輝き。
 筆を動かしながら、透は思った。この絵は、シロへの感謝の証だ。シロへの愛情の証だ。そしてシロが生きた証だ。この絵を通じて、シロの色は世界に広がる。人々の心に届く。それが、シロの使命を果たすことになる。

 夕方になった。西日が窓から差し込んできた。透は最後の一筆を入れようとして、ふと窓の外を見た。
 夕焼けだった。
 透は筆を置き、シロを抱き上げた。もうシロの姿は全く見えない。でも腕の中に、微かな温もりがあった。本当に微かで、もう消えてしまいそうなほど弱い温もり。でもまだある。まだシロはここにいる。
「シロ、一緒に見よう。最後の夕焼けを」
 透はシロを抱いて、窓辺に立った。西の空が、灰色に見える。でも透の心には色が見えた。茜色、橙色、黄金色。空全体が燃えるような色に染まっている。美しい夕焼け。
「シロ、お前が教えてくれた色で、お前を描いた。お前が見た世界を描いた。これが、俺からお前への贈り物だ。だから……だから消えないでくれ」
 透の声は震えていた。シロは透の腕の中で、小さく鳴いた。その声はもう、ほとんど聞こえなかった。風の音よりも微かな声。

 透は絵の前に戻った。夕日がキャンバスを照らしている。透は深呼吸をして、最後の一筆を入れた。シロの瞳に、光を。命の輝きを。生きる喜びを。
 筆がキャンバスから離れた瞬間、不思議なことが起こった。
 絵から、光が放たれた。
 透は驚いて後ずさった。絵全体が淡く光り始めた。青い光、黄色い光、緑の光、虹色の光。それらが絵から溢れ出し、部屋中に広がった。まるで絵が生きているかのようだった。
 そして光は絵から離れ、透の腕の中へと流れ込んできた。暖かい光。優しい光。それが透の腕を包み、透が抱いているシロを包んだ。
 透の腕の中で、何かが動いた。
 透は腕を見た。そこに、シロがいた。
 透明だったシロの身体が、少しずつ実体を取り戻していた。最初は輪郭だけがぼんやりと見えた。次に色が現れ始めた。茶色と橙色のストライプ模様。それが次第にはっきりとしていく。琥珀色の瞳が輝き始めた。ピンクの肉球が現れた。白い胸毛、小さな耳、ふわふわの尻尾。
 シロが、戻ってきた。
「シロ……」
 透の目から涙が溢れた。シロは透の腕の中で、はっきりと鳴いた。
「にゃあ」
 その声は力強く、生命に満ちていた。以前と同じ、シロの声。透はシロを抱きしめた。温かい。柔らかい。確かな重みがある。シロの心臓が、透の手のひらに鼓動を伝えてくる。生きている。シロが生きている。
「シロ、シロ、シロ……」
 透は泣きながらシロの名を呼び続けた。シロは透の顔を舐めた。その感触は、以前と同じように確かだった。ざらりとした舌の感触。シロの匂い。全てが戻ってきた。
 透はシロを抱いたまま、その場に座り込んだ。信じられなかった。シロが消えると思っていた。もう二度と会えないと思っていた。でもシロは、戻ってきた。ここにいる。確かにここにいる。

 しばらくして、透は絵を見た。絵はもう光っていなかった。でもそこには、鮮やかなシロの姿があった。透の目には灰色にしか見えないが、心では色を感じていた。茶色と橙色のシロ。琥珀色の瞳のシロ。虹色の光に包まれたシロ。
 透は理解した。色を絵として外に出すことで、色は循環した。透の心から絵へ。絵から世界へ。そしてシロの使命は、別の形で果たされた。シロは色を渡し、透はその色で絵を描き、絵は世界に色を伝える。それがシロの本当の使命だったのだ。だからシロは、もう消える必要がなくなった。
「ありがとう、シロ。生きててくれて、ありがとう」
 透は囁いた。シロは透の膝の上で丸くなり、喉を鳴らした。ゴロゴロという、幸せそうな音。
 窓の外では、夕焼けが深まっていた。透は心の中で色を感じた。茜色から紫へと変わる空。そして透の腕の中には、温かいシロがいた。
 全てが、元に戻った。いや、元よりもずっと良くなった。透は色を取り戻し、絵を描く喜びを思い出し、そしてシロと一緒にいられる。これ以上、何を望むことがあるだろう。

 翌朝、桐谷静が訪ねてきた。透がドアを開けると、静は心配そうな表情をしていた。
「蒼井さん、シロちゃんは……」
 そのとき、静は透の足元を見て、言葉を失った。
 そこには、茶トラのシロがいた。
「シロちゃん……」
 静は膝をついて、シロを抱き上げた。シロの身体は確かな重みがあり、温かく、柔らかかった。静はシロをしっかりと抱きしめた。
「戻ってきたんですね。本当に……本当によかった」
 静の目から涙が溢れた。シロは静の腕の中で、嬉しそうに鳴いた。
 透は静をリビングに案内した。壁には、完成したシロの肖像画が掛けられていた。静はその絵を見て、息を呑んだ。
「なんて……なんて美しい」
 静は絵に近づき、じっと見つめた。涙で視界が滲んでいたが、それでも絵の美しさは伝わってきた。
「この絵、生きてるみたいです。まるでシロちゃんが本当にそこにいるみたい。色が……こんなにも優しく、温かく感じる」
「静さんのおかげです。絵として外に出すという方法を教えてくれて」
「いいえ、蒼井さんの愛情が、シロちゃんを救ったんです。諦めない心が、奇跡を起こしたんです」
 静は透を見た。その目には、深い感動があった。
「蒼井さん、この絵を多くの人に見せませんか。展覧会を開きましょう。シロちゃんが渡してくれた色を、世界と共有しましょう」
 透は頷いた。そうだ。それがシロの使命を完成させることになる。色を循環させ続けることになる。
「お願いします」
 透がそう答えると、静は嬉しそうに微笑んだ。そしてシロを床に下ろした。シロは二人の間を歩き回り、満足そうに喉を鳴らした。
 新しい朝が始まった。透とシロの、新しい人生が始まった。