シロの正体を知った翌朝から、透の日々は変わった。
透はシロと共に、町の様々な場所を訪れるようになった。シロが色を渡してくれるのなら、その時間を大切にしようと決めたのだ。たとえ最後にシロが消えてしまうとしても、今この瞬間を共に生きたいと思った。
ただ一つ、不思議なことに気づいていた。あの夜、シロの身体から虹色の光が放たれたとき、透は全ての色を一瞬だけ見た。それはシロが百年の生涯で蓄えてきた色の記憶の全てだった。だが日常の中でシロが見せてくれる色は、主に青と黄色、そしてその混色である緑だった。まるでシロの視界そのものを、透が共有しているかのようだった。
猫は二色型色覚で、青と黄色を中心に世界を見ている。透はそのことを、以前どこかで読んだ記憶があった。シロが渡してくれているのは、シロ自身が今見ている世界の色なのだ。人間が見る虹色の世界ではなく、猫が見る青と黄色の世界。それは制限された色彩かもしれないが、だからこそ純粋で美しいのかもしれない。透はそう思い始めていた。
最初に訪れたのは、朝の港だった。
透はシロを抱いて、港の堤防に座った。時刻は午前六時。漁師たちが船の準備をしている。網を積み込む音、エンジンの音、男たちの掛け声。港は活気に満ちていた。夜明けの空気は冷たく、透は上着の襟を立てた。潮の香りが風に乗って運ばれてくる。
シロは透の膝の上で、じっと海を見つめていた。朝日に照らされた海面が、きらきらと光っている。透の目には全てが灰色に見えたが、シロの視線の先には何が見えているのだろう。透はシロの頭を優しく撫でながら、一緒に海を眺めた。
そのとき、透の視界に色が流れ込んできた。
深い、深い青。それは透が記憶していた群青色とは少し違った。もっと純粋で、もっと透明感のある青だった。海の表面は明るい青で、深い部分は濃い青。波の一つ一つが微妙に異なる青の濃淡を持ち、光を受けて輝いていた。まるで無数の青い宝石が散りばめられているようだった。
空もまた青だった。海よりも明るく、柔らかい青。そして朝日の当たる雲の縁が、淡い黄色に染まっていた。青と黄色。たったそれだけの色が、こんなにも豊かな世界を作り出している。透は息を呑んだ。
色が見える時間は、あの夜よりも長くなっていた。十秒ほど、透は色彩の世界を見ることができた。そして色が消えても、その記憶は鮮明に心に残った。透の網膜には灰色の世界が戻ったが、心の中には青い海が確かに存在していた。
「シロが見ている世界なんだな、これは」
透は小さく呟いた。シロは透を見上げて、一度鳴いた。その瞳は、まるで「そうだよ」と言っているかのようだった。
透はポケットから小さなスケッチブックと鉛筆を取り出した。そして今見た景色を描き始めた。海の輪郭、波の形、空と雲。色はつけられないが、形だけは残しておきたかった。そして心の中で、青と黄色を塗り重ねていった。鉛筆で描いた線の一本一本に、記憶の中の色を重ねていく。
港にいた老漁師が、透とシロに気づいて近づいてきた。日焼けした顔に深い皺を刻んだ、七十代くらいの男性だった。
「おう、兄ちゃん。猫連れて絵を描いてるのか」
「ええ、海がきれいだったので」
「そうだろう。この港の海は青が深いんだ。若い頃、画家が来て絵を描いていたこともあったよ」
老漁師は透のスケッチを覗き込んだ。
「うん、いい線だ。色をつけたら立派な絵になるだろう」
「ありがとうございます」
「その猫、茶トラか。可愛いな」
老漁師はシロの頭を撫でた。シロは目を細めて、喉を鳴らした。
「毎朝来るといい。この海を見てると、心が洗われるぞ」
老漁師はそう言い残して、船へと戻っていった。透はスケッチを仕上げると、シロを抱いてもうしばらく港に座っていた。
その日の午後、透はシロを連れて町外れの花畑へ向かった。この時期、菜の花が咲いているはずだった。透の祖母が生きていた頃、よく一緒に見に行った場所だ。
花畑に着くと、一面に花が広がっていた。透の目には灰色の花にしか見えなかったが、風に揺れるその姿は穏やかで美しかった。花畑の向こうには低い山並みが連なり、空は明るかった。透は深呼吸をした。花の香りが漂ってくる。
シロは透の腕から降りて、花畑の中を歩き始めた。花の間を縫うように、ゆっくりと歩いていく。時々立ち止まっては花を見上げ、また歩き出す。透もシロの後を追った。足元の土は柔らかく、歩くたびに花の香りが強くなった。
シロが一輪の花の前で立ち止まった。そして花を見つめた。透もまた、その花を見た。
その瞬間、世界が黄色に染まった。
眩しいほどの黄色。それは太陽の色であり、希望の色だった。一面の菜の花が、明るい黄色で輝いていた。花びらの一枚一枚が光を受けて、金色にも見える黄色を放っていた。透はその黄色の洪水に圧倒された。こんなにも明るい色があったのか。こんなにも温かい色があったのか。
そして花の茎や葉は、鮮やかな緑だった。黄色と緑のコントラストが、花畑を生き生きとしたものに見せていた。空は青く、その青と黄色と緑が、完璧な調和を作り出していた。三色だけの世界。だがその三色が、無限の豊かさを持っていた。
透は深く息を吸った。花の香りと共に、色が身体の中に入ってくるような感覚があった。美しかった。こんなにもシンプルな色の組み合わせが、こんなにも心を打つのか。
色が消えた後、透はその場に座り込んだ。シロが透の膝に乗ってきた。透はシロを抱きしめながら、スケッチブックを開いた。そして今見た花畑を描いた。一輪一輪の花、風に揺れる茎、遠くに見える山並み。描きながら、透は心の中で黄色を塗り重ねていった。
描きながら、透は思った。青と黄色と緑。たった三色だけで、世界はこんなにも豊かに見える。かつて透は、あらゆる色を使って絵を描いていた。でも今、この制限された色の方が、ずっと心に響く。不思議なことだった。
夕方、透はシロと神社へ向かった。町外れにある小さな神社で、境内には樹齢三百年を超える銀杏の木がある。秋も深まり、葉は色づいているはずだった。
神社に着くと、境内は静かだった。石段を上り、銀杏の木の前に立った。既に西日が傾き始めており、木々の影が長く伸びていた。
銀杏の木は大きく、枝を空いっぱいに広げていた。透の目には灰色の葉にしか見えなかったが、シロは木を見上げて、じっと見つめていた。透もまた、木を見上げた。
そのとき、木全体が黄金色の光に包まれた。
何千枚もの葉の、一枚一枚が黄色に輝いていた。明るい黄色、深い黄色、金色に近い黄色。様々な黄色が混ざり合い、木全体が巨大な黄色の塊となっていた。風が吹くと葉が揺れ、光の波が木全体を駆け抜けた。まるで木全体が呼吸をしているようだった。
透は圧倒された。これほどまでに美しい黄色があるのか。これほどまでに豊かな黄色があるのか。一つの色が、こんなにも多様な表情を持つのか。
空の青と、木の黄色。そのコントラストが鮮烈だった。まるで世界が、青と黄色だけで描かれた絵のようだった。そしてそれで十分だった。他の色は必要なかった。
色が消えても、透はしばらく木を見上げていた。心の中に、黄金色の残像が焼き付いていた。透の目から涙が溢れた。美しすぎて、胸が苦しかった。
「綺麗だろう」
背後から声がかけられた。振り返ると、神社の神主らしい老人が立っていた。
「この銀杏は樹齢三百年を超える。毎年秋になると、見事な黄色になる。青い空に黄色い木。それだけでこんなにも美しい」
「本当ですね」
「お前さん、絵を描いているのか」
神主は透のスケッチブックを指差した。
「ええ、まあ」
「ならばこの木を描くといい。青と黄色だけで、十分に美しい絵になるはずだ」
神主はシロに目を向けた。
「その猫、不思議な目をしておるな。猫は神の使いとも言われる。大切にするがよい」
神主はそう言い残して、社務所へと戻っていった。透はシロを抱いて、ベンチに座った。そしてスケッチブックを開き、銀杏の木を描いた。
それから毎日、透はシロと町のあちこちを訪れた。
早朝の公園では、朝露に濡れた草の緑を見た。シロが草むらを歩くと、透の視界に鮮やかな緑が広がった。それは青と黄色が混ざり合った、生命力に満ちた色だった。草の一本一本が異なる緑を持ち、朝日を受けてきらきらと輝いていた。
昼の浜辺では、空と海の青を見た。シロが波打ち際で水を見つめると、透は海の深い青と、浅瀬の明るい青と、空の柔らかい青を見た。青にもこんなに多くの種類があるのかと、透は驚いた。同じ青でも、深さや明るさによって、全く違う表情を見せる。
午後の丘では、タンポポの黄色を見た。シロが花を見つめると、小さな花が鮮やかな黄色で輝いた。そしてその周りの草が緑で、空が青だった。どこへ行っても、青と黄色と緑。だがその組み合わせは決して飽きることがなかった。
透は毎日スケッチを描いた。そして夜、家に戻ってから、そのスケッチを元に絵を描いた。キャンバスに向かい、絵の具を使って。青と黄色と緑。それだけを使って。
透の目には、自分が塗っている色が見えなかった。全て灰色にしか見えなかった。だが透の心は、色を知っていた。ここは海の青、ここは空の青。ここは菜の花の黄色、ここは銀杏の黄色。心で色を感じながら、透は筆を動かした。
絵を描くという行為が、こんなにも喜びに満ちていたことを、透は思い出していた。色が見えないことは、もはや障害ではなかった。心が色を覚えていれば、それで十分だった。
絵が少しずつ増えていった。港の海、花畑、銀杏の木、公園の草、浜辺の空。全て青と黄色と緑で描かれた絵。透の部屋の壁に、それらの絵が並んでいった。灰色の世界で描かれた、色の記憶たち。
そしてシロの身体は、少しずつ透明になっていった。
最初は気づかないほど僅かだった。だが一週間が経ち、二週間が経つと、その変化は明らかだった。シロを抱き上げると、以前より軽く感じた。シロの身体を触ると、以前より実体感が薄く感じた。そして光にかざすと、シロの身体が僅かに透けて見えた。
透は恐怖を感じた。シロが消えていく。色を渡すたびに、シロが少しずつこの世界から離れていく。だがシロは相変わらず、透の傍らにいた。食事をし、眠り、透と一緒に散歩をした。まるで何も変わっていないかのように。
ある日の午後、透は桐谷動物病院を訪れた。静にシロを診てもらいたかった。
診察室で、静はシロを診察した。体温、心音、全てに異常はなかった。だが静はシロの身体を触りながら、困惑した表情を浮かべた。
「蒼井さん、シロちゃん、体重は変わっていないんです。でも……手に取ると、以前より軽く感じるんです。それに、何というか……実体が薄くなっているような」
透は静に全てを話した。シロが色の記憶を持つ猫であること。色を渡すたびにシロが透明になっていくこと。そして最後にはシロが消えてしまうこと。
静は黙って聞いていた。そして話が終わると、シロを優しく抱きしめた。
「なんて……なんて切ない」
静の目には涙が浮かんでいた。
「シロちゃんは、自分の存在を削りながら、蒼井さんに色を返しているんですね」
「はい。でも、俺には止められない。これはシロの使命だから」
「蒼井さん、あなたは辛くないですか」
「辛いです。毎日、シロが少しずつ消えていくのを見るのは、耐え難いです。でも……シロが望んでやっていることを、俺が止める権利はない」
静はシロを診察台に戻した。シロは静かに座り、透を見つめていた。
「ならば、今できることは、シロちゃんとの時間を大切にすることです。そして、シロちゃんが渡してくれる色を、しっかりと形にして残すことです」
「はい。絵に描いています。シロと見た全ての景色を」
「それは素晴らしい。その絵は、シロちゃんとの思い出になります。そして、シロちゃんが残してくれた贈り物になります」
透は頷いた。静の言葉が、少しだけ心を軽くしてくれた。
病院を出るとき、静は透の手を握った。その手は温かかった。
「蒼井さん、最後まで諦めないでください。もしかしたら、何か方法があるかもしれません」
透は静に礼を言って、病院を後にした。
それから数日後、透はシロを連れて山の奥へと向かった。シロが透を導くように、いつもと違う方向へ歩き始めたのだ。透はシロの後を追った。細い山道を登り、木々の間を抜けていく。
三十分ほど歩いた頃、視界が開けた。そこには小さな池があった。透はこの池を知らなかった。誰も知らない、隠れた場所なのだろう。周りを木々に囲まれ、静寂に包まれていた。
池の水面が、不思議な光を放っていた。透の目には灰色にしか見えなかったが、何か特別な場所のような気がした。空気が違う。まるで神聖な場所に来たかのような感覚があった。
シロは池のほとりに座り、水面を見つめた。透もシロの隣に座った。
そのとき、透の視界に色が流れ込んできた。それは今までとは違う色だった。
紫と藍。
池の水面が、深い紫と藍色に染まっていた。それは青よりも深く、神秘的な色だった。水の底まで続くような、深い深い色。空もまた、夕暮れの藍色に染まっていた。そして木々の影が濃い緑で、全てが幻想的な景色を作り出していた。
透は息を呑んだ。こんな色があったのか。青の仲間でありながら、こんなにも違う色。紫と藍。それは神秘と深遠の色だった。
だがその瞬間、透は気づいた。シロの身体が、以前よりもずっと透明になっていた。光を通して、向こう側の景色がはっきりと見える。もう半分以上、シロはこの世界から消えかけていた。
「シロ……」
透は震える手でシロを抱き上げた。シロの身体は驚くほど軽かった。まるで羽毛のように。もう少しで、完全に消えてしまいそうだった。
「これで……全ての色が揃ったのか」
透が問いかけると、シロは小さく鳴いた。その声も、以前より微かだった。そして透の手を舐めた。
透の目から涙が溢れた。シロはもう、ほとんど透明だった。あと少しで消えてしまう。
「シロ、待ってくれ。まだ一緒にいてくれ」
透は必死にシロを抱きしめた。だがシロの身体は、透の腕の中でどんどん薄くなっていくような気がした。
透は立ち上がり、シロを抱いて山を駆け下りた。家に帰らなければ。シロと一緒に、家に帰らなければ。
夕日が沈み始めていた。透の目には灰色の空にしか見えなかったが、心では色を感じていた。藍色から橙色へと変わる空。その美しさが、今は残酷に思えた。
家に着いたとき、既に日は完全に沈んでいた。透はシロを抱いたまま、リビングに座り込んだ。
シロの身体は、もうほとんど透明だった。輪郭だけが辛うじて見える程度。透の腕の中に、シロの温もりだけがあった。
「シロ……お前と出会えて、よかった。お前のおかげで、俺は色を取り戻した。世界を取り戻した。ありがとう」
シロは透の腕の中で、小さく鳴いた。その声は風のように微かだった。
窓の外では、星が瞬き始めていた。透はシロを抱きしめたまま、じっとしていた。このまま時が止まればいいのにと願った。でも時は容赦なく流れ、シロは少しずつ、確実に、この世界から消えようとしていた。
透はシロと共に、町の様々な場所を訪れるようになった。シロが色を渡してくれるのなら、その時間を大切にしようと決めたのだ。たとえ最後にシロが消えてしまうとしても、今この瞬間を共に生きたいと思った。
ただ一つ、不思議なことに気づいていた。あの夜、シロの身体から虹色の光が放たれたとき、透は全ての色を一瞬だけ見た。それはシロが百年の生涯で蓄えてきた色の記憶の全てだった。だが日常の中でシロが見せてくれる色は、主に青と黄色、そしてその混色である緑だった。まるでシロの視界そのものを、透が共有しているかのようだった。
猫は二色型色覚で、青と黄色を中心に世界を見ている。透はそのことを、以前どこかで読んだ記憶があった。シロが渡してくれているのは、シロ自身が今見ている世界の色なのだ。人間が見る虹色の世界ではなく、猫が見る青と黄色の世界。それは制限された色彩かもしれないが、だからこそ純粋で美しいのかもしれない。透はそう思い始めていた。
最初に訪れたのは、朝の港だった。
透はシロを抱いて、港の堤防に座った。時刻は午前六時。漁師たちが船の準備をしている。網を積み込む音、エンジンの音、男たちの掛け声。港は活気に満ちていた。夜明けの空気は冷たく、透は上着の襟を立てた。潮の香りが風に乗って運ばれてくる。
シロは透の膝の上で、じっと海を見つめていた。朝日に照らされた海面が、きらきらと光っている。透の目には全てが灰色に見えたが、シロの視線の先には何が見えているのだろう。透はシロの頭を優しく撫でながら、一緒に海を眺めた。
そのとき、透の視界に色が流れ込んできた。
深い、深い青。それは透が記憶していた群青色とは少し違った。もっと純粋で、もっと透明感のある青だった。海の表面は明るい青で、深い部分は濃い青。波の一つ一つが微妙に異なる青の濃淡を持ち、光を受けて輝いていた。まるで無数の青い宝石が散りばめられているようだった。
空もまた青だった。海よりも明るく、柔らかい青。そして朝日の当たる雲の縁が、淡い黄色に染まっていた。青と黄色。たったそれだけの色が、こんなにも豊かな世界を作り出している。透は息を呑んだ。
色が見える時間は、あの夜よりも長くなっていた。十秒ほど、透は色彩の世界を見ることができた。そして色が消えても、その記憶は鮮明に心に残った。透の網膜には灰色の世界が戻ったが、心の中には青い海が確かに存在していた。
「シロが見ている世界なんだな、これは」
透は小さく呟いた。シロは透を見上げて、一度鳴いた。その瞳は、まるで「そうだよ」と言っているかのようだった。
透はポケットから小さなスケッチブックと鉛筆を取り出した。そして今見た景色を描き始めた。海の輪郭、波の形、空と雲。色はつけられないが、形だけは残しておきたかった。そして心の中で、青と黄色を塗り重ねていった。鉛筆で描いた線の一本一本に、記憶の中の色を重ねていく。
港にいた老漁師が、透とシロに気づいて近づいてきた。日焼けした顔に深い皺を刻んだ、七十代くらいの男性だった。
「おう、兄ちゃん。猫連れて絵を描いてるのか」
「ええ、海がきれいだったので」
「そうだろう。この港の海は青が深いんだ。若い頃、画家が来て絵を描いていたこともあったよ」
老漁師は透のスケッチを覗き込んだ。
「うん、いい線だ。色をつけたら立派な絵になるだろう」
「ありがとうございます」
「その猫、茶トラか。可愛いな」
老漁師はシロの頭を撫でた。シロは目を細めて、喉を鳴らした。
「毎朝来るといい。この海を見てると、心が洗われるぞ」
老漁師はそう言い残して、船へと戻っていった。透はスケッチを仕上げると、シロを抱いてもうしばらく港に座っていた。
その日の午後、透はシロを連れて町外れの花畑へ向かった。この時期、菜の花が咲いているはずだった。透の祖母が生きていた頃、よく一緒に見に行った場所だ。
花畑に着くと、一面に花が広がっていた。透の目には灰色の花にしか見えなかったが、風に揺れるその姿は穏やかで美しかった。花畑の向こうには低い山並みが連なり、空は明るかった。透は深呼吸をした。花の香りが漂ってくる。
シロは透の腕から降りて、花畑の中を歩き始めた。花の間を縫うように、ゆっくりと歩いていく。時々立ち止まっては花を見上げ、また歩き出す。透もシロの後を追った。足元の土は柔らかく、歩くたびに花の香りが強くなった。
シロが一輪の花の前で立ち止まった。そして花を見つめた。透もまた、その花を見た。
その瞬間、世界が黄色に染まった。
眩しいほどの黄色。それは太陽の色であり、希望の色だった。一面の菜の花が、明るい黄色で輝いていた。花びらの一枚一枚が光を受けて、金色にも見える黄色を放っていた。透はその黄色の洪水に圧倒された。こんなにも明るい色があったのか。こんなにも温かい色があったのか。
そして花の茎や葉は、鮮やかな緑だった。黄色と緑のコントラストが、花畑を生き生きとしたものに見せていた。空は青く、その青と黄色と緑が、完璧な調和を作り出していた。三色だけの世界。だがその三色が、無限の豊かさを持っていた。
透は深く息を吸った。花の香りと共に、色が身体の中に入ってくるような感覚があった。美しかった。こんなにもシンプルな色の組み合わせが、こんなにも心を打つのか。
色が消えた後、透はその場に座り込んだ。シロが透の膝に乗ってきた。透はシロを抱きしめながら、スケッチブックを開いた。そして今見た花畑を描いた。一輪一輪の花、風に揺れる茎、遠くに見える山並み。描きながら、透は心の中で黄色を塗り重ねていった。
描きながら、透は思った。青と黄色と緑。たった三色だけで、世界はこんなにも豊かに見える。かつて透は、あらゆる色を使って絵を描いていた。でも今、この制限された色の方が、ずっと心に響く。不思議なことだった。
夕方、透はシロと神社へ向かった。町外れにある小さな神社で、境内には樹齢三百年を超える銀杏の木がある。秋も深まり、葉は色づいているはずだった。
神社に着くと、境内は静かだった。石段を上り、銀杏の木の前に立った。既に西日が傾き始めており、木々の影が長く伸びていた。
銀杏の木は大きく、枝を空いっぱいに広げていた。透の目には灰色の葉にしか見えなかったが、シロは木を見上げて、じっと見つめていた。透もまた、木を見上げた。
そのとき、木全体が黄金色の光に包まれた。
何千枚もの葉の、一枚一枚が黄色に輝いていた。明るい黄色、深い黄色、金色に近い黄色。様々な黄色が混ざり合い、木全体が巨大な黄色の塊となっていた。風が吹くと葉が揺れ、光の波が木全体を駆け抜けた。まるで木全体が呼吸をしているようだった。
透は圧倒された。これほどまでに美しい黄色があるのか。これほどまでに豊かな黄色があるのか。一つの色が、こんなにも多様な表情を持つのか。
空の青と、木の黄色。そのコントラストが鮮烈だった。まるで世界が、青と黄色だけで描かれた絵のようだった。そしてそれで十分だった。他の色は必要なかった。
色が消えても、透はしばらく木を見上げていた。心の中に、黄金色の残像が焼き付いていた。透の目から涙が溢れた。美しすぎて、胸が苦しかった。
「綺麗だろう」
背後から声がかけられた。振り返ると、神社の神主らしい老人が立っていた。
「この銀杏は樹齢三百年を超える。毎年秋になると、見事な黄色になる。青い空に黄色い木。それだけでこんなにも美しい」
「本当ですね」
「お前さん、絵を描いているのか」
神主は透のスケッチブックを指差した。
「ええ、まあ」
「ならばこの木を描くといい。青と黄色だけで、十分に美しい絵になるはずだ」
神主はシロに目を向けた。
「その猫、不思議な目をしておるな。猫は神の使いとも言われる。大切にするがよい」
神主はそう言い残して、社務所へと戻っていった。透はシロを抱いて、ベンチに座った。そしてスケッチブックを開き、銀杏の木を描いた。
それから毎日、透はシロと町のあちこちを訪れた。
早朝の公園では、朝露に濡れた草の緑を見た。シロが草むらを歩くと、透の視界に鮮やかな緑が広がった。それは青と黄色が混ざり合った、生命力に満ちた色だった。草の一本一本が異なる緑を持ち、朝日を受けてきらきらと輝いていた。
昼の浜辺では、空と海の青を見た。シロが波打ち際で水を見つめると、透は海の深い青と、浅瀬の明るい青と、空の柔らかい青を見た。青にもこんなに多くの種類があるのかと、透は驚いた。同じ青でも、深さや明るさによって、全く違う表情を見せる。
午後の丘では、タンポポの黄色を見た。シロが花を見つめると、小さな花が鮮やかな黄色で輝いた。そしてその周りの草が緑で、空が青だった。どこへ行っても、青と黄色と緑。だがその組み合わせは決して飽きることがなかった。
透は毎日スケッチを描いた。そして夜、家に戻ってから、そのスケッチを元に絵を描いた。キャンバスに向かい、絵の具を使って。青と黄色と緑。それだけを使って。
透の目には、自分が塗っている色が見えなかった。全て灰色にしか見えなかった。だが透の心は、色を知っていた。ここは海の青、ここは空の青。ここは菜の花の黄色、ここは銀杏の黄色。心で色を感じながら、透は筆を動かした。
絵を描くという行為が、こんなにも喜びに満ちていたことを、透は思い出していた。色が見えないことは、もはや障害ではなかった。心が色を覚えていれば、それで十分だった。
絵が少しずつ増えていった。港の海、花畑、銀杏の木、公園の草、浜辺の空。全て青と黄色と緑で描かれた絵。透の部屋の壁に、それらの絵が並んでいった。灰色の世界で描かれた、色の記憶たち。
そしてシロの身体は、少しずつ透明になっていった。
最初は気づかないほど僅かだった。だが一週間が経ち、二週間が経つと、その変化は明らかだった。シロを抱き上げると、以前より軽く感じた。シロの身体を触ると、以前より実体感が薄く感じた。そして光にかざすと、シロの身体が僅かに透けて見えた。
透は恐怖を感じた。シロが消えていく。色を渡すたびに、シロが少しずつこの世界から離れていく。だがシロは相変わらず、透の傍らにいた。食事をし、眠り、透と一緒に散歩をした。まるで何も変わっていないかのように。
ある日の午後、透は桐谷動物病院を訪れた。静にシロを診てもらいたかった。
診察室で、静はシロを診察した。体温、心音、全てに異常はなかった。だが静はシロの身体を触りながら、困惑した表情を浮かべた。
「蒼井さん、シロちゃん、体重は変わっていないんです。でも……手に取ると、以前より軽く感じるんです。それに、何というか……実体が薄くなっているような」
透は静に全てを話した。シロが色の記憶を持つ猫であること。色を渡すたびにシロが透明になっていくこと。そして最後にはシロが消えてしまうこと。
静は黙って聞いていた。そして話が終わると、シロを優しく抱きしめた。
「なんて……なんて切ない」
静の目には涙が浮かんでいた。
「シロちゃんは、自分の存在を削りながら、蒼井さんに色を返しているんですね」
「はい。でも、俺には止められない。これはシロの使命だから」
「蒼井さん、あなたは辛くないですか」
「辛いです。毎日、シロが少しずつ消えていくのを見るのは、耐え難いです。でも……シロが望んでやっていることを、俺が止める権利はない」
静はシロを診察台に戻した。シロは静かに座り、透を見つめていた。
「ならば、今できることは、シロちゃんとの時間を大切にすることです。そして、シロちゃんが渡してくれる色を、しっかりと形にして残すことです」
「はい。絵に描いています。シロと見た全ての景色を」
「それは素晴らしい。その絵は、シロちゃんとの思い出になります。そして、シロちゃんが残してくれた贈り物になります」
透は頷いた。静の言葉が、少しだけ心を軽くしてくれた。
病院を出るとき、静は透の手を握った。その手は温かかった。
「蒼井さん、最後まで諦めないでください。もしかしたら、何か方法があるかもしれません」
透は静に礼を言って、病院を後にした。
それから数日後、透はシロを連れて山の奥へと向かった。シロが透を導くように、いつもと違う方向へ歩き始めたのだ。透はシロの後を追った。細い山道を登り、木々の間を抜けていく。
三十分ほど歩いた頃、視界が開けた。そこには小さな池があった。透はこの池を知らなかった。誰も知らない、隠れた場所なのだろう。周りを木々に囲まれ、静寂に包まれていた。
池の水面が、不思議な光を放っていた。透の目には灰色にしか見えなかったが、何か特別な場所のような気がした。空気が違う。まるで神聖な場所に来たかのような感覚があった。
シロは池のほとりに座り、水面を見つめた。透もシロの隣に座った。
そのとき、透の視界に色が流れ込んできた。それは今までとは違う色だった。
紫と藍。
池の水面が、深い紫と藍色に染まっていた。それは青よりも深く、神秘的な色だった。水の底まで続くような、深い深い色。空もまた、夕暮れの藍色に染まっていた。そして木々の影が濃い緑で、全てが幻想的な景色を作り出していた。
透は息を呑んだ。こんな色があったのか。青の仲間でありながら、こんなにも違う色。紫と藍。それは神秘と深遠の色だった。
だがその瞬間、透は気づいた。シロの身体が、以前よりもずっと透明になっていた。光を通して、向こう側の景色がはっきりと見える。もう半分以上、シロはこの世界から消えかけていた。
「シロ……」
透は震える手でシロを抱き上げた。シロの身体は驚くほど軽かった。まるで羽毛のように。もう少しで、完全に消えてしまいそうだった。
「これで……全ての色が揃ったのか」
透が問いかけると、シロは小さく鳴いた。その声も、以前より微かだった。そして透の手を舐めた。
透の目から涙が溢れた。シロはもう、ほとんど透明だった。あと少しで消えてしまう。
「シロ、待ってくれ。まだ一緒にいてくれ」
透は必死にシロを抱きしめた。だがシロの身体は、透の腕の中でどんどん薄くなっていくような気がした。
透は立ち上がり、シロを抱いて山を駆け下りた。家に帰らなければ。シロと一緒に、家に帰らなければ。
夕日が沈み始めていた。透の目には灰色の空にしか見えなかったが、心では色を感じていた。藍色から橙色へと変わる空。その美しさが、今は残酷に思えた。
家に着いたとき、既に日は完全に沈んでいた。透はシロを抱いたまま、リビングに座り込んだ。
シロの身体は、もうほとんど透明だった。輪郭だけが辛うじて見える程度。透の腕の中に、シロの温もりだけがあった。
「シロ……お前と出会えて、よかった。お前のおかげで、俺は色を取り戻した。世界を取り戻した。ありがとう」
シロは透の腕の中で、小さく鳴いた。その声は風のように微かだった。
窓の外では、星が瞬き始めていた。透はシロを抱きしめたまま、じっとしていた。このまま時が止まればいいのにと願った。でも時は容赦なく流れ、シロは少しずつ、確実に、この世界から消えようとしていた。



