シロと暮らし始めて一週間が経った。
 透の生活は確実に変わっていた。朝は七時に起き、シロに餌を与え、自分も朝食を摂る。午前中は家の掃除をしたり、シロと庭で過ごしたりする。午後は散歩に出かけることもあった。以前のように一日中布団の中で過ごすことはなくなっていた。
 そして、色を見る頻度も増えていた。シロが窓の外を見つめるたび、シロが庭を歩くたび、透の視界に一瞬だけ色が走る。ほんの一瞬の出来事だったが、透はその瞬間を心待ちにするようになっていた。
 だが透は不安も感じていた。これは本当に自分の回復なのだろうか。それとも何か別の現象なのだろうか。もしシロに異常があるのなら、きちんと診てもらうべきではないのか。
 透はシロを動物病院に連れて行くことにした。町には一軒だけ動物病院があることを、近所のスーパーで見かけたチラシで知っていた。桐谷動物病院という名前だった。
 透はシロをキャリーケースに入れ、病院へと向かった。病院は町の中心部にある小さな建物で、白い壁に青い看板が掲げられていた。透の目には灰色の壁に灰色の看板にしか見えなかったが、きっと清潔な印象の建物なのだろう。

 扉を開けて中に入ると、受付に一人の女性がいた。四十代くらいだろうか。落ち着いた雰囲気を持つ女性で、透を見ると穏やかに微笑んだ。
「いらっしゃいませ。初めてですか」
「はい。猫を診てもらいたいのですが」
「わかりました。少々お待ちください」
 女性はカルテを用意し、透に名前や住所を尋ねた。透が答えると、女性は手早くカルテに記入していった。
「それでは診察室へどうぞ。私が獣医の桐谷です」
 透は驚いた。この女性が獣医だったのか。てっきり受付の人だと思っていた。桐谷静と名乗った女性は、透を診察室へと案内した。

 診察室は清潔で整頓されていた。診察台、医療器具、薬品棚。全てが適切に配置されている。透はシロをキャリーケースから出し、診察台の上に乗せた。
「この子、名前は」
「シロです」
「シロちゃんですね。どうされましたか」
 透は少し迷った。何と説明すればいいのだろう。シロが何かを見つめるとき、自分に色が見えるなどと言ったら、頭がおかしいと思われるだろうか。
「特に具合が悪いわけではないのですが……一週間前に拾った猫で、健康状態を確認したくて」
「なるほど。では一通り診察させていただきますね」
 静はシロを丁寧に診察し始めた。体温を測り、心音を聞き、口の中を見て、目を調べる。シロは大人しく、静に身を任せていた。静の手つきは慣れたもので、優しく確実にシロの身体を調べていった。

 診察が終わると、静は透に向かって言った。
「健康状態は良好です。栄養状態も問題ありません。生後三ヶ月くらいでしょうか。この子はオスですね」
「そうですか。よかった」
 透は安堵した。シロは健康なのだ。それならば、あの色の現象は自分の症状が回復しているだけなのかもしれない。
 だが静は、シロの顔を両手で包むようにして、その瞳を覗き込んでいた。しばらくじっとシロを見つめた後、静は不思議そうな表情を浮かべた。
「でも……」
「何かありますか」
「いえ、健康上の問題はありません。ただ、この子の目、普通じゃないですね」
 透の心臓が跳ねた。やはり何かあるのだろうか。
「どういうことですか」
「猫の瞳孔や虹彩には異常はありません。でも、この子の目を見ていると……まるで何か特別なものを見ているような気がするんです。獣医として二十年近く動物を診てきましたが、こんな目をした猫は初めて見ます。何と言うか……深い知性のようなものを感じるんです」
 透は黙っていた。静の言葉は、透が感じていたことと同じだった。シロの瞳には何か特別なものがある。それは透だけが感じているわけではなかったのだ。
「蒼井さん、この子と過ごしていて、何か不思議なことはありませんでしたか」
 静が尋ねた。透は迷った。正直に話すべきだろうか。だが静は真剣な表情で透を見ていた。この人になら話してもいいかもしれない。
「実は……シロが何かを見つめているとき、私の視界に一瞬だけ色が見えるんです」
「色、ですか」
「はい。私は二年前から心因性の色覚障害で、世界が灰色にしか見えないんです。でもシロと一緒にいると、一瞬だけ色が見える。シロが空を見れば青が見えて、シロが草を見れば緑が見える」
 透がそう説明すると、静は驚いた表情を見せた。だが否定はしなかった。むしろ真剣に透の話を聞いている。
「それは……いつからですか」
「シロを拾った翌日からです。最初は気のせいだと思っていましたが、毎日続いています」
 静はしばらく考え込んでいた。そして診察台の上のシロをもう一度見た。シロは静かに座り、二人のやり取りを聞いているかのようだった。
「不思議なことですね。医学的には説明がつきません。でも……動物には、私たちが理解できない力があると言われています。特に猫は古来から神秘的な存在とされてきました。もしかしたらシロちゃんは、蒼井さんにとって特別な猫なのかもしれません」
 静はそう言って、シロの頭を優しく撫でた。シロは目を細めて、喉を鳴らした。
「猫は人を癒すと言いますよね。ストレスを軽減し、心を落ち着かせる。もしかしたらシロちゃんは、蒼井さんの心を癒すことで、症状の回復を促しているのかもしれません」
「そう、なのでしょうか」
「断言はできません。でも、シロちゃんと過ごすことで蒼井さんの状態が良くなっているのなら、それは素晴らしいことです。どうか大切にしてあげてください」
 透は少しだけ気持ちが楽になった。静は透の話を信じてくれた。それだけで十分だった。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。シロちゃんは健康ですから、安心して一緒に暮らしてください。何かあればいつでも相談してくださいね」
 透はシロをキャリーケースに入れ、病院を後にした。家に帰る道すがら、透は静の言葉を反芻していた。シロは特別な猫なのかもしれない。そして自分を癒そうとしているのかもしれない。

 家に着いてシロをケースから出すと、シロは透の足元で伸びをした。透はシロを抱き上げ、その温かい身体を感じた。
「お前、本当に不思議な猫だな」
 シロは透の腕の中で小さく鳴いた。

 その夜、透の人生を変える出来事が起こった。
 透は眠れずにいた。ベッドの中で寝返りを打ちながら、今日の出来事を考えていた。静の言葉、シロの瞳、そして自分に見える色のこと。シロは本当に自分を癒そうとしているのだろうか。だとしたら、シロにとって負担にはならないのだろうか。
 時計を見ると、午前二時を回っていた。透は諦めてベッドから出た。リビングへ行き、水を一杯飲もうと思った。
リビングに入ると、シロが窓の外を見つめていた。月明かりの中、シロの姿がぼんやりと浮かび上がっている。透はシロに近づこうとして、足を止めた。
 シロの身体が、淡く光っていた。
 透は息を呑んだ。これは幻覚だろうか。だがシロは確かに発光していた。柔らかな、優しい光。月明かりとは違う、内側から放たれているような光。透は声も出せずに、その場に立ち尽くした。
 そしてシロの周りに、色の粒子が浮かび上がった。
 青、黄、緑、橙、赤、紫、藍。虹を構成する全ての色が、小さな光の粒となってシロの身体を包んでいた。それはまるで蛍の光のようでもあり、オーロラのようでもあった。粒子はゆっくりと舞い、シロの周囲に幻想的な光景を作り出していた。
 透は足が竦んで動けなかった。これは夢なのだろうか。それとも現実なのだろうか。だが透の理性は、これが現実であることを告げていた。
 色の粒子は次第に大きくなり、明るくなっていった。そしてシロの身体から離れ、空中を漂い始めた。粒子は透の方へと流れてきた。透は思わず後ずさりしようとしたが、身体が動かなかった。恐怖ではなかった。畏怖に近い感情が、透を縛り付けていた。
 色の粒子が透の身体に触れた。
 その瞬間、透の視界が一変した。世界が色で満たされた。窓の外の夜空は深い藍色で、月は白銀色に輝いていた。庭の木々は濃い緑で、地面は茶色だった。部屋の中の家具も、壁も、全てが本来の色を取り戻していた。そしてシロは、美しい茶色と橙色のストライプ模様をしていた。
透は声も出なかった。二年ぶりに見る完全な色彩の世界。それは圧倒的だった。美しく、鮮やかで、生命に溢れていた。透の目から涙が溢れた。こんなにも世界は色に満ちていたのか。こんなにも美しかったのか。
 だが色の世界は長くは続かなかった。十数秒後、色の粒子はシロの身体へと戻り始めた。粒子は空中を舞いながら、ゆっくりとシロの周りに集まっていった。そしてシロの身体に吸い込まれるように消えていった。シロの発光も徐々に弱まり、やがて完全に消えた。
 透の視界は再び灰色に戻った。
 透はその場に崩れ落ちた。膝をつき、床に両手をついた。心臓が激しく打っている。息が荒い。今のは何だったのだろう。夢ではない。確かに現実に起こったことだ。
 シロが透の方へ歩いてきた。そして透の手に頭を擦り付けた。透は震える手でシロに触れた。シロの身体は温かかった。生きている。確かに生きている。
「シロ……お前は……一体……」
 透が震える声で問いかけると、シロは透を見上げた。その瞳には、深い知性が宿っていた。そして何か、使命のようなものを感じさせる真剣さがあった。
 そのとき、透の心の中に言葉が流れ込んできた。それは声ではなかった。言語でもなかった。ただ、理解が直接心に届いた。シロからのメッセージだった。
『私は色の記憶を持つ猫』
 透は息を呑んだ。シロが、心の中で語りかけてきている。
『私は前世で、百年以上を生きた。その長い生涯で見た無数の色彩を、魂に刻み込んできた。世界の全ての色を、私は記憶している』
 透は黙ってシロを見つめた。シロもまた、透を見つめ返している。
『そして私は、色を失った人間を探し、その色の記憶を分け与える使命を持って生まれ変わった。あなたは色を失い、世界から切り離されてしまった。私はあなたを再び世界と繋げる』
 透の目から涙が溢れた。シロは自分を救おうとしているのだ。色を返そうとしているのだ。
『私はあなたに、少しずつ色を渡していく。あなたの心が受け入れられる速度で。焦る必要はない。時間をかけて、全ての色を取り戻せばいい』
 透は喜びを感じた。色が戻る。世界が戻る。絵が描ける。だが次の瞬間、シロから伝わってきた言葉に、透は凍りついた。
『しかし、色の記憶の譲渡は一度きり。私があなたに全ての色を渡したとき、私の使命は終わる。私は次の生へと旅立つ』
 透の心臓が止まりそうになった。
「次の生へ……それは……」
『私は消える。この身体を離れ、また別の場所で、別の姿で生まれ変わる。あなたと過ごした記憶も、全て忘れる。それが、色を渡す代償』
 透は頭を振った。そんなことは受け入れられない。シロが消える。シロがいなくなる。それは嫌だ。
「待ってくれ。色なんていらない。お前がいてくれればいい」
 透は必死にシロに訴えた。だがシロは静かに透を見つめるだけだった。
『あなたは色を必要としている。色を失ったあなたは、生きる意味を失った。私はそれを取り戻す。それが私の使命』
「でも、お前は……お前は消えてしまうんだろう。そんなの……」
 透は言葉に詰まった。喉が締め付けられるようだった。たった一週間しか一緒にいないシロ。だが透にとって、シロはもう欠かせない存在になっていた。朝起きて最初に会う相手。食事の時に傍にいてくれる存在。夜、枕元で眠る温かい命。
「お前……消えてしまうのか……」
 透の声は震えていた。シロは透の膝の上に乗った。そして透の顔を見上げた。その瞳は優しかった。悲しみも、後悔も、そこにはなかった。ただ穏やかな決意だけがあった。
 シロは透の手を、優しく舐めた。
 その感触に、透は泣き崩れた。声を上げて泣いた。二年間、色を失ってから一度も泣かなかった透が、初めて感情を爆発させた。シロを抱きしめながら、透は泣いた。
 シロは透の腕の中で、じっと動かなかった。ただ温かい身体で、透の悲しみを受け止めていた。

 どれくらい時間が経ったのだろう。透の涙が枯れた頃、外が少しずつ明るくなり始めていた。夜明けが近づいている。
 透はシロを見た。シロは透の腕の中で、静かに目を閉じていた。眠っているのだろうか。透はシロの頭を優しく撫でた。
「シロ……俺は、どうすればいい」
 透は囁いた。答えは返ってこなかった。ただシロの寝息だけが聞こえた。
 透は窓の外を見た。空が少しずつ明るくなっている。灰色の空。だが透には、もうそれが本当は何色なのかわかっていた。藍色から、次第に明るい青へと変わっていく空。
透の心は混乱していた。色を取り戻したい。絵を描きたい。でもシロを失いたくない。この小さな命と、もっと一緒にいたい。
 だがシロの使命は、既に始まっている。シロは少しずつ、透に色を渡し始めている。そしてそれが完了した時、シロは消える。
 透は決断を迫られていた。このままシロに色を渡してもらうのか。それとも、色を諦めてシロと一緒にいることを選ぶのか。
 しかし透には、まだわかっていないことがあった。もし色を受け取ることを拒否したら、シロはどうなるのだろう。シロの使命は果たされないまま終わるのだろうか。それはシロにとって良いことなのだろうか。
 透はシロを抱きしめた。シロの温かさ、柔らかさ、鼓動。全てが愛おしかった。
「もう少し、一緒にいてくれ。もう少しだけ……」
 透は囁いた。シロは眠ったまま、小さく喉を鳴らした。まるで「わかった」と言っているかのように。
 朝日が昇り始めた。窓から差し込む光が、リビングを照らした。透の目には灰色の光にしか見えなかったが、心の中には昨夜見た色彩の記憶が鮮やかに残っていた。
 そして透は知っていた。シロと過ごせる時間は、限られている。色を全て受け取ったとき、シロは消える。だから今、この瞬間を大切にしなければならない。
 透はシロを抱いたまま、朝日を見つめた。新しい一日が始まろうとしていた。色のない世界で、でも心に色を持って、透とシロは生きていく。限られた時間を、精一杯に。