雨が窓を叩いていた。
蒼井透は薄暗い部屋の中で、ぼんやりと天井を見上げながら横になっていた。時刻は午後三時を回ったところだが、厚い雨雲に覆われた空は夕暮れのような薄明かりしか届けてくれない。布団から出る気力もなく、ただ天井の染みを眺めていた。
ここ数日、いや数週間、こうして過ごしていた。朝起きて適当に食事を済ませ、また横になる。時々散歩に出ることもあったが、それも気が向いたときだけのことだ。絵を描く気にはなれなかった。いや、正確に言えば描けなかった。
世界が灰色にしか映らなかった。
窓の外の海も、空も、木々も、全てが無彩色のグラデーションだけで構成されている。二年前までは違った。世界は色彩に溢れていた。鮮やかな青、眩しい黄色、深い赤。それらの色を自由に操り、キャンバスの上に世界を創り出すことが生きがいだった。
洋画家として、それなりに成功していた。東京の画廊で個展を開けば必ず何点かは売れたし、美術雑誌に取り上げられることもあった。特に風景画は「色彩の魔術師」と評されるほど鮮烈な印象を与えた。青と緑を基調とした海の絵、赤と橙で染められた夕焼けの絵。作品は見る者の心を揺さぶった。
しかし二年前、全てが変わった。
締め切りに追われ、画廊との契約に縛られ、妻との関係も冷え切っていた。そんな中で制作した作品が酷評されたとき、心は折れた。そしてある朝目覚めると、世界から色が消えていた。
最初は目の錯覚だと思った。だが何日経っても色は戻らなかった。眼科を受診したが眼球には異常がないと言われた。次に大学病院で精密検査を受けたが、やはり器質的な問題は見つからなかった。最終的に心療内科を紹介され、そこで告げられた診断は「心因性の色覚障害」だった。
ストレスによって、脳が色を認識する機能を失ったのだという。治療法はあるが時間がかかる。焦らずにゆっくりと心を休めることが大切だと医師は言った。
だがゆっくり休む余裕などなかった。次の個展の準備があった。画廊との契約があった。生活費を稼がなければならなかった。無理に絵を描こうとした。灰色の世界を見ながら、記憶の中の色を頼りに筆を動かした。だが描けば描くほど、自分の絵が嘘臭く感じられた。色を感じられない人間が色を描く資格などあるのだろうか。
結局、筆を折った。画廊との契約を解除し、アトリエを引き払った。そして妻は、そんな姿に愛想を尽かして出て行った。
「あなたはもう画家じゃない。ただの抜け殻よ」
妻が最後に残した言葉が、今でも耳に残っている。
東京にいる理由を失い、亡くなった祖母の家があるこの海辺の小さな町へ移り住んだ。祖母が生前暮らしていた古い一軒家は、誰も住まないまま数年間放置されていた。簡単な掃除をして必要最小限の家具を揃え、そこで暮らし始めた。
それから半年が経った。生活は変わらなかった。色のない世界で目的もなく日々を過ごす。貯金は少しずつ減っていたが、気にする気力もなかった。このまま消えていってもいいと思うことさえあった。
雨音が少し強くなった。身体を起こし、窓辺へと歩いた。外は既に薄暗く、街灯が灰色の光を放っている。窓ガラスに額を押し当て、雨に打たれる庭を眺めた。誰の手入れもされない庭は荒れ放題で、雑草が伸び放題になっていた。
そのとき、玄関の方から細い鳴き声が聞こえた。
「みゃあ」
眉をひそめた。猫の声だ。こんな雨の中、何をしているのだろう。玄関へと向かい、ドアを開けた。
そこには、ずぶ濡れになった小さな猫がいた。
灰色の毛並みをした、まだ幼い猫だった。灰色にしか見えないが、おそらく何か別の色なのだろう。猫は見上げて、もう一度鳴いた。
「みゃあ」
無言で猫を見下ろした。猫は動かなかった。雨に打たれながら、ただじっと見つめている。その瞳には妙な光があった。灰色がかった黄色に見えたが、もしかしたら琥珀色なのかもしれない。
「どこかへ行け」
冷たく言い放った。猫を飼う余裕も気力もない。それに色のない世界で猫を飼ったところで、何の意味があるのだろう。自分は何の世話もできない。自分の人生すらまともに管理できていないのだから。
だが猫は動かなかった。尻尾を足に巻きつけ、小さく震えながら、それでも目を離さない。ため息をついてドアを閉めようとした。
そのとき、猫が一歩前に出た。そして足元にぺたりと座り込んだ。
困惑した。追い払おうとしても動かない。このまま放っておけば雨に打たれて死んでしまうかもしれない。数秒間逡巡した後、諦めたように猫を抱き上げた。
猫の身体は冷たく、そして軽かった。家の中に入れ、ドアを閉めた。
「一晩だけだぞ」
猫に言い聞かせた。猫は腕の中で小さく鳴いた。
洗面所へ行き、タオルを一枚取り出した。そして猫を床に下ろし、濡れた身体を拭いてやった。猫は大人しく、されるがままになっていた。丁寧に拭いていくと、猫の毛並みが少しふわりとした。
「お前、捨てられたのか」
尋ねると、猫は小さく鳴いた。猫の頭を軽く撫でた。自分と同じだ、と思った。この猫も居場所を失った存在なのだ。
台所へ行き、冷蔵庫を開けた。猫に与えられそうな食べ物を探したが、適当なものが見つからなかった。結局、魚肉ソーセージを小さく切って皿に乗せた。それを猫の前に置くと、猫は勢いよく食べ始めた。
「腹が減っていたんだな」
猫を見ながら、少しだけ表情を緩めた。猫は夢中で食事を続けている。それを見守りながら、ふと思った。この猫をこのまま飼ってしまおうかと。
いや、何を考えているのだ。自分の考えを打ち消した。何かを世話する資格などない。だがその夜、猫を追い出さなかった。猫は食事を終えると居間の隅で丸くなって眠り始めた。布団に入った。雨音は相変わらず続いていたが、なぜか今夜は少しだけ心が落ち着いていた。不思議なことだった。
翌朝、珍しく早い時間に目が覚めた。時計を見ると午前七時を少し回ったところだった。身体を起こし、部屋を見回した。そして思い出した。昨夜、猫を拾ったのだ。
猫はどこだろう。部屋を出て居間へ向かった。すると猫は窓辺に座って外を見ていた。雨は上がっており、朝日が雲の切れ間から差し込んでいた。
「おはよう」
声をかけると、猫は振り返って鳴いた。そして再び窓の外へと視線を戻した。猫の隣に腰を下ろし、一緒に外を眺めた。
庭には雨に濡れた草木があった。それらが全て灰色に見えた。空も、海も、木々も。世界は相変わらず色を失っていた。灰色のグラデーションだけで構成された、平坦で退屈な世界。
だがそのとき、奇妙なことが起こった。
猫が窓の外を見つめているとき、視界の端に一瞬だけ鮮やかな色が走った。それは橙色だった。眩しいほどに鮮やかな、暖かい橙色。驚いて目を見開いた。
「今の……」
慌てて窓の外を見たが、そこには灰色の世界が広がっているだけだった。橙色はもうどこにもなかった。自分の目をこすった。気のせいだろうか。それとも目の調子が戻りかけているのだろうか。
猫は相変わらず窓の外を見つめていた。もう一度猫を見た。灰色の毛並みをした小さな猫。その姿には特に変わったところはなかった。
「気のせいか……」
小さく呟いた。そして立ち上がり、台所へと向かった。猫の朝食を用意しなければならない。昨夜と同じように魚肉ソーセージを切って皿に乗せた。それを居間に持っていくと、猫は喜んで食べ始めた。
猫を見ながら、ふと思った。この猫に名前をつけるべきだろうか。いや、一晩だけの約束だったはずだ。だがもう朝になってしまった。逡巡した後、決めた。
「お前、シロって名前でいいか」
猫は食事の手を止めて見上げた。そして一度鳴いた。苦笑した。灰色に見えるから「シロ」。安直な名前だが、それでいい。
「よし、シロ。とりあえず、もう少しここにいてもいいぞ」
そう言うと、シロは再び食事を始めた。その様子を見ながら、久しぶりに穏やかな気持ちになっていることに気づいた。半年ぶりのことだった。
それからの数日間、シロとの奇妙な共同生活が続いた。近所のスーパーでキャットフードを買い、シロに与えた。シロは後をついて回り、座ればその傍らに座り、寝れば枕元で丸くなった。
少しずつシロの存在に慣れていった。朝起きればシロがいて、食事をすればシロも食事をする。散歩に出ればシロもついてくる。そんな規則正しい生活が、小さなリズムを与えた。気づかなかったが、自分の生活が少しずつ変わり始めていた。起床時間が早くなり、食事も三食きちんと摂るようになっていた。
そして不思議なことがあった。シロが何かを見つめているとき、視界に一瞬だけ色が走るのだ。
最初に橙色を見た翌日、シロと一緒に庭に出た。シロは庭の木を見上げていた。その時、視界に一瞬だけ黄色が走った。鮮やかな、まぶしいような黄色。次の瞬間にはまた灰色に戻った。
その翌日、シロは窓から海を見つめていた。海を見た。すると一瞬だけ、深い青が見えた。懐かしい群青色。心臓が高鳴った。
それから毎日、小さな色を目撃した。シロが空を見れば青が見えた。シロが草を見れば緑が見えた。シロが夕焼けを見れば茜色が見えた。ほんの一瞬、まばたきをする間だけの出来事だったが、確かに色を見た。
混乱していた。これは何なのだろう。症状が回復しかけているのだろうか。それともただの幻覚なのだろうか。だが不思議なことに、色が見えるのはシロが何かを見つめているときだけだった。シロが眠っているときや、シロが目を閉じているとき、世界は灰色のままだった。
ある日の午後、縁側に座ってシロを観察していた。シロは庭を歩き回り、草や石や木を見ていた。そのたびに視界に色が走った。黄色、緑、茶色、青。ほんの一瞬ずつだったが、確かに色があった。
もしかして、シロが見ているものを、自分も少しだけ共有しているのだろうか。猫の視界を、自分も垣間見ているのだろうか。そんなことがあり得るのだろうか。
自分の考えを打ち消した。そんなことはあり得ない。猫と人間が視界を共有するなど、おとぎ話の世界だ。きっと症状が少しずつ回復しているだけなのだ。シロと暮らし始めて心が落ち着き、それが治療につながっているのだろう。
だが心のどこかで、別の可能性を感じていた。この猫は普通の猫ではないのではないか。何か特別な力を持っているのではないか。
その日の夕方、シロを抱いて庭に出た。空は夕焼けに染まっていた。灰色にしか見えなかったが、きっと美しい茜色なのだろう。
シロは腕の中で空を見上げていた。空を見た。すると一瞬だけ、世界が色づいた。茜色の空、黄金色の雲、深い青の海。それらが一瞬だけ目に映り、そして消えた。
息を呑んだ。美しかった。二年ぶりに見る色彩は、記憶の中のものよりもずっと鮮やかで、ずっと温かかった。目から涙が溢れた。
「シロ……お前は……」
シロに問いかけると、シロは腕の中で小さく鳴いた。そしてその瞳で、まっすぐに見つめた。灰色がかった黄色の瞳。だがその奥に、何か深い知性のようなものが宿っているような気がした。
シロを抱きしめた。この小さな生き物が、自分に何かを与えようとしている。色を、希望を、生きる理由を。まだ何が起こっているのか理解できなかったが、一つだけ確かなことがあった。
シロと出会ってから、世界が少しだけ優しくなった。
シロを抱いたまま、しばらく庭に立っていた。夕焼けは次第に暗くなり、やがて夜の帳が降りてきた。全てが灰色に見えたが、心の中には小さな色が灯っていた。
その夜、久しぶりに深い眠りについた。シロは枕元で丸くなり、静かな寝息を立てていた。窓の外では星が灰色の光を放っていたが、夢の中では色とりどりの世界が広がっていた。青い海、黄色い太陽、緑の草原、そしてシロ。灰色ではない、本当の色をしたシロが、夢の中で微笑みかけていた。
蒼井透は薄暗い部屋の中で、ぼんやりと天井を見上げながら横になっていた。時刻は午後三時を回ったところだが、厚い雨雲に覆われた空は夕暮れのような薄明かりしか届けてくれない。布団から出る気力もなく、ただ天井の染みを眺めていた。
ここ数日、いや数週間、こうして過ごしていた。朝起きて適当に食事を済ませ、また横になる。時々散歩に出ることもあったが、それも気が向いたときだけのことだ。絵を描く気にはなれなかった。いや、正確に言えば描けなかった。
世界が灰色にしか映らなかった。
窓の外の海も、空も、木々も、全てが無彩色のグラデーションだけで構成されている。二年前までは違った。世界は色彩に溢れていた。鮮やかな青、眩しい黄色、深い赤。それらの色を自由に操り、キャンバスの上に世界を創り出すことが生きがいだった。
洋画家として、それなりに成功していた。東京の画廊で個展を開けば必ず何点かは売れたし、美術雑誌に取り上げられることもあった。特に風景画は「色彩の魔術師」と評されるほど鮮烈な印象を与えた。青と緑を基調とした海の絵、赤と橙で染められた夕焼けの絵。作品は見る者の心を揺さぶった。
しかし二年前、全てが変わった。
締め切りに追われ、画廊との契約に縛られ、妻との関係も冷え切っていた。そんな中で制作した作品が酷評されたとき、心は折れた。そしてある朝目覚めると、世界から色が消えていた。
最初は目の錯覚だと思った。だが何日経っても色は戻らなかった。眼科を受診したが眼球には異常がないと言われた。次に大学病院で精密検査を受けたが、やはり器質的な問題は見つからなかった。最終的に心療内科を紹介され、そこで告げられた診断は「心因性の色覚障害」だった。
ストレスによって、脳が色を認識する機能を失ったのだという。治療法はあるが時間がかかる。焦らずにゆっくりと心を休めることが大切だと医師は言った。
だがゆっくり休む余裕などなかった。次の個展の準備があった。画廊との契約があった。生活費を稼がなければならなかった。無理に絵を描こうとした。灰色の世界を見ながら、記憶の中の色を頼りに筆を動かした。だが描けば描くほど、自分の絵が嘘臭く感じられた。色を感じられない人間が色を描く資格などあるのだろうか。
結局、筆を折った。画廊との契約を解除し、アトリエを引き払った。そして妻は、そんな姿に愛想を尽かして出て行った。
「あなたはもう画家じゃない。ただの抜け殻よ」
妻が最後に残した言葉が、今でも耳に残っている。
東京にいる理由を失い、亡くなった祖母の家があるこの海辺の小さな町へ移り住んだ。祖母が生前暮らしていた古い一軒家は、誰も住まないまま数年間放置されていた。簡単な掃除をして必要最小限の家具を揃え、そこで暮らし始めた。
それから半年が経った。生活は変わらなかった。色のない世界で目的もなく日々を過ごす。貯金は少しずつ減っていたが、気にする気力もなかった。このまま消えていってもいいと思うことさえあった。
雨音が少し強くなった。身体を起こし、窓辺へと歩いた。外は既に薄暗く、街灯が灰色の光を放っている。窓ガラスに額を押し当て、雨に打たれる庭を眺めた。誰の手入れもされない庭は荒れ放題で、雑草が伸び放題になっていた。
そのとき、玄関の方から細い鳴き声が聞こえた。
「みゃあ」
眉をひそめた。猫の声だ。こんな雨の中、何をしているのだろう。玄関へと向かい、ドアを開けた。
そこには、ずぶ濡れになった小さな猫がいた。
灰色の毛並みをした、まだ幼い猫だった。灰色にしか見えないが、おそらく何か別の色なのだろう。猫は見上げて、もう一度鳴いた。
「みゃあ」
無言で猫を見下ろした。猫は動かなかった。雨に打たれながら、ただじっと見つめている。その瞳には妙な光があった。灰色がかった黄色に見えたが、もしかしたら琥珀色なのかもしれない。
「どこかへ行け」
冷たく言い放った。猫を飼う余裕も気力もない。それに色のない世界で猫を飼ったところで、何の意味があるのだろう。自分は何の世話もできない。自分の人生すらまともに管理できていないのだから。
だが猫は動かなかった。尻尾を足に巻きつけ、小さく震えながら、それでも目を離さない。ため息をついてドアを閉めようとした。
そのとき、猫が一歩前に出た。そして足元にぺたりと座り込んだ。
困惑した。追い払おうとしても動かない。このまま放っておけば雨に打たれて死んでしまうかもしれない。数秒間逡巡した後、諦めたように猫を抱き上げた。
猫の身体は冷たく、そして軽かった。家の中に入れ、ドアを閉めた。
「一晩だけだぞ」
猫に言い聞かせた。猫は腕の中で小さく鳴いた。
洗面所へ行き、タオルを一枚取り出した。そして猫を床に下ろし、濡れた身体を拭いてやった。猫は大人しく、されるがままになっていた。丁寧に拭いていくと、猫の毛並みが少しふわりとした。
「お前、捨てられたのか」
尋ねると、猫は小さく鳴いた。猫の頭を軽く撫でた。自分と同じだ、と思った。この猫も居場所を失った存在なのだ。
台所へ行き、冷蔵庫を開けた。猫に与えられそうな食べ物を探したが、適当なものが見つからなかった。結局、魚肉ソーセージを小さく切って皿に乗せた。それを猫の前に置くと、猫は勢いよく食べ始めた。
「腹が減っていたんだな」
猫を見ながら、少しだけ表情を緩めた。猫は夢中で食事を続けている。それを見守りながら、ふと思った。この猫をこのまま飼ってしまおうかと。
いや、何を考えているのだ。自分の考えを打ち消した。何かを世話する資格などない。だがその夜、猫を追い出さなかった。猫は食事を終えると居間の隅で丸くなって眠り始めた。布団に入った。雨音は相変わらず続いていたが、なぜか今夜は少しだけ心が落ち着いていた。不思議なことだった。
翌朝、珍しく早い時間に目が覚めた。時計を見ると午前七時を少し回ったところだった。身体を起こし、部屋を見回した。そして思い出した。昨夜、猫を拾ったのだ。
猫はどこだろう。部屋を出て居間へ向かった。すると猫は窓辺に座って外を見ていた。雨は上がっており、朝日が雲の切れ間から差し込んでいた。
「おはよう」
声をかけると、猫は振り返って鳴いた。そして再び窓の外へと視線を戻した。猫の隣に腰を下ろし、一緒に外を眺めた。
庭には雨に濡れた草木があった。それらが全て灰色に見えた。空も、海も、木々も。世界は相変わらず色を失っていた。灰色のグラデーションだけで構成された、平坦で退屈な世界。
だがそのとき、奇妙なことが起こった。
猫が窓の外を見つめているとき、視界の端に一瞬だけ鮮やかな色が走った。それは橙色だった。眩しいほどに鮮やかな、暖かい橙色。驚いて目を見開いた。
「今の……」
慌てて窓の外を見たが、そこには灰色の世界が広がっているだけだった。橙色はもうどこにもなかった。自分の目をこすった。気のせいだろうか。それとも目の調子が戻りかけているのだろうか。
猫は相変わらず窓の外を見つめていた。もう一度猫を見た。灰色の毛並みをした小さな猫。その姿には特に変わったところはなかった。
「気のせいか……」
小さく呟いた。そして立ち上がり、台所へと向かった。猫の朝食を用意しなければならない。昨夜と同じように魚肉ソーセージを切って皿に乗せた。それを居間に持っていくと、猫は喜んで食べ始めた。
猫を見ながら、ふと思った。この猫に名前をつけるべきだろうか。いや、一晩だけの約束だったはずだ。だがもう朝になってしまった。逡巡した後、決めた。
「お前、シロって名前でいいか」
猫は食事の手を止めて見上げた。そして一度鳴いた。苦笑した。灰色に見えるから「シロ」。安直な名前だが、それでいい。
「よし、シロ。とりあえず、もう少しここにいてもいいぞ」
そう言うと、シロは再び食事を始めた。その様子を見ながら、久しぶりに穏やかな気持ちになっていることに気づいた。半年ぶりのことだった。
それからの数日間、シロとの奇妙な共同生活が続いた。近所のスーパーでキャットフードを買い、シロに与えた。シロは後をついて回り、座ればその傍らに座り、寝れば枕元で丸くなった。
少しずつシロの存在に慣れていった。朝起きればシロがいて、食事をすればシロも食事をする。散歩に出ればシロもついてくる。そんな規則正しい生活が、小さなリズムを与えた。気づかなかったが、自分の生活が少しずつ変わり始めていた。起床時間が早くなり、食事も三食きちんと摂るようになっていた。
そして不思議なことがあった。シロが何かを見つめているとき、視界に一瞬だけ色が走るのだ。
最初に橙色を見た翌日、シロと一緒に庭に出た。シロは庭の木を見上げていた。その時、視界に一瞬だけ黄色が走った。鮮やかな、まぶしいような黄色。次の瞬間にはまた灰色に戻った。
その翌日、シロは窓から海を見つめていた。海を見た。すると一瞬だけ、深い青が見えた。懐かしい群青色。心臓が高鳴った。
それから毎日、小さな色を目撃した。シロが空を見れば青が見えた。シロが草を見れば緑が見えた。シロが夕焼けを見れば茜色が見えた。ほんの一瞬、まばたきをする間だけの出来事だったが、確かに色を見た。
混乱していた。これは何なのだろう。症状が回復しかけているのだろうか。それともただの幻覚なのだろうか。だが不思議なことに、色が見えるのはシロが何かを見つめているときだけだった。シロが眠っているときや、シロが目を閉じているとき、世界は灰色のままだった。
ある日の午後、縁側に座ってシロを観察していた。シロは庭を歩き回り、草や石や木を見ていた。そのたびに視界に色が走った。黄色、緑、茶色、青。ほんの一瞬ずつだったが、確かに色があった。
もしかして、シロが見ているものを、自分も少しだけ共有しているのだろうか。猫の視界を、自分も垣間見ているのだろうか。そんなことがあり得るのだろうか。
自分の考えを打ち消した。そんなことはあり得ない。猫と人間が視界を共有するなど、おとぎ話の世界だ。きっと症状が少しずつ回復しているだけなのだ。シロと暮らし始めて心が落ち着き、それが治療につながっているのだろう。
だが心のどこかで、別の可能性を感じていた。この猫は普通の猫ではないのではないか。何か特別な力を持っているのではないか。
その日の夕方、シロを抱いて庭に出た。空は夕焼けに染まっていた。灰色にしか見えなかったが、きっと美しい茜色なのだろう。
シロは腕の中で空を見上げていた。空を見た。すると一瞬だけ、世界が色づいた。茜色の空、黄金色の雲、深い青の海。それらが一瞬だけ目に映り、そして消えた。
息を呑んだ。美しかった。二年ぶりに見る色彩は、記憶の中のものよりもずっと鮮やかで、ずっと温かかった。目から涙が溢れた。
「シロ……お前は……」
シロに問いかけると、シロは腕の中で小さく鳴いた。そしてその瞳で、まっすぐに見つめた。灰色がかった黄色の瞳。だがその奥に、何か深い知性のようなものが宿っているような気がした。
シロを抱きしめた。この小さな生き物が、自分に何かを与えようとしている。色を、希望を、生きる理由を。まだ何が起こっているのか理解できなかったが、一つだけ確かなことがあった。
シロと出会ってから、世界が少しだけ優しくなった。
シロを抱いたまま、しばらく庭に立っていた。夕焼けは次第に暗くなり、やがて夜の帳が降りてきた。全てが灰色に見えたが、心の中には小さな色が灯っていた。
その夜、久しぶりに深い眠りについた。シロは枕元で丸くなり、静かな寝息を立てていた。窓の外では星が灰色の光を放っていたが、夢の中では色とりどりの世界が広がっていた。青い海、黄色い太陽、緑の草原、そしてシロ。灰色ではない、本当の色をしたシロが、夢の中で微笑みかけていた。



