『――未だ犯人はいまだ特定されておりません』
世間を騒がせている凄惨な事件。テレビをつければコメンテーターの元刑事という男が険しい表情で持論を繰り広げている。
花江菫(はなえすみれ)は嘆息するとテレビの電源を落とした。この三か月で三人もの命が失われている。被害にあっているのは自分と同じ職業の女性ばかりだ。郷里の母親からも身を案じる電話がかかってきたし、職場でも注意喚起がされた。しかしこんな異常事態に身を置いていてもどこか別の世界で起こっているような決して自分の身に降りかかることのない出来事なのだと漠然とそう思っていたのだ。
あの時までは……。
朝5時。菫は日課にしているジョギングを始めた。夜が明ける少し前。東の空がほんのりと色づき始めるのを見ながら朝の澄んだ空気を吸い込むと体中の細胞が目を覚ます感じがする。もともと運動は苦手で長く続かないだろうと思っていたのだが、すっかり習慣となってしまった。
顔なじみの老夫婦やビションフリーゼを連れている年配の女性と挨拶を交わし、緩やかな坂道を上る。すると徐々に石造りの鳥居が見えてきた。この神社が創建されたのは江戸時代で御神木の欅は樹齢三百年を超えるという。菫はこの木が好きだった。仕事で辛いことがあった時に見上げると自分の悩みなどちっぽけなもののように思わせてくれるから。
看護師として総合病院で働き始めて五年が経ち中堅という立場で後輩の育成と自己研鑽に忙しい。
恋愛もだいぶご無沙汰だ。友達の紹介で出会った会社員の恋人とは付き合って三年で別れた。出会った当初は素晴らしい仕事をしていると聖人君子のように崇めておいて別れの理由を聞けば大型連休や年末年始に休暇が取れないからだという。
勝手なものだと菫はあきれた。けれど二交代制の不規則なシフトのせいですれ違いが生じていたのは事実だ。だからといって仕事を辞めようとは思えなかった。お互いにそこまでの相手ということだったのだろう。
菫は何かを振り切るようにペースを上げた。神社の石塀を左に折れる。すると正面から来た人とぶつかってしまった。衝撃ではじかれるように地面医しりもちをつく。
「す、すみません」
いいながら相手を仰ぎ見れば黒いスポーツウエアを身にまといフードを目深にかぶっている。サングラスとマスクで顔が隠れているが背格好から推測するに男性で間違いないだろう。
「大丈夫でしたか? お怪我は……」
返事もなく男は走り去っていく。
その時何かが落ち、菫の足元に転がってくる。なにかと思い拾い上げてみるとワイヤレスイヤホンだった。ブラックとゴールドのバイカラーでブランドのロゴが小さく刻印されている珍しいデザイン。菫は男を追いかけようとしたがその姿はすでに視界から消えてしまっていた。
(仕方ない、後で交番に届けるか)
無造作にポケットにしまうと菫はジョギングをつづけた。
神社の石段を登り鳥居をくぐり、大欅を仰ぎ見て境内で手を合わせると奥の方へと進んでいく。あまり知られていないようだが神社の北側には紫陽花の群生地があるのだ。野良猫を追いかけて偶然見つけてからというもの、満開になるのを楽しみにしていた。
「すっごい、きれい」
菫はため息とともに言葉を漏らした。青や紫の紫陽花が朝露に濡れて光り輝いている。スマホを取り出してカメラのレンズを向けたその時、奥の茂みががさがさと揺れた。あの猫だろうか。いや違う。あの子ならあんなに枝葉は揺れない。
――人?
菫は目を凝らした。直後、両手で枝をかき分けるようにして男が姿を現す。その顔に見覚えがあった。
「上川先生?」
菫は驚いた。どうして彼がこんなところにいるのだろう。
上川蓮(かみかわれん)は同じ病棟で働く外科医。アメリカ帰りだという彼はひと月前に着任したばかりだ。非常勤という立場ながら医師としての腕と人柄の良さに常勤医たちはすっかり頼り切っている。
それは看護師たちも同じだった。もちろん菫も例外ではない。立場上チームリーダーを任されることが多いのだが、高圧的な医師への報告も確認もする度に胃に穴が空きそうになる。けれど、上川は相談事を快く聞いてくれて、それに対して看護師がどう行動すればいいのかわかりやすく指示をくれる。コメディカルの仕事を軽視したりせず、ねぎらいの言葉すらかけてくれる。上川の存在に院内の看護師たちがどれほど救われているかわからない。
「花江さん?」
上川は驚いたように目を見開いた。
「やっぱり先生だ。そんなところでなにしてるんですか?」
「……だめだ、くるな‼」
上川の言葉よりも先に菫は茂みの中に入っていた。枝葉が折れすでに道ができている。上川がもう一度叫んだ。
「戻れ!」
「どうしてですか?」
なぜ必死に拒むのだろう。それを確かめたくて菫は歩みを進める。
上川の足元は紫陽花がなぎ倒され青い絨毯が敷かれたようだった。そしてその上には白いワンピースを着た女性が横たわっており、傍らにはブランド物のバッグが転がっている。
菫は目を見張った。日本未発売の限定品だというそれを一昨日、休憩室で自慢していたのは同僚の清水綾女ではなかったか。
おそるおそる女性顔を見た。長い髪の毛が顔半分に掛かってよく見えなかったが唇の傍にある特徴的な黒子をみて董は叫ぶ。
「清水主任! 大丈夫ですか⁉︎」
必死で彼女の肩を揺すった。けれど反応はない。弛緩した四肢。鉛白をまぶしたような肌の色。頸部には圧迫してできたであろう赤黒い内出血斑が浮いている。蘇生など到底かなわないだろう。
「う、うそ。死んでるっ」
全身が総毛立ち、心臓の鼓動がバクバクと音を立てはじめる。仕事柄人の臨終の場面に立ち会うことは少なくない。けれど、こんな状況で最後を迎えた人間を見たことはなかった。
「花江さん、大丈夫?」
上川に肩を掴まれて、菫は咄嗟に振り払った。すぐにでも距離を取りたかったが、腰が抜けてしまったのか、立ち上がることもできない。
「さ、触らないでください!」
「ごめん。でも落ち着いて」
こんな状況で落ち着けるわけがない。菫は必死で声を絞り出して聞いた。
「せっ、先生が殺したんですか? 清水主任のこと……」
この状況を見れば誰もが上川を疑うだろう。現に彼の手には手袋が嵌められ、細い園芸用のロープが握られている。
「ちがう」
「だ……だったら早く警察を呼んでください! 救急車も」
必死に訴える。けれど、上川は静かに首を振った。
「それはできない」
「なぜ、ですか? 犯人でないのならすぐにでも警察を呼ぶべきでしょう」
菫は必死に訴える。けれど、依然として上川は首を縦に振らない。
「だからできないんだ。僕がいいって言うまで、このことは秘密にしておいてくれないかな?」
「秘密にするですって? できませんよ、そんなこと」
出来るはずがない。同僚の死をこのまま見過ごすことなどなぜできると思うのか。
「それは困るな。もし誰かに話したら……」
「話したら?」
どこをどう歩いてきたのか記憶がなかった。
菫はようやくたどり着いた自宅玄関のカギを後ろ手で閉めるとへたり込む。混乱と恐怖に支配された体は小刻みに震えている。
「……ああ、そうだ、警察……」
上着のポケットからスマホを取り出すと冷えた指先で110をタップする。でもすぐに、上川のあの言葉が頭をよぎった。
『もし誰かに話したら、命の保証はできない――』
――数時間後。菫は憂鬱な気持ちを引きずって出勤した。休暇を取ろうかと思ったが、部屋でひとりになる方が怖い。それにみんなの目がある方が安全かもしれない――そう思ったのだ。
「おはよ、菫」
「おはよう、美波」
同期の顔を見るとホッとして涙が出そうになる。けれど、ここでは泣けない。上川はすでに出勤していた。何事もなかったようにすました表情で同僚の医師と談笑している。
(ああ、叫んでやりたい。この人が清水主任を殺しましたって)
でももし、菫がそう訴えてどれくらいのスタッフが信じるだろう。趣味の悪い冗談だと笑い飛ばされて終わるに違いない。そうなれば制裁を加えられるのは明白だ。それだけは避けたい。グッと唇をかみしめる。
八時半になり朝礼が始まった。
「あら、清水さんは?」
清水の不在に気付いたのは師長だった。
「誰か連絡もらってる?」
皆一応に首を振った。菫もそれに倣うように小さく首を振る。
「主任、いつも早くきますよね?」
「無断欠勤なんてする人じゃないのに……」
同僚たちが言うように、清水は誰よりも早く来て遅く帰るような人だった。
「そうよね。どうしたのかしら?」
師長は病棟の電話を手に取ると清水へ電話をかけ始める。
「……でないわ」
――出るはずがない。
そのことを知っているのは菫と上川だけだ。
「みんな仕事を始めて頂戴!」
その声で各々持ち場へと散っていく。
「体調でも悪いの? 花江さん」
背後から声を掛けられて菫はびくりと肩を浮かせる。
「谷本先生。……いえ元気ですよ。どうしてですか?」
谷本航生(たにもとこうせい)は後期研修医を終えたばかりの一番若手の医師だ。看護師とも仲が良く仕事帰りに数名で飲みに行ったりもしている。
「気のせいだったならいいんだ。顔色が悪いように見えたからさ」
気のせいではない。平静を装っているつもりでもふとした瞬間に今朝の惨状がフラッシュバックする。
「ありがとうございます、先生。大丈夫ですよ」
菫は力なく微笑んで見せた。
「ならいいけど。ねえ、今日の仕事終わりに飲みに行かない? 近くにいい店見つけたんだ」
普段通りに接してくれることが今はとても救われる。二つ返事で承諾した。
「……はい、行きます!」
きっと家に帰っても落ち着かないだろう。それなら誰かと過ごした方がいいに決まっている。谷本先生はにかっと笑うと「予約しとくよ。じゃあ、またね」そういってナースステーションを出て行った。
「はい、また」
その日の病棟はいつにも増して慌ただしかった。菫は緊急入院が立て続けに二件受け入れ、同時に病室の移動も行った。同時に担当患者を手術室へ送り出す。無心で働いていると嫌なことを考えないで済む。菫が不意に時計をみると午後の三時を回っていた。
「休憩行ってきます」
手持ちの仕事を片付けて、売店へと向かった。空腹は感じていなかったが病棟にいると上川に監視されているようで落ち着かなかった。
菓子パンとカフェラテを買い、食堂のカウンターで口を付ける。あんなことがあって朝からないも食べていないのだがやはり食は進まなかった。
「花江さん」
不意に振り返ると上川が立っている。この時間は手術室にいるのではなかったか。
「先生、手術中じゃ……」
「そうだけど、少し時間が空いたから食事しに来たんだ」
「心配しなくても誰にも話してませんよ」
「あからさまに嫌そうな顔しないでよ、花江さん。今夜谷本先生と飲みに行くの?」
今朝の話を聞かれたのだろうか、それとも本人が谷本が話したのか。そんなことはもはやどうでもよかった。すぐにでもこの場から立ち去りたい。
「……答えたくありません」
菫は席を立つ。すると上川が追いかけてくる。
「行って欲しくないんだけど」
どんな権限があってそんなことを言うのだろう。菫は上川の言動に腹立たしさを覚える。
「心配しなくてもバラしたりしませんよ」
「いや、そういう意味で言ってるんじゃないんだ」
「じゃあ、どういう意味ですか!」
菫の大声に、廊下を歩いていた病院スタッフの視線が集中する。何も知らない人たちから見れば、医師に対して暴言を吐く看護師に見えるだろう。
「もういいですか?」
声を潜めて聞く。すると上川は小さくため息を吐く。
「僕はただ、君のことが心配で……」
「自分の身が心配なだけでしょ? これ以上話しかけないでください」
そう言い捨てて菫は上川から距離を取る。ちょうど来たエレベーターに乗り込むと急いで扉を閉めた。
退勤時間が近づくと、師長が声を掛けてくる。
「清水さん、連絡がつかないのよ。花江さん、彼女から連絡なかった?」
朝から清水へ連絡を取り続けていたようで、かなり疲弊しているように見えた。
「いえ。主任とはプライベートでやり取りしていませんし。ご実家への連絡は?」
「したわよ。お母さまに電話がつながってね。九州から出ていらっしゃるって」
「そうですか……」
その時、ナースステーションに看護部長が事務長と共に現れた。ただならぬ様子に皆一様に驚いている。部長は師長を呼んで、カンファレンスルームへと入っていった。
「なにかあったのかな?」
美波は不安げに呟く。菫は聞こえないふりをして帰り支度を始めた。これからどんな騒ぎになるのか、容易に想像がつく。
巻き込まれないうちに帰ろう。どうせ明日には事情聴取でもされるのだろう。
五時半を過ぎてすぐ、スタッフルームへ行き荷物を手に取ると「お先に失礼します」といってナースステーションを出た。ロッカー向かい白衣を脱ぎ捨てる。そこで下着が濡れるほどの汗をかいていることに気付いた。それは菫の体温を奪い、手足の先から冷たくなっていく。血の気の失せた肌の色はまるで清水綾女の死体のように青白い。
「いやぁっ!」
そう叫んでハッと我に返った。両隣で着替えていた看護師がぎょっとした顔で菫を見ている。
「すみません、ごめんなさい」
急いで服を着ると逃げるように外へ出た。すると目の前に谷本の姿を見つける。
「花江さん!」
谷本は細身のパンツにジャケットを羽織っていた。普段からキチンとした服装をしている印象があり、小物にもブランド物が目立つ。聞くところによると医者の家系らしく父親はクリニックを複数経営しているという。
「谷本先生。おつかでさまです。すいぶん早く上がれたんですね」
予定の手術は終わっていたとはいえ、さすがに定時では上がれないだろうと思っていた。これからどこで暇をつぶそうかと考えていたところだった。
「まあね。デートなんでーって言ったら誰も引き留めてこなかったよ」
「あはは。嘘も方便って言いますもんね」
「まあ、そうだね。じゃあ、行こうか」
谷本は駐車場へと歩いていく。菫もそれに続いた。
「今日は車なんですか?」
飲みに行こうと誘われたからか勝手に電車で来たのかと思いこんでいた。
「そうなんだ。今朝、寝坊しちゃってさ」
「先生も寝坊なんてするんですね」
普段朝の早い谷本に遅刻のイメージはない。清水同様、朝から晩まで病棟にいて仕事をしていることが多いからだ。若手ということもあるだろうが、その中でも谷本は群を抜いている。だから今日のように定時上がりを許されるのかもしれない。
「これ俺の車。ちょっと待ってくれる?」
谷本は白いスポーツカーのドアを開けると、助手席に置かれた袋を無造作につかんでフロントトランクへと放り投げる。几帳面かと思いきや、ガサツな面もあるのだろう。お坊ちゃま然としたところがあるのだがたまに見せる意外な側面に心つかまれる女性は少なくないだろう。清水も谷本のことを気に入っていたひとりで、よく二人で話し込んでいる姿を見かけたものだ。明日事実を知って、谷本も悲しむに違いない。「ついたよ、この店だ」
病院から十分ほど走っただろうか。住宅街に佇む一軒家のビストロは平日の夜だというのにとてもにぎわっている。
「ここのオーナーはね、以前は自由が丘のフレンチにいたんだよ。ワインも美味しいから飲みなよ」
「でも先生は飲めないでしょう?」
「俺はいいからさ、はい」
ワインリストを渡され、菫は白のグラスワインを選ぶ。あんなことさえなければ、遠慮なく上質なワインを選んだに違いない。けれど今夜はどれを飲んでも味がしない気がする。
「やっぱり元気ないよね、花江さん」
「そんなこと……」
「あるでしょ? 話なら聞くよ」
真っ直ぐに見つめられ、菫は視線をテーブルに落とした。
「……私、夜勤のない日は毎朝ジョギングしているんですけどね」
「うん」
「じつは」と喉元まで出かかって必死に飲み下す。この話をないも知らない人間に共有するのは罪だ。自分のように苦しむ人を増やすわけにはいかない。どうせ明日になれば嫌でも耳に入るだろう。彼女の悲しい出来事が……。
「体重計に乗ったら二キロも増えてたんですよ。走る意味ないじゃんてなってそれで落ち込んでたんです」
「なんだ~そんなこと」
「せっかく心配して誘ってくれたのにくだらない悩みですみません」
おどけたように笑うと、谷本は「むしろそんな話でよかったよ」と表情を緩めた。弱っているときのやさしさや気遣いがこんなにも救いになるのだと菫は実感する。
「今夜はひとりでいたくない気分だったから、誘ってもらって助かりました」
「また誘っていい?」
「はいぜひ! 次は美波もいっしょにいいですか?」
彼女は谷本のことが気になるらしく、老婆心ながら仕事以外で会う機会を作ってあげられたらと考えていたのだ。しかし谷本は苦笑いを浮かべる。
「いやぁ、なんていうか……、俺的には花江さんとふたりきりで会いたいんだよね。今日みたいに」
「ふたりきりで、ですか?」
「そう、だめ?」
「ダメじゃないですけど……」と言葉を濁す。好意のない男性からの誘い。同僚でなかったらきっぱりと断っていただろう。だが、明日以降も顔を合わせる谷本との関係性を考えると無下にもできない。狡い考えなのかもしれないが、あいまいさを残すことで人間関係を円滑にできることもあるのだ。
菫はワインを煽った。空っぽに胃にアルコールが滲みていく。料理はたしかにどれも美味しかったのだが、食が進むことはなかった。
食事が終わり谷本は車で送るといい、菫はそれに甘えた。車に乗り、エンジンをかけたところで「スマホ忘れた」と言って谷本は店へと戻っていく。
菫はシートに身を深く沈めた。その時、つま先でなにかを踏みつけた感覚があった。
「なんだろう」
菫は足元に手を伸ばす。それはすぐにみつかった。摘まみ上げで見るとワイヤレスイヤフォン。ブラックとゴールドのバイカラーでブランドのロゴが刻印してある。
「――え」
ドクンと心臓が激しく鼓動した。
このイヤフォンには見覚えがある。神社の前でぶつかった男性が落としたものと同じだ。偶然――に決まっている。それに谷本は今朝、寝坊したといっていた。
「ごめん、お待たせ」
谷本が戻ってきた。菫はイヤフォンをぎゅっと握り絞める。
