金曜日。仕事終わりに千里と居酒屋で会う。

「あのさ、千里。うちのユズとメイが……」

 そこまで言いかけてやめる。

「猫ちゃんたちがどうかしたの?」

 あたしの向かいに座っている千里がこちらを向いた。

『猫の言葉が分かるようになったんだけど』

 なんて言ったら千里にどう思われる?
 絶対、こいつ頭打っておかしくなったか、って思われそうな気がしてやめた。

「あー……やっぱりなんでもない!」

「え? なんで言いかけたことやめるの。そこまで言ったなら最後まで話してよ」

「いや、べつにいつものことだよ! ユズもメイも可愛いなって!」

 慌てて誤魔化すことにする。

「歩実ってほんと猫大好きだよね。スマホの待ち受けにしてるんだっけ?」

「そうそう。ユズとメイが窓から外を眺めてる後ろ姿の待ち受け」

「あたしも何度か歩実の実家に遊びに行ったことあるけど、ユズくんは人懐っこいよね。メイちゃんには嫌われてるみたいだけど」

「……大丈夫。あたしにもメイは塩対応だから。ツンデレのデレなんて滅多に見れないよ」

 話を誤魔化すことができて安心する。
 猫や仕事、千里の推しの話などしたあとに思い出したように彼女が言う。

「あれから正志くんに連絡してみた?」

 別れようと言われて以来、あまり考えないようにしていた。というよりもユズたちのこともあったから気が紛れていた。
 思い出すと、一気にドン底に突き落とされた気分になる。

「……ううん、まだ」

「正志くんの口から本当のこと話されるのが怖い?」

「それもあるけど……」

 あたしは思わず口籠る。

 確かに正志から真実を聞くことは怖い。
 だけど、それ以上に怖いことがある。

「正志と会ってきっぱり別れようって言われたらそこで全てが終わっちゃうような気がするんだよね。恋人関係じゃなくなったら会うこともできなくなるし……」

 今はギリギリ恋人という糸で繋がっている。
といっても、破局前なことに変わりはないが。

「それも分からなくはないけどさぁ、恋人関係じゃなくなったからといって一生会えなくなるってわけじゃないじゃん? 実際、別れて友達に戻って仲良く会ってる人もいるわけだしさ」

「それは、そうだけど……」

 別れたあとに友達に戻ることはあたしは考えられない。というか無理。

「まあ、歩実の性格を考えたらそれが無理なこともわかるよ」

「でしょ」

「だったら尚更、正志くんと話し合った方がいいんじゃない。お互い後悔しないためにさ」

 千里が言っていることも理解はできる。

「……でも、別れたら後悔は残ると思う」

「何も話さないまま別れたらそれこそ後悔するでしょ? それにもやもやしたままは嫌じゃない?」

「その通りだけど」

 相槌を打つあたしを見て、

「だったらちゃんと話してみた方がいいと思うよ。正志くんの気持ちを知りたいならそれしかないし」

 と、千里は言った。

「……うん、分かってる」

 あたしはそう言うしかなかった。



 千里と別れたあと家に帰る。
 ユズとメイはどうやらごはんを食べたらしい。残りのカリカリがお皿に数粒残っていた。
メイはキャットタワーの上で気持ちよさそうに眠っている。ユズはテーブル前のラグの上に座って目を瞑っている。
 お風呂に入らなきゃいけないけれど、そこまでの元気がなくてそのままベッドに横になる。

 ──『何も話さないまま別れたらそれこそ後悔するでしょ? それにもやもやしたままは嫌じゃない?』

 千里に言われた言葉を思い出す。
 分かっている。頭では理解している。

 別れよう、と言われた以来連絡は取っていない。怖いからだ。正志の気持ちを知ることが。
 だけど、それ以上にあたしは怖い。もしも隠された〝真実〟があるのなら。

 人は本音を隠して生きる生き物だ。

 ──『お母さんたちね、離婚しようと思ってる』

 高校一年生の頃に両親に言われた。
それまであたしは両親仲よくやっていると思っていた。
 けれど、それは違った。両親があたしの前でだけ仲良いフリをしていただけなのだ。
 あたしはそれが怖い。人の気持ちなんて表面だけでは分からない。人の気持ちを知ることが怖い。

「ねえねえ、メイ。なんかママ、げんきないね」

「たしかに。いつもつかれてたけど、きのうからげんきないわね」

 ユズとメイの話し声が聞こえてくる。
 それにあたしはベッドに横になりながら耳を傾けている。

「じゃあ僕がげんきにしてくるよ!」

 ユズがそう言うと、ピョンッとベッド上にやってくるとユズは鳴いた。

「ママ、だいじょうぶ?」

 すりすりとあたしの頭に自分の頭を擦り付けてくる。
今までならこれが甘えているときの証拠だと思っていたが、今回は言葉が聞こえる。
 これははっきりとあたしを心配してくれているものだ。

「げんきだしてー」

 また言葉が聞こえる。

「……ユズ」

 あたしは起き上がる。
 すると、ユズはあたしの膝に前脚を置いて真っ直ぐに見つめてきて鳴いた。

「げんきになった? もうへーき? じゃあ、おやつちょうだい!」

 今度はそんな言葉が聞こえてきた。

「……おやつの催促?」

 ポカンとしていると、キャットタワーの上で見ていたメイがこちらへ近づいてくるとベッドに飛んだ。その直後、ユズをめがけて猫パンチを繰り出し『シャッ』と短く鳴いた。

「げんきにさせるまえにおやつのさいそくしてどーするのよ!」

 どうやらメイはユズに注意をしているらしい。
 ユズは甘えたように鳴いて、

「ごめんなさーい!」

 と、ベッドから降りていった。
 その姿に思わずクスッと笑ってしまう。

「しかたがないわねえ。あたしがお手本を見せるからちょっと見てなさい」

 尻尾をパタパタとさせたあと、メイはあたしの前にお利口さんに座る。
そしてまん丸おめめであたしを見つめて短く鳴いた。

「だいじょうぶ?」

 メイは日頃はツンデレタイプの猫ちゃんだ。
 自分からはあまり近づいてこない。ごはんが欲しいときだけやってくる。

「今日は特別にあたしを撫でさせてあげる」

 また言葉が聞こえてきた。

「撫でてもいいの?」

 メイにそっと手を伸ばして背中を撫でると気持ちよさそうに目を細める。

「メイ、優しいね。ありがとう」

 あたしが声をかけると、グルグルしだす。
 そっ、と頭を撫でると、もっと撫でろと言わんばかりに手のひらに頭を押しつけてくる。

「……メイ、かわいいね」

 普段はツンデレのメイが今日は甘えん坊だ。そのことに嬉しくなったあたしは、傷心中の身ということもあってメイをそっと抱きしめる。
 直後、シャーッと鳴かれた。

「やめて! あたしは撫でていいとはいったけど、抱きしめていいとは言ってないわ!」

 言葉が聞こえたあと、メイはベッドから降りて歩いていく。

「メイちゃん……」

 飴と鞭が極端すぎる。
 けれど、そこが猫の可愛いところなのだ。

「メイ、ママに怒ったらダメだよ! 優しくしなきゃ」

「わかってるわよ! うるさい、ユズ」

 少し離れたところで二匹の言い合う姿が見える。
二匹なりにあたしを心配してくれているのには違いなかった。その気持ちがあたしは嬉しくなる。

「……よし。ユズたちにおいしい猫カンあげちゃう!」

 ベッドから立ち上がり、ごはんをしまっている棚に向かうと、ユズはすぐに気づいたのか。

「なになに? ごはん? 僕、食べる!」

「ユズ、食いいじはってるってば。もっとお行儀よくしなさい」

「メイだってあの猫カン好きなくせにー」

「好きに決まってるわよ。あの猫カン、まぐろ味がしっかりしててあたしだいすきなの」

 後ろからそんな会話が聞こえてきて、なんとも微笑ましくなる。
 缶詰を開けると、匂いが一気に充満する。

「早くちょうだい! 食べたい!」

「もったいぶらずに早くちょうだい」

 足元にユズとメイが纏わりつく。

「はいはい、わかった。待って待って」

 お皿を下に置くと、二匹は一目散に猫カンに食らいつく。
 ユズは食欲旺盛でわんぱくなのでガツガツ食べている。メイはお嬢様気質で綺麗に丁寧に食べている。なのでいつも先にユズが食べ終わる。

「ねえ、メイ。僕に少しちょうだい」

 ユズが欲しそうにメイのお皿を見ている。

「いやよ。これ、あたしのなの。ユズはもう自分の食べたんだからあっち行きなさいよ」

 メイはゆっくりと咀嚼している。とても優雅に。
 その姿を見て、「ちえー」とユズが言うと、歩いてテーブルの上に登って毛繕いをはじめた。
 その姿を見てあたしは笑う。
 互いに仲はいいけれど、一定の距離は保っている感じ。その姿は互いを尊重しているようだった。

 今、この子たちの言葉が分かるからどう思っているのか理解できる。けれど、普段は分からないことだらけだ。
 それと同じで人だって話し合わなきゃ何も分からない。伝わらない。

「そうだよね。逃げてるだけじゃダメだよね」

 あたしはいい大人だ。
だったらクヨクヨしていられない。

「……よし。決めた」

 あたしは立ち上がって放置されているスマホを取りに向かった。

【会って話したいことがある。明日、会える?】

 正志にメッセージを送る。
 すると、しばらくして返事がきた。

【いいよ。俺も話したいから】

 それから何時にどこで会うかやりとりをした。


 翌日のお昼過ぎ。
 駅のそばにある落ち着きのある慣れ親しんだ喫茶店で待ち合わせる。

「急に呼び出してごめんね」

「いや、大丈夫。俺もちゃんと話さなきゃって思ってたから」

「そ、そっか」

 直後、コーヒーが運ばれてくるので会話が一旦途切れる。
 これからなんの話をするのか分かっているからだ。不安はあるし心配もある。
 だけど、あたしは一人じゃない。

「「あのさ」」

 互いの声が重なった。

「歩実からいいよ」

「ううん、正志からで」

「いや、俺はあとでいいよ」

 何度か同じやりとりをしたあと、

「じゃあ俺から話すな」

 と、彼が言う。

 あたしは頷いたあと、膝の上に置いている手にギュッと力が入る。

「歩実はさ、とにかく素直なんだよな。自分の気持ちを正直に口にする。だから、一緒にいて歩実の気持ちがわからなくなるとかそんなことは一度もなかった。嬉しかったよ。ちゃんと好きって伝えてくれるし、すげー幸せだった」

 彼の言葉を聞いてすぐに思った。〝だった〟は現在進行形ではなく、過去のことなのだ。

「でも、お互いに社会人になって仕事が忙しくなってくると会える日も限られてきて。歩実と久しぶりに会えたと思ったら仕事の愚痴ばかりが増えていった。分かるよ。俺も慣れない職場に分からないことだらけでミスもするし、謝ってばかりだし。だから、歩実の気持ちもよく分かる」

 でも、と正志は続けた。

「会うたびに仕事の愚痴が増えていくから正直、『ああ、またか』って思うようになった。もっと、明るい話題とか楽しいこと話したいのに歩実の口から出てくるのはそればかりだった。だから、会うことが少しだけ憂鬱に感じたのも事実」

 正志は悲しそうに笑う。

 ──そうだ。最近のあたしは、ずっとそうだった。
 慣れない職場に慣れない仕事。ミスをしてばかりで謝ってばかりの自分。そのたびに自己嫌悪に陥って、正志と会ったら自然とそれが愚痴になってしまった。
それが申し訳なくて思わず俯く。

「だけど、それだけが理由じゃないんだ」

 話の続きが聞こえたので、そっと顔を上げる。

「俺、今の仕事が好きなんだ。楽しいんだ。もちろん、失敗もして落ち込むときもあるけど、先輩見てたらかっこよくて、こんな人になりたいなって思って。今は恋愛より仕事を頑張りたいって、そっちに気持ちが向いてるんだ。だから……」

 正志はあたしの目をまっすぐ見つめる。

 ──ああ、そっか。どうして正志が『別れよう』って言ったのかようやく理解できた。
 あたしは自分のことばかりで何も見えていなかった。

「……正志は昔からそうだよね。いつも前向きだしネガティヴなことなんかひとつも言わないし。そんな正志だからあたしは好きになったんだけど」

 あたしとは正反対。だからこそ彼に惹かれたのかもしれない。

「正志に言われるまで気が付かなかった。どうして自分が振られたのか。分からなかったし、考えようともしなかった。ダメだよね、あたしって」

 自虐めいたように笑うと、

「歩実はダメなんかじゃないよ。素直でいい子なんだ。それは間違いない」

 と、正志はすぐにあたしをフォローしてくれる。
どこまでも優してあたしのことを理解してくれている。

「ありがとう、正志」

 話をするまでは心が決まらなかった。
別れたくなかった。復縁するために話し合おうと思った。
 けれど、正志の話を聞いてそれが彼のためにはならないことを知った。

「あたしね、正直別れたくないって思ってた。ここにくるまでもちゃんと話し合えば大丈夫だって思ってた。でも、それはきっとお互いのためにならないよね。それにあたしは正志の邪魔になりたくない」

 泣いてすがったって惨めなだけ。
 それに正志が困るだけ。そんなことは絶対にしたくない。

「だから……正志の選択に従おうと思う」

 そうっと顔を上げる。
 大丈夫。泣いたりはしない。

「あたしたち、別れよう」

 精一杯、笑顔を浮かべた。



 話が終わったあと、店を出る。

「今日、きてくれてありがとう。最後にちゃんと話ができてよかった」

「俺も。歩実と話ができてよかった」

 互いに笑い合う。
 これで気軽に会うこともできなくなる。ちょっとだけ寂しさを感じて別れが切なくなる。
 けれど、ここでモタモタしていても正志に迷惑をかけるだけ。

「じゃあ、元気で」

 軽く手を振ったあと、背を向けて歩く。

「──歩実!」

 少し歩いたあたりで後ろから正志の声が聞こえる。
立ち止まり振り向くと、正志が言った。

「俺、歩実と出会えて一緒に過ごした二年半、ほんとに楽しかったよ。絶対に忘れない。ありがとう」

 正志の言葉を聞いて、じわっと涙が滲んでくる。

「──あたしも! 正志と出会えてよかった。二年半、ありがとう。バイバイ!」

 大きく手を振ったあと、背を向けて歩きだす。

 会いたいと思っても、もう会えない。気軽に電話だってできない。恋人という関係は終わってしまった。
 けれど、今まで一緒に過ごした時間がなくなるわけではない。

 彼と一緒に過ごした二年半は永久不滅。
 あたしの心の中で生き続ける。

「……正志、バイバイ」

 ポツリと呟いて空を見上げた。