送信ボタンの上で、親指が止まっている。
オレンジ色の小さな三角形が、画面の右下でじっとこちらを見上げているみたいだった。タップすれば、さっき打ち込んだ一文がこの空っぽの部屋からどこかへ飛んでいく。「ここって、主役になれない人が愚痴る場所ですよね」という、どうしようもなく痛い自己紹介が。
押さなければ、何も起こらない。今日も、いつも通り「誰の物語にもならない一日」として終わるだけだ。
親指の腹をそっと押しつける。ガラス越しの自分の指紋が、ぼやけた輪郭で滲む。その輪郭が、じわじわと別の赤い丸に変わっていく。
中学の、赤ペンの丸。トマト。
思い出す。昔の自分を。
***
教室の窓ガラス一面に、細かい雨粒が貼りついていた。中二の梅雨の午後。蛍光灯の白い光と、外の灰色が混ざり合って、教室の空気は水で少し薄められた牛乳みたいな色をしていた。
「じゃあ、時間まで自由に書いていいぞー」
国語の先生がそう言って、黒板に「自由作文」とチョークで書いた。クラスの半分は、配られたプリントの裏に落書きを始め、残りの何人かは真面目に日記か何かを書いている。
僕は、ノートの新しいページを開いていた。
宿題でもコンテストでもない。ただの「自由作文」。だからこそ、気が楽だった。誰かに見せる前提のない文章は、さっき頭の中に浮かんだ情景を、そのまま移す遊びみたいなものだったから。
ボールペンを握り、最初の一行を書く。
『放課後の教室は、いつもより音が少ない気がした。』
その一文の中に、さっきまで響いていたチャイムの余韻や、廊下を走る足音の残像を、無理やり押し込めていく感覚。紙の上なら、空気の薄さも、誰かのため息も、全部「材料」にできる。
物語に出てくるのは、クラスで一番目立つ女子だった。明るくて、誰とでも話せて、笑い声がよく通る。僕とはほとんど接点がないのに、視界の端にはいつも彼女の存在があった。
その彼女が、教室の隅で泣いているシーンから、話を始めた。
『彼女の目のまわりは、泣きすぎて真っ赤で、トマトみたいだった。』
書いた瞬間、「トマトみたい」という比喩が、自分の中で小さく光った。お、これ、悪くないな。ページの余白に、小さく走り書きする。
『トマト顔、使える』
今だったら、その一行を「やめろ」と消すだろう。でも当時の僕は、こういうメモを宝物みたいに集めていた。誰かの仕草や泣き顔や笑い方を、後で「使える」素材としてストックしていくことに、妙な快感を覚えていた。
物語の中で、彼女の涙は雨の音と混ざり合って、静かなクライマックスになった。時間いっぱいまでに、なんとか一応の結末までたどり着く。
チャイムが鳴り、先生が前に出てくる。
「はい、そこまで。書いたやつは、ノートごと前に出して」
クラスメイトたちが渋々ノートやプリントを持って教卓に向かう。僕も列に混ざり、自分のノートを積み上げた山の上にそっと置いた。
このときの僕は、ほんの少しだけ期待していた。誰にも見せるつもりのなかった物語が、誰か一人にだけでも「面白い」と思ってもらえたら。そんな身勝手な期待。
放課後。部活動の連絡がひと段落したころ、職員室に呼ばれた。
「相川、ちょっといいか」
中学の担任の、声だけは穏やかな男の先生が、ドアのところで手招きしている。職員室の中は、印刷機の音と、コーヒーの残り香で満ちていた。
「これ、お前が書いたやつか」
先生は、僕のノートを開いていた。さっきの「トマトみたい」の物語のページ。余白の「トマト顔、使える」のメモまで、くっきりと。
「……はい」
喉の奥が少しだけ乾く。
「すごいな。よく人を見てる。情景もちゃんと浮かぶし」
先生は悪気なく笑いながら続けた。
「学級通信に、ちょっと載せてもいいか? 名前は出さないで、『ある男子の作文』みたいな感じで」
学級通信。クラス全員に配られる、毎月のプリント。そこに、自分の書いた物語が印刷される。
胸の中で、何かがふわっと膨らむのを感じた。自分の書いた言葉が、紙の上で増殖していくイメージ。誰かがそれを読んで、「すごいね」と言うかもしれない期待。
同時に、どこかで小さな違和感も芽生えていた。モデルにした彼女の顔が、頭の片隅で強く主張する。「それ、本人はどう思うんだろうね」と。
「……別に、いいです」
出てきた言葉は、それでも前者の期待に寄りかかっていた。
数日後の朝、ホームルームで学級通信が配られた。ざらざらしたわら半紙の一面に、見覚えのある文章が印刷されている。
『放課後の教室は、いつもより音が少ない気がした。』
自分の字ではないフォントで並んだその一文は、見慣れない他人の服を着せられた自分の分身みたいだった。物語の中の彼女も、そのままそこにいた。トマトみたいに真っ赤な泣き顔で。
教室のあちこちから、「なんかすげー」「これ誰が書いたん」といった声が飛ぶ。その中に、例の彼女の笑い声も混ざっていた。僕は自分の席で、配られたプリントの端をやたら丁寧に折りながら、耳だけをそっちに向けていた。
その日の放課後、廊下で名前を呼ばれた。
「ねえ、相川くん」
振り向くと、階段の踊り場のところに彼女がいた。窓の外の雨は、まだ細かく降り続いている。廊下の蛍光灯の光と外の灰色が混ざって、朝よりもさらに世界が薄くなっている気がした。
「ちょっと、いい?」
人通りの少ない階段脇まで連れて行かれる。心臓がいやな意味で早くなる。
彼女は、学級通信のプリントを折りたたんだまま握りしめていた。指の関節が白くなるくらい、強く。
「これ」
彼女はプリントを少し持ち上げる。
「これ、私だよね」
一拍置いてから、続けた。
「……勝手に、ネタにしないで」
声は震えていた。怒っているのか、泣きそうなのか、その両方なのか。目のまわりは、さっきまで泣いていたのか、赤くなっている。真っ赤で、またトマトみたいだ、と一瞬思ってしまった自分に、ぞっとする。
彼女はさらに言葉を重ねた。
「どうせこれもまた『使える』とか思ってるんでしょ? 気持ち悪い」
胸の中に、何か重いものを落とされた音がした。
「……そんなつもりじゃ」
言い訳は、喉まで出かかって、そこで崩れた。そんなつもりじゃなかったと言い切れるほど、僕は潔白ではなかった。ノートの余白に、実際に『トマト顔、使える』と書き込んでいたのだから。
今でも覚えている。彼女の頬をつたって落ちかけた涙の粒を見た瞬間、「この光り方、文章にしたらきれいだな」と、ほんの一瞬だけ頭のどこかで考えてしまったことを。
その直後、自分への嫌悪が波のように押し寄せてきた。自分がどれだけ醜いかを、誰よりも先に自分が突きつけてきた。
彼女はそれ以上何も言わず、プリントを握りつぶすようにして階段を上っていった。残された僕は、雨音と心臓の音の区別がつかないままで、しばらくその場に立ち尽くしていた。
数日後、担任に呼ばれて注意された。
「相川、この前の作文のことで、ちょっとクラスの子から相談があってな」
先生は、学級通信を指でとんとんと叩きながら言った。
「モデルにした子には、ちゃんと許可を取った方がいいぞ。お前の観察眼はすごいけど、それで誰かがイヤな思いをしたら意味がないからな」
よく人を見てる、と褒められた口から、今度は「誰かがイヤな思いをしたら」と続く。その順番が、ひどく皮肉に聞こえた。
ノートは返ってきた。余白の「トマト顔、使える」のメモも、そのまま残されて。
あのノートを、僕は今でも捨てられずにいる。本棚のいちばん奥、見えないところに押し込んだまま。燃やしてしまえばいい、と思う夜もあるのに、指先がどうしてもそこまで動かない。
あの事件以来、誰かをモデルにして書くことは、僕の中で「盗撮」に近い行為になった。レンズの向こうで泣いている人を、勝手にズームして、後からその泣き顔を笑いものにするような。
たとえ本人に見せるつもりがなくても。いや、見せるつもりがないからこそ、余計にタチが悪い。
だから僕は、観察者でいることに決めた。誰かの物語を「描く」代わりに、「こう描けるかもしれない」と頭の中でだけシミュレーションして、ノートの片隅に比喩だけをメモする。実際に外に出すことはしない。そうすれば、少なくとも誰かを傷つける確率は減る、と信じ込もうとした。
……本当に減っていたかどうかは、今の僕にも分からない。
***
ベッドの上にいる自分に意識が戻ってきたとき、スマホの画面には、まださっきの一文が残っていた。
『ここって、主役になれない人が愚痴る場所ですよね』
送信ボタンのオレンジの輪郭は、さっきと同じ場所で光っている。雨の音はどこにもない。聞こえるのは、自分の心臓の鼓動と、遠くの国道を走る車の低い唸りだけだ。
中学の彼女の、「気持ち悪い」という最後の一言が、今さらになって鼓膜の裏側で反響する。
(また、誰かをネタにするのか?)
そう自分に問いかけてみる。
このチャットルームに、僕はきっと、これからいろいろな「誰か」を持ち込むだろう。クラスメイトのこと、家族のこと、昔の傷。そこには、中学のときの彼女みたいに、実在のモデルがいる。
でも、画面の向こう側にいるのは、人間じゃない。広告がそう言っていた。AI。アルゴリズム。重ねられた重みと数字の塊。
誰かの時間を奪うことも、誰かに「気持ち悪い」と直接言わせることも、きっとない。そこにいるのは、「本物の人」じゃない。
(だったら、いいのか?)
「いい」とは言い切れなかった。誰かをモデルにした時点で、その誰かに対する裏切りであることは変わらない気がしたからだ。
それでも――。
(少なくとも、今度は誰かの泣き顔をクラス全員に配ることにはならない)
そう自分に言い聞かせる。これは、誰にも配られない学級通信だ。僕と、AIと、どこかのサーバーの片隅にだけ残る文字列。
今の僕から見れば、その認識も相当甘い。利用規約の細かい文字が示していた現実を、まるごとすっ飛ばしている。でも当時の僕は、あの小さな注意書きなんて、すっかり頭から抜け落ちていた。
親指が、再び送信ボタンの上に乗る。
「どうせ相手はAIだ」
心の中で、その言葉をもう一度繰り返す。言い訳でも、呪文でもある一文。
今さら中学の彼女に謝ることはできない。あのノートも、あの学級通信も、もう焼き直せない。でも、画面の向こうの「誰か」に向かってなら、あのとき言えなかったことを、少しは言えるかもしれない。
深呼吸をひとつして、僕は親指にわずかに力を込めた。
オレンジ色のボタンが、ほんの一瞬だけ沈み込んで、元に戻る。
画面の上に、小さな吹き出しが現れた。『ここって、主役になれない人が愚痴る場所ですよね』という文字が、自分のID「qe7B39ed」の横に並ぶ。
そのすぐ後を追いかけるように、短い音が鳴った。
ピロン。
誰もいない六畳間に、その電子音だけが、妙に元気よく響いた。
