二年の教室には、新品の匂いと、一年のときから持ち越した空気が半々に混ざっていた。

黒板の上には「2年B組」と白いプレート。チョークの粉がまだ飛び散っていない黒板の前で、新しい担任が点呼をとっている。僕の席は中央ブロックの窓側寄りの真ん中あたり。ど真ん中ではないけれど、教卓からは視界に入りやすい位置だ。

出席番号順に名前が呼ばれていくあいだ、僕は配られたばかりの名簿をめくりながら、クラスのざわめきをこっそり観察していた。

サッカー部のやつらは、早くも机を少しずらして島を作っている。夏に向けて日に焼けそうな腕が、制服の袖口から無造作に見えている。ああいう連中は、放課後のグラウンドの歓声ごと、教室に持ち込んでくるBGMみたいな存在だ。

スマホを机の下ぎりぎりの位置に隠しつつ、ショート動画を覗き込んでいる女子グループもいる。笑い声だけがひときわ高く跳ねて、教室の天井近くにへばりついているみたいだった。

名前欄の「枝井悠真」のところに、赤ペンで小さく印をつける。一年のときからの腐れ縁だ。後でどこかで話しかけてくるだろう。

「相川湊」

担任の声に呼ばれて、機械的に返事をする。

「はい」

自分の声が思ったより大きく響いて、少しだけ居心地が悪い。隣の席の男子が一瞬こっちを見る。目が合うと、慌ててプリントに視線を落とした。

今振り返ると、このときの僕はもう「観察する側」に逃げ込む準備をしていたのだと思う。名簿に書かれた名前たちを、物語の登場人物候補として眺めている。そのどれにも、自分は含めないままで。

午前中のホームルームと自己紹介の時間は、正直なところあまり記憶に残っていない。無難な趣味と、無難な将来の希望。教室のあちこちで似たような言葉が繰り返されていく。どの声も、自分のクラスメイトのものなのに、テレビの向こうの誰かが喋っているみたいに聞こえた。

少しだけ違ったのは、四時間目の国語だった。

佐山先生――去年から国語を担当している三十代そこそこの男の先生――が、教卓にノートPCを置きながら言う。

「この時間は、軽く腕試しをしようか。将来について、小論文を書いてもらいます」

教室のあちこちから、小さなうめき声が漏れた。

「千字……はさすがに多いな。四百字詰め原稿用紙一枚ぶん。『十年後のわたし』ってテーマで書いてみてください。進路希望調査の予行演習みたいなものだと思って」

僕は配られた原稿用紙を受け取り、罫線の上にボールペンを置いたまま、しばらく動けなかった。

十年後の僕。二十六、七歳? 社会人になっているはずの年齢。そこに、特別な肩書きがついている未来がどうしても思い描けない。

「小説家になりたいです」なんて、冗談でも書けない。書いた瞬間、その言葉が嘘であることを一番よく知っているのは自分だからだ。

代わりに、もっと当たり障りのない未来像をひねり出す。

『十年後のわたしは、きっとどこにでもいる大人になっていると思います。通勤電車に押し込まれて、仕事の愚痴をこぼしながら、それでもなんとか毎日をやりくりしているような』

書きながら、心のどこかで「この比喩は安いな」と冷めたツッコミを入れている。原稿用紙の隅には、『物語を読む時間を確保しながら食いつないでいく』なんて表現も足した。いかにも国語の先生にウケそうな安全圏の言葉たち。

本当に書きたいこと――「自分には物語を持つ資格がないと信じ込んでいる」とか、「誰かをモデルにして書くことが怖い」とか――は、ちゃんとした文章にする前に、喉の奥で固まってしまう。

チャイムが鳴る少し前、原稿用紙を机の端に重ねておくと、佐山先生が一枚一枚拾い集めていった。

「じゃあ、何人かは次の時間までに読んでコメントつけて返す。他のやつは来週な」

そう言って、先生は教卓の上でぱらぱらと数枚をめくる。その手が途中で止まった。

「……お。相川」

不穏な予感がした瞬間には、もう遅かった。

「相川の文章、構成がうまいな。導入で今の自分を書いて、十年後にうまくつなげてる。比喩もくどくないし、読みやすい」

教室の空気が一瞬で変わる。「おお〜」という、半分本気で半分からかい混じりの声。数人がこっちを振り向く気配。

僕は表情筋を総動員して、なんとか無表情を保つ。

「……たまたまです」

声が少し上ずったのが、自分でも分かった。

「たまたまでもいいよ。そういう『たまたま』をきっかけにして伸ばしていけばいいんだから」

佐山先生はそれ以上は深く踏み込まず、他の答案に目を移した。

有頂天になればいい場面なのかもしれない。物語としてなら、ここで「自分でも書けるかもしれない」と決心する主人公がいてもおかしくない。

でも、当時の僕は、そういう主役らしい反応をする自分を何より嫌っていた。

昼休み、教室を出ようとしたところで、肩をどん、と叩かれた。

振り返る前から、誰か分かる。

「ミナト、モテモテじゃん。国語の天才様」

悠真が、にやにやしながら立っていた。ネクタイはゆるゆる、シャツの袖はひじまでまくり上げられている。汗のにおいと部活の空気を、廊下まで引き連れているみたいなやつだ。

「やめろ。大したこと書いてないし」

そう返すと、悠真は僕の肩に腕を回して、勝手に並んで歩き出す。

「佐山がわざわざ名前出すレベルって、大したことあるだろ。なんかさ、小説とか書けよ、マジで」

廊下の窓から、四月の光が差し込んでいた。まだ冷たい風が吹き抜けるのに、陽射しだけはやたらとまぶしい。

「いや、そういうのは特別な人がやることで」

「出たよ、そのセリフ。『特別な人』ってなんだよ? プロローグからちゃんと書き始めてるやつだけが特別、みたいな」

悠真は、わざとらしく大げさに肩をすくめる。

「ミナトの頭ん中、たぶんけっこう面白いぞ。教室のこととか、変な比喩で見てんだろ?」

図星を刺されて、言葉が詰まる。

「……別に」

「否定しねえのが怪しいんだよなあ」

悠真は笑いながら、階段の方へ別れていった。僕はその背中を見送りつつ、心の中でひとつツッコミを足す。

(そうやって気軽に人を持ち上げられるお前が、一番物語の主人公っぽいんだけどな)

放課後。部活勧誘の喧噪を横目に、僕はまっすぐ昇降口を抜けて自転車置き場へ向かった。悠真には「今日は寄り道する」と適当に嘘をついておいた。実際は、まっすぐ家に帰るつもりなのに。

電車はそれなりに混んでいて、座席は埋まっていた。僕はドア横の端っこのスペースを確保して、リュックを足元に置き、つり革を握る。

窓の外には、見慣れた住宅街と送電塔。どこにでもある景色。どこを切り取っても、一コマ分にもならないような、灰色の風景。

ふと、視界の上の方に色の違うものが入ってきた。

ドアの上の位置に貼られた、中吊り広告。淡い青い背景に、ベッドから起き上がれないようなシルエットの人影。手元のスマホの画面だけが、ぽつんと明るく光っている。

『AIに悩みを話せる 匿名相談アプリ・ルーム』

その下に、小さくコピーが添えられている。

『ちょっとだけ勇気がいる夜のために』

英単語や資格の広告にまぎれて、そのコピーだけが、やけにこちらを見ている気がした。

「AIに悩みを話せる」

そのフレーズに、僕はほんの少しだけ安心を覚えた。

人間じゃないなら、いくらでも愚痴を流してもいい。誰かの時間を直接奪うわけじゃない。価値のない相談をしたところで、悲しむ人も、うんざりする人もいない。

……そう理屈を組み立てている自分に、すぐに気づいてしまう。

(誰かをモデルにした話をしても、AI相手なら大丈夫――とか考えてる?)

頭の奥で、中学のときのある事件が、ぼんやりと輪郭を持ちはじめる。まだ、この時点では、そこから目をそらすことに成功していた。

電車が最寄り駅に着く。一斉に立ち上がる乗客の流れに乗ってホームに降りると、さっきまで見ていた広告はもう視界の外だ。

家に着くころには、AI相談アプリのことなんて、ほとんど忘れかけていた。

夕飯のテーブルには、肉じゃがと味噌汁。母さんはテレビのニュースを横目で見ながらご飯をかき込んでいた。遅番の前の、慌ただしい時間だ。そっとしておく。

食器を流しに下げて自室に戻ると、六畳の部屋はいつも通り、教科書と文庫本と、洗濯物になりかけのパーカーで散らかっていた。

机の上にはノートPCと数冊のノート。窓からは、さっき電車の窓越しに見たのと同じ住宅街の屋根と送電塔が見える。位置が少し変わっただけで、風景のつまらなさは変わらない。

宿題をやるふりをして、英単語帳を数ページめくる。集中できない。ページの文字が、さっきの中吊り広告のコピーと重なる。

『ちょっとだけ勇気がいる夜のために』

時計を見ると、まだ九時前だった。夜というには、少し早い。

ベッドに仰向けになって、スマホを顔の前に掲げる。動画アプリを開き、人気のある動画をいくつかタップしては、すぐに閉じる。笑い声もド派手な編集も、今の僕には全部「誰かの物語」にしか見えない。

電子書籍アプリを開いて、途中まで読んでいるライトノベルのカバーを眺める。主人公らしい主人公。波乱万丈の恋とバトル。ページをめくる前に、指が止まる。

(ここには、僕はいない)

分かりきったことが、やけに鮮明に思えてしまった。

ホーム画面に戻り、アプリストアのアイコンをタップする。検索窓に、さっき聞いた単語を打ち込む。

「ルーム」

候補の一番上に、それらしいロゴが現れた。淡い青いアイコン。説明文には、『AIがあなたの悩みをお聞きします』『24時間いつでも匿名で』と、広告で見たような言葉が並んでいる。

インストールボタンを押すと、進捗バーがじわじわと伸びていく。その何秒かのあいだに、アプリを落とす言い訳を探してみるけれど、見つからない。

起動すると、まず利用規約の画面が現れた。細かい文字が、画面いっぱいにびっしりと並んでいる。

『本サービスはテスト運用中です』『会話内容は匿名化のうえ、サービス向上および研究目的で利用されることがあります』

今の僕なら、ここで一度深呼吸してページを読み直すだろう。でも当時の僕は、親指で一番下まで一気にスクロールし、「同意する」に迷いなく触れた。

(ちゃんと読め、って今なら思う)

ユーザー名を入力する欄には、「ランダムIDを使う」というチェックボックスが初期設定でオンになっていた。そこに表示されたのは、無機質な英数字の羅列。

「qe7B39ed」

画面の隅に、小さく「後から変更できます」と書かれている。

自分でハンドルネームを考えることもできた。でも、「何者でもない感じ」が、このランダムIDには似合っていると思った。自分で選んだ名前よりも、よっぽど自分らしい気がしてしまうあたりが、少し情けない。

「このままでいいや」

そう決めて、次へ進む。

チャットルームへの入室画面は、拍子抜けするくらいシンプルだった。上の方に『chatroom-98309fda』という味気ないルームID。空白のチャット欄。下には、メッセージを入力するためのテキストボックス。

そこに、カーソルが点滅している。

何かを打ち込まなければ、この部屋は永遠に空のままだ。

(大したことじゃないことを話す場所が、ひとつくらいあってもいいか)

自分に向かってそう呟いてみる。それは言い訳であり、祈りでもあった。

親指で、ゆっくりと文字を打っていく。

『ここって、主役になれない人が愚痴る場所ですよね』

画面の上に、その一文が現れる。削除キーを押せば、痕跡ごと消せるうちに。

「主役になれない人」

打ちながら、自分のことをそう呼んでいることに、少しだけ笑えてきた。どこまでいっても、「物語」の比喩から離れられない。

送信ボタンは、画面の右下で小さく光っている。オレンジ色の輪郭が、親指の影に隠れたり現れたりする。

押せば、何かが始まるかもしれない。押さなければ、何も起こらない。僕の一日は、ただそこで終わる。

親指が、ゆっくりとそのボタンの上に乗る。

その瞬間、中学の雨の日の教室の風景が、ふっと脳裏の端をかすめた。

僕は、画面と、自分の指先と、その奥に揺らぐ記憶を同時に見つめながら、ほんの少しだけ躊躇した。