リュックサックを背負うときに、チャックが開いていたことに気づかず、本を落としてしまいました。
「すみません。帰りましょうか」
『三四郎』の文庫本をリュックに入れ直し、背負い直します。
相合傘は、嫌ではありません。生まれて初めて相合傘をするというだけの話です。
「ノラ、来なかったですね」
傘の中で、彼が呟きました。彼は小動物のようだと思っていましたが、意外にも身長があります。俺と同じくらいです。彼は細身に反してかなり食べます。栄養がどこに入っているのか、わかりません。あの繊細な鉛筆画への集中力や体力で消費しているのかもしれません。
「すっかり、ノラ呼びですね」
「あの子の本当の名前、何ですか?」
「……無かったと思います」
嘘です。あなたがつけた名がありました。でも、彼にとってあの野良猫はノラだから、訂正しません。
「イプセンの女ですか?」
「え?」
「ノラです。『人形の家』のノラですか?」
俺が訊ねると、彼の足が止まりました。
「あ、はい。そうです」
彼は頷いて、また歩き始めます。
「ノラちゃんには、自由に生きてもらいたいですね」
「ですね。野良猫だもん」
「自由に飛べびたいと思いますか?」
「猫が飛べるわけ……いえ、いいえ。だって、飛びたいんですもの」
彼と俺の間にしか成立しない会話。わかる奴だけ、わかれば良いのです。彼の好きなものと通じた気がして、ひとつの傘が窮屈には感じません。
「あのね、先輩」
傘の中で、彼の声が優しく響きます。
「俺の両親は、若い頃から競技かるたをやっていて、同じ会に入っていたのがきっかけで結婚したらしいです。俺も小学校に上がる前にかるたを始めて、A級を目指せるくらいの実力はありました。絵を描くのも好きで、夏休みの宿題のポスターは毎年のように表彰されていました。かるたさえやっていれば、他に好きなことをやっていても文句を言わない親です」
そろそろ駅に着きます。
「中学生になって、国語の資料集に小倉百人一首が載っていることを知りました。それまでは競技かるたの読札と取札でしかなかった百人一首ひとつひとつに作者がいて、意味があって、歴史があることを知った途端に、一気に視界が開いた気がしました。絵を描くときも、百人一首から着想を得ることが増えました。文集の表紙の絵を描いたとき、2番の『春過ぎて』をイメージしたくらいです。キャンプ場でテントが風に煽られる絵だったんですけど、俺だけわかれば良いと思っていました。国語の資料集って、本当に面白くて、ラノベとは違う文学に魅入られてしまいました。でも、親父はそれを良く思っていなくて、9番の札が読まれたときに俺が11番を気にしていたことに気づかれてから、親父の態度が変わりました。お前はもう本を読むな、と。本を読むせいで、かるたが疎かになる。会に所属しているから高校の競技かるた部に入る必要も無いし美術部を続けることも悪くないが、かるたに支障が出ることはやるな、と。親父の言う通りなんです。36番と42番と62番……清原深養父と清原元輔と清少納言の歌が横並びになっていたときに、心の中で盛り上がっても、親父にとっては悪いことなんです。今日も、11番が読まれたときに9番に気が移っていたし、56番と60番の組み合わせだって、俺には熱いんです。でも、かるたをやる上では……すみません。こんな話、先輩にはどうでも良いのに」
駅に着きました。
「好きです」
彼は、傘を持っていない方の手で目元を拭います。
「傘の中で響く先輩の声が、優しくて、好きです」
軒下で傘を閉じ、改札に入り、彼と別れます。ホームの端で、反対側のホームから電車に乗った彼を見送り、雨が止んだことに気づきました。俺は本当に、度胸の無い者です。彼の話をただ聞くだけで、気の利いたことは言えませんでした。彼が帰宅して父親に責められないか不安はあります。それなのに、知らなかった彼の一面を知ることができた今日という日に満足している自分がいます。俺にできることは、美術室に来た彼を迎えること。そう信じて、ホームに来た電車に乗りました。
「すみません。帰りましょうか」
『三四郎』の文庫本をリュックに入れ直し、背負い直します。
相合傘は、嫌ではありません。生まれて初めて相合傘をするというだけの話です。
「ノラ、来なかったですね」
傘の中で、彼が呟きました。彼は小動物のようだと思っていましたが、意外にも身長があります。俺と同じくらいです。彼は細身に反してかなり食べます。栄養がどこに入っているのか、わかりません。あの繊細な鉛筆画への集中力や体力で消費しているのかもしれません。
「すっかり、ノラ呼びですね」
「あの子の本当の名前、何ですか?」
「……無かったと思います」
嘘です。あなたがつけた名がありました。でも、彼にとってあの野良猫はノラだから、訂正しません。
「イプセンの女ですか?」
「え?」
「ノラです。『人形の家』のノラですか?」
俺が訊ねると、彼の足が止まりました。
「あ、はい。そうです」
彼は頷いて、また歩き始めます。
「ノラちゃんには、自由に生きてもらいたいですね」
「ですね。野良猫だもん」
「自由に飛べびたいと思いますか?」
「猫が飛べるわけ……いえ、いいえ。だって、飛びたいんですもの」
彼と俺の間にしか成立しない会話。わかる奴だけ、わかれば良いのです。彼の好きなものと通じた気がして、ひとつの傘が窮屈には感じません。
「あのね、先輩」
傘の中で、彼の声が優しく響きます。
「俺の両親は、若い頃から競技かるたをやっていて、同じ会に入っていたのがきっかけで結婚したらしいです。俺も小学校に上がる前にかるたを始めて、A級を目指せるくらいの実力はありました。絵を描くのも好きで、夏休みの宿題のポスターは毎年のように表彰されていました。かるたさえやっていれば、他に好きなことをやっていても文句を言わない親です」
そろそろ駅に着きます。
「中学生になって、国語の資料集に小倉百人一首が載っていることを知りました。それまでは競技かるたの読札と取札でしかなかった百人一首ひとつひとつに作者がいて、意味があって、歴史があることを知った途端に、一気に視界が開いた気がしました。絵を描くときも、百人一首から着想を得ることが増えました。文集の表紙の絵を描いたとき、2番の『春過ぎて』をイメージしたくらいです。キャンプ場でテントが風に煽られる絵だったんですけど、俺だけわかれば良いと思っていました。国語の資料集って、本当に面白くて、ラノベとは違う文学に魅入られてしまいました。でも、親父はそれを良く思っていなくて、9番の札が読まれたときに俺が11番を気にしていたことに気づかれてから、親父の態度が変わりました。お前はもう本を読むな、と。本を読むせいで、かるたが疎かになる。会に所属しているから高校の競技かるた部に入る必要も無いし美術部を続けることも悪くないが、かるたに支障が出ることはやるな、と。親父の言う通りなんです。36番と42番と62番……清原深養父と清原元輔と清少納言の歌が横並びになっていたときに、心の中で盛り上がっても、親父にとっては悪いことなんです。今日も、11番が読まれたときに9番に気が移っていたし、56番と60番の組み合わせだって、俺には熱いんです。でも、かるたをやる上では……すみません。こんな話、先輩にはどうでも良いのに」
駅に着きました。
「好きです」
彼は、傘を持っていない方の手で目元を拭います。
「傘の中で響く先輩の声が、優しくて、好きです」
軒下で傘を閉じ、改札に入り、彼と別れます。ホームの端で、反対側のホームから電車に乗った彼を見送り、雨が止んだことに気づきました。俺は本当に、度胸の無い者です。彼の話をただ聞くだけで、気の利いたことは言えませんでした。彼が帰宅して父親に責められないか不安はあります。それなのに、知らなかった彼の一面を知ることができた今日という日に満足している自分がいます。俺にできることは、美術室に来た彼を迎えること。そう信じて、ホームに来た電車に乗りました。

