泣き疲れた彼は、美術室の床で眠ってしまいました。その間に、俺はミーアキャットの絵に取りかかります。
 ミーアキャットの絵は、墨絵風の、墨汁を基調とした日本画にすることに決めました。少しだけ水彩絵の具を使いますが、基本は墨と薄墨。秋の文化祭まで保てば後で破棄しても構わないと思っています。キャンバスに油絵の具とか、絹本着色とか、顧問が提案してくれましたが、部費の範囲内で良い和紙を買わせてもらいました。絵を描く和紙と、それを貼る巻物風の和紙の2種類です。
「……先輩?」
「おはようございます」
「床で描いてるんですか!」
 寝ぼけ眼の彼が、大きな目を見開きました。俺は筆を置き、少し休憩します。
「テーブルに広げると全体が見えないので」
「時代劇の絵師みたいだ」
「時代劇、見たことあるんですか」
 軽くつっこみを入れたつもりでしたが、冷静になってみれば、文学が好きそうな彼が時代劇を見ていてもおかしくありません。
「おじいちゃんが、朝の再放送を」
「朝どころか、もはや深夜なのでは」
「ですね」
 彼は、ミーアキャットの絵を覗き込みます。
「ミーアキャットの学校だ! 絵本みたい! 遅刻しそうな子がいる! この子は早弁してる! 見てるだけで楽しい!」
 彼の大きな目が光を宿し、きらきら輝くように見えました。何かに気づいたミーアキャットのようです。しかし、興味は絵から他のものに移ります。
「ノラ……猫、いないですね」
「毎日来るわけじゃないですよ」
「……そうなんですね」
 彼は、しゅんとなってしまいました。なぜでしょう、俺は変な感情が芽生える錯覚を起こしました。筆を持とうとしても、気が進みません。
「ノラちゃんが来たら、遊んであげて下さい」
「……うん」
 不謹慎ですが、項垂れる彼を、可愛いと思ってしまいました。
「ノラがいないなら、帰ります。先輩は、どうしますか?」
「俺も、片づけて帰りたいところですが……」
 外は雨が降っています。気象情報では夜から降る予想になっていたため、傘を持ってきていません。高校から駅まで徒歩で10分はかかります。途中にコンビニが無いため、ビニール傘を買うこともできません。
 昨年までは職員室で傘の貸し出しがありましたが、紛失の多さと、貸し出し用の傘の先端で電車内で客に怪我をさせてしまった生徒がいたことで、今年度から傘の貸し出しは行われなくなりました。
「……もう少し、作業してから帰ります」
 彼を先に帰らせるつもりでしたが、彼は頬を膨らませて眉根を寄せます。
「仕方ないですね。俺の傘を使って下さい」
「そんなことをしたら、きみの傘がなくなってしまいます」
「大きいから平気です」
 不服の顔です。俺が折れるしかなさそうです。嫌ではありません。
 嫌ではありません。この学校で相合傘は珍しくない光景です。傘の貸し出しがなくなってから、相合傘で駅に向かう生徒を見かけることが増えました。男女の相合傘は見かけませんが、男子同士、女子同士は普通に見かけます。バスを待つ女子を一時的に自分の傘に入れる男子を見たことがありましたが、その日は土砂降りで女子は傘を持っていなかったので、「お前ら付き合ってんのか」という空気にはなりませんでした。
 外は雨足が強くなっています。傘をささずに帰るのは危険ですし、バスは本数が少なく電車の時間とも上手く合わないので、バスを利用する気はありません。
 やはり、彼の傘に入れてもらうしかなさそうです。嫌ではありません。