彼が美術部に転がり込んできて、彼と関わるようになって、彼のことを少しずつ知ることになりました。
 彼は鉛筆画が得意で、モノクロで繊細な絵を描きます。実際の風景だったり、漫画の背景のようなディストピア感溢れる街並みだったり、磁器のつるんとした質感や光もまるで実物のように描きます。白と黒で表現するのがもったいないほどの臨場感でありながら、むしろモノクロだからこそ映える画風が持ち味です。
 彼の中学校の文集の表紙は、毎年美術部員が鉛筆画で描いているそうで、彼が手がけた表紙を見せてもらったことがあります。彼本人からではなく、美術部の顧問がどこからか入手したものです。設置途中のテントが風に煽られている絵で、周りの木々の枝葉の動きも細かく描かれていて、それでいて初夏の爽やかさを彷彿とさせる作品でした。
「――春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ(ちょう)天《あま》の香具山」
 俺が唯一暗記している百人一首のひとつが、思わず口からこぼれました。
 彼について知ったことが、もうひとつ。彼は文学作品が好きなようです。無意識のうちに暗唱していることがありました。夏目漱石の『三四郎』がリュックサックから見えたこともあります。美術室に出入りする野良猫をノラと呼んでいたことも気になり、少し調べてみました。
「あいつも、まあ、色々思うところがあるみたいなんだよ」
 顧問は、にやりと笑いました。こんな表情もするんですね。
「知りたいか?」
「結構です」
 はっきり断ると、顧問は、わかりやすいリアクションで拍子抜けしてしまいました。
「僕に勝ったら教えてやる、って言おうとしたんだけどな」
 顧問が手にしているのは、競技かるたのセットです。校内の貸し出し用に職員室に置かれているものです。頭が痛くなる気がしました。
 この高校では6月になると、競技かるた大会が行われます。有り体に申し上げると、誰も楽しみにしていません。開校時に、他校との差別化を図るために当時の校長が発案したそうです。昔は、数日かけて個人戦で全生徒が参加させられたそうですが、病気や怪我で正座ができない生徒や内部障害への配慮から、今は人数を絞って団体戦を行っています。この大会に、俺も出場することになってしまいました。
「……でも、少し練習したいです」
「じゃあ、俺から1枚取れたら、あいつのことを教えよう」
「結構です」
「つまらない奴だな」
 顧問は、美術室の床に札を並べ、スマートフォンを出しました。かるたを読むのはどうするのか訊こうとしたとき、スマホから「難波津に咲くやこの花冬ごもり」と聞こえてきました。読み手の代わりのアプリのようです。この和歌は導入の歌なので、取札には、ありません。昨年の大会では、ここでかなりの人数の生徒が動揺していたのを、今でも覚えています。そんなことより、耳を澄ませて集中しなくてはなりません。
『は――』
 一音聞こえたか聞こえないかのタイミングで、顧問が札を叩きました。まるで手裏剣のように飛ばされた札に、丸くなって昼寝をしていた野良猫が驚いて逃げてしまいました。
「久々にやったから、体が鈍ってんべ」
 顧問は訛った独り言を吐いて札を回収しました。その札は「ころもほすてうあまのかくやま」。俺が唯一覚えていた札は、最初に取られてしまいました。
「ずるいです」
 美術教師で競技かるたもできるとか、どんな才能ですか。
「ずるい、か? 二の足を踏んでいると、手に入るものも入らないよ」
 結局、俺は一枚も札を取ることができないまま、完敗しました。顧問の札の取り方が鮮やか過ぎて、悔しいというより圧倒されてしまいました。それでも、負け惜しみでこれだけは言います。
「……手に入れるタイミングが早過ぎても、失ってしまうだけです」
 あなたのことを思い出してしまいました。あなたを手に入れようと焦った俺を優しく律して、未来を約束してくれた、あなたを。もう二度と、手を伸ばしても届くことは叶わない、あなたを。