寝たのか寝なかったのかわからないまま朝を迎え、スケッチブックをリュックに入れて家を出ました。
 今日は土曜日。文化祭初日。スケッチブックから作品を外して展示すれば良いと思っていたのに、駅の改札を出たところで足が止まってしまいました。
 同じ制服を着た生徒が次々に改札を出て学校に向かうのに、俺はその波に乗れません。発券機の上の、路線と乗車賃の図を眺め、気づきました。新幹線に乗ればあの場所に着くのではないかと。
 予想は的中しました。後先考えずに特急券を購入し、再び改札に入ります。在来線から新幹線に乗り換え、自由席に腰を下ろすと、眠気に襲われました。夢を見る間もなく、目が覚めると目的地に着いていました。
 初めて自分で特急券を購入して新幹線で向かったのは、長野駅です。週末ということもあり、明らかに他所の制服を着た高校生()を不審な目で見る人は、いません。
 観光客と一緒にバスに乗り、着いたのは、戸隠神社の中社。あなたと行くはずだった場所です。
 おかしいです。あなたのことを思い出して泣くつもりなのに、涙が出てきません。美術室であなたと過ごした他愛もない過去は思い出すのに、楽しかったことしか感じません。俺は、あなたを裏切りました。あなたを失った悲しみが薄れてしまったのです。
「あれ、先輩!?」
 聞き慣れた声に振り返ると、見知った姿がありました。
「え、なんで……?」
「なかなか描けなくて、実物を見に来ました!」
 にこっと笑うのは、彼です。しかし、すぐに彼は真面目な顔になります。
「文化祭! どうしよう!」
「あ……!」
 俺は文化祭をサボりました。彼も文化祭をバックレました。美術部の展示には、誰も部員がいないのことになってしまいます。
「……すみません、俺のせいで」
「俺だって、学校サボって来ちゃったから……でも、描きかけの絵を妥協したくなかったので、後悔はしていません!」
 何とも彼らしい思考です。俺の好きな、彼の良さです。俺は、彼のそんなところに惹かれました。
「でも、俺、先輩に悪いことをしちゃったのかなって、思ってます。先輩の気持ちを考えないで、自分のことばかり。だから先輩は、学校から距離を置いたのかと」
「それは違います。きみのせいではありません」
 泣きそうな彼に手を伸ばし、火照った頬に触れてしまいました。繊細で、消えてしまいそうで、蛍火みたいです。
「先輩、せっかく来たから観光しましょう。神社の天井に龍の絵があるんだって」
「社の中に入れるでしょうか?」
「覗いてみる!」
 神社の中は、祈祷か神事でないと入れないようですが、外からでも天井絵が見えるスポットがありました。
「河鍋暁斎は、お酒を飲んで酔った状態で大きな絵を描くパフォーマンスをすることもあったそうですよ」
「俺もやろうかな」
「俺が先にやりますね」
「先輩、張り合うところじゃないです」
「じゃあ、全力で止めます」
 思わず彼を抱きしめます。彼は抗ったりふざけることなく、黙ってしまいました。抱擁を解いて顔を覗き込むと、彼は真剣な眼差しで天井絵を見つめています。絵のことを考えている表情です。俺が好きな、彼が自分の作品のことを考えている顔です。
 あなたを思い出して深い悲しみに打ちひしがれるはずだったのに、彼との時間を楽しんで彼への気持ちを確かめることになってしまいました。
「あ、あの……すみません、先輩」
「大丈夫ですよ。描きますか?」
「描きます!」
 彼はスケッチブックを出しましたが、神職にロックオンされている感があり、写真を撮りながら一通り観光して市街地に戻ることにしました。バス停で、バスの中で、昼食の蕎麦屋で、彼はスケッチブックに鉛筆をはしらせます。スランプだった描きかけの絵のモデルが戸隠神社だったとは、今知りました。
 俺のスマートフォンには、親から「体調不良で欠席ってことにしといたよ〜」と明るい調子でラインが来ていました。顧問からは「文芸部の1年生が手伝いに来てくれた」と報告がありました。大事にならず、安心しました。
 彼は新幹線で俺の隣に座っても、鉛筆を離しません。戸隠神社の裏の森の中に、龍の姿が隠れています。描きたいものが見つかった彼に、迷いはありません。彼のことだから、明日までには描き上がって、展示に間に合うでしょう。
「……ちょっと、休憩」
 彼は鉛筆をペンケースにしまい、大きく息を吐きました。
「先輩も、何か描いていましたよね?」
「描きました。でも、学校で展示するのは、ちょっと」
「エロいのでも描いたんですか?」
「そんなところです」
 今日一日で、彼を待つ自分の心象なんて、とても展示できないと思い直しました。でも、いつか、彼にだけ見せるかもしれません。
 うつらうつら寝そうな彼に、俺は寄りかかります。
「伝えていなかったことがあります」
 彼は、ん、と口をわずかに動かしました。唇を奪ってしまいたい衝動に駆られながら、黙って実力行使するのは卑怯だと思い直し、言葉で伝えます。
「好きです」
 彼に聞こえたかどうか、わかりません。明日また会い、なんてことない話をして過ごし、ふとした瞬間に、好きな一面に気づく。そんな日が来ることを望む自分がいます。
 俺は、彼が好きです。
 俺は、あなたが好きでした。